「藤原利仁」武士の時代を先駆けた伝説の将軍 芥川龍之介「芋粥」にも登場

『前賢故実』(菊池容斎 画)に描かれた藤原利仁
『前賢故実』(菊池容斎 画)に描かれた藤原利仁
藤原利仁(ふじわらのとしひと)は平安時代中期の軍事貴族です。『平家物語』など後世の書物にも伝説の名将として名が上がります。

史料から確認できる史実は断片的なことに限られますが、武士の勃興期に活躍し、鎮守府将軍に任じられ、後世、「利仁(りじん)将軍」として多くの武士に崇拝されました。

芥川龍之介の小説「芋粥」にも登場します。「レジェンド」藤原利仁の実像と伝説に迫ります。

武門の最高栄誉職・鎮守府将軍に就く

藤原利仁は生没年不詳ですが、延喜年間(901~923年)の活動歴から9世紀後半~10世紀前半に活躍したとみられます。

父は藤原時長。美濃介、常陸介など国司を歴任した貴族で「民部卿時長」と呼ばれています。『日本三代実録』によると、肥後守に任じられたのに赴任せず、降格の憂き目に遭っています。母は越前国の豪族・秦豊国の娘。利仁自身、越前・敦賀の豪族の婿となり、越前に地盤を持つようになります。

関東に深いつながり 各国の国司を歴任

利仁は延喜11年(911)に上野介、延喜16年(916)に上総介に任官。上総介任官は延喜12年(912)説もあります。武蔵守を含め関東の国司を歴任しました。

また、系図『尊卑分脈』では延喜15年(915)に鎮守府将軍就任。『侍中群要』に、延喜14年(914)年、「藤原利平」の鎮守府将軍任官の記事があり、これが「藤原利仁」の誤記と解釈されています。なお、藤原利平は『尊卑分脈』の藤原北家内麻呂流に名のある実在の人物。誤記と決めつけてよいかどうか微妙なところです。

鎮守府将軍は陸奥に置かれた鎮守府の長官。鎮守府は陸奥国府のある多賀城(宮城県多賀城市)から独立して胆沢城(岩手県奥州市)に移され、陸奥北部の奥六郡の徴税権を持つなど蝦夷(えみし)支配のための独立官庁として機能します。この時代、征夷大将軍は臨時職で、鎮守府将軍が平時ただ一人の将軍、武門の最高栄誉職とされていました。

また、利仁が国司を歴任した時期、関東は戦乱が相次いでいました。利仁は東国の戦乱鎮圧や治安維持を期待されていたと思われます。

鞍馬寺に伝わる宇都宮の悪党征伐と獅子舞

鞍馬寺(京都府京都市左京区)には藤原利仁の武勇を示す伝説があります。

『鞍馬蓋寺縁起』です。下野の高座山に盗賊1000人が集まり、人々を苦しめます。討伐を命じられた利仁は鞍馬山に参詣して出陣。現地到着は6月15日で、部下にかんじき(雪上を歩く履物)を作らせます。「雪は降ると思うか」と尋ね、「夏に雪が降るはずはありません」と答えた部下を斬殺。ほかの部下に尋ねると、利仁を恐れて「きっと降ります」と答えます。そして夜半に雪が降って積もり、利仁の兵はかんじきを履いて雪上を駆けあがり、盗賊集団を征伐します。利仁の武名は大いに天下にとどろきます。

鞍馬寺縁起と「天下一関白神獅子舞」

この盗賊討伐の話は舞台となった栃木県宇都宮市の民俗芸能「天下一関白神獅子舞」につながります。

獅子舞の由来記によれば、利仁の盗賊討伐は延喜12年(912)、盗賊の頭目は蔵宗、蔵安兄弟。利仁は蔵宗、蔵安兄弟の首を取りましたが、病に倒れ、ついに不帰の客になってしまいます。葬式の日、悪霊の仕業で空が真っ暗になり、黒雲を振り払うために始まったのが獅子舞でした。

2人以上で1頭の獅子を演じるスタイルではなく、3人がそれぞれ立ち姿で獅子を演じて舞う3人立ちの獅子舞です。栃木県内各地に似たスタイルの「関白流獅子舞」があり、「天下一関白神獅子舞」がその源流とされています。関白藤原氏が利仁の墓参に来たという言い伝えが、「関白」の地名として残り、獅子舞の名称の由来。しかし、関白はもちろん、利仁もこの地に来たのかどうか、確かな史料からは確認できません。

芥川龍之介の名作につながる「芋粥」の説話

藤原利仁は後の時代の書物にも伝説的武将として名が登場します。

『平家物語』6巻「廻文」では木曽義仲が自身の強さを誇る際、「上古の田村、利仁、与五(余五)将軍、知頼(致頼)、保昌、先祖頼光、義家朝臣」と、坂上田村麻呂、藤原利仁、余五将軍・平維茂、平致頼、藤原保昌、源頼光、源義家の名を挙げます。また、『保元物語』や『吾妻鏡』『太平記』などにも坂上田村麻呂と並び称されたり、武士が家柄を誇る際に先祖として名を上げたりします。

中級貴族を圧倒、地方の豊かさ見せつける

一方、名将伝説とは一味違ったエピソードもあります。芥川龍之介の短編小説「芋粥」は『宇治拾遺物語』や『今昔物語集』を題材にしていますが、その物語に利仁が登場します。

「今は昔、利仁将軍が若かった時」と物語は始まります。利仁は摂政関白を務めた藤原基経に仕えていましたが、先輩に五位の者がいて、「芋粥を存分に食いたいものだ」と言うと、利仁が「それなら、わが家でごちそうしましょう」と申し出ます。五位は位階で、名も官職も不明ですが、五位の者として話は進みます。後日、利仁が五位を誘い出し、馬も貸して出発。どこへ行くのやらと思う間に所領の敦賀まで連れ出します。途中、キツネを捕まえて屋敷への使いとして走らせ、到着後は夜具やら着物やら手厚く五位を接待し、そして夜が明けると、利仁の配下がヤマイモを持参して次から次へと集まり、ついに屋敷の軒の高さに積み上げます。そして大量のヤマイモを煮始めますが、五位はこれを見ただけでもう食べる気を失ってうんざりしてしまいます。出された芋粥を1杯も食べないうちから「もう十分満腹です」と言い、どっと笑いが起きます。

五位は十分地位のある貴族です。それでも利仁の財力にはあきれるしかありません。たわいない説話のようですが、地方豪族の財力の凄まじさと平凡な官僚としての中級貴族の対比を示しているのです。

芥川の作品では、うだつの上がらない小役人として描かれる五位が主人公。長年の願望があっさり実現しそうな現実を前にした五位の心情の解釈、落ち着きのなさが面白く、利仁はあくまで脇役。ですが、芥川は「肩幅の広い、身の丈の群を抜いたたくましい大男」と外見を描写。まさにイメージ通りです。

新羅征伐に向かうも敵の調伏で急死

『今昔物語集』には、新羅征伐に派遣された利仁が、唐の法全阿闍梨(はっせんあじゃり)の調伏で急死する話があります。

出発のとき、突然病となり、虚空に大刀を振りかざしつつ死んでしまいます。しかし、文徳天皇(在位850~858年)の時期とされ、時代が合いません。『古事談』にも引用され、ここでは宇多天皇(在位887~897年)の時期に円珍が調伏したとなっていますが、これも、その後の活動歴と矛盾します。そもそも、このころ新羅討伐計画があったとは確認されていません。

『今昔物語集』『古事談』の記述は史実に反するものの、越前・敦賀に地盤を持つ利仁が海賊討伐などの遠征任務にあたり、ときに日本海の新羅海賊にも手を焼いたのではないかと想像されます。

斎藤氏、加藤氏…武家藤原氏につながる

藤原北家からは、藤原秀郷の子孫が多くの名門武家を輩出していますが、藤原利仁の子孫もいくつかの武家につながります。

秀郷も利仁も藤原北家の祖・藤原房前(ふささき)の五男・魚名(うおな)の子孫です。ちなみに摂関家、藤原氏主流は房前三男の真楯(またて)の子孫です。魚名の子のうち、鷲取(わしとり)が利仁に、藤成(ふじなり)が秀郷につながります。

利仁の子孫の武士には斎藤氏、加藤氏、後藤氏、富樫氏らがいます。利仁の次男・叙用(のぶもち)は斎宮頭に任じられ、官職名から斎藤氏の祖となります。叙用の子・斎藤吉信が加賀介に任じられ、北陸で発展。吉信の曽孫で加賀介の景通が加藤氏を称したようです。

利仁の子孫には、2歳の木曽義仲を戦乱から救いながら、その後平家に従軍して木曽勢に討たれた斎藤実盛、逃亡中の源義経一行を見とがめながら、武蔵坊弁慶の「勧進帳」に通行を許したという『義経記』の逸話で知られる富樫泰家らがいます。

おわりに

フィクションの姿が大きく、藤原利仁の実像はつかみにくい面もあります。新羅遠征や宇都宮の悪党征伐後の死去は史実と矛盾し、「芋粥」も昔話。しかし、その中に京の貴族が驚嘆し、後世の武士が崇拝した魅力が垣間見えます。

国司として赴任した戦乱相次ぐ関東、鎮守府将軍が直面する蝦夷(えみし)や辺境地域、さらに海賊と異国との接点である日本海に面した根拠地・敦賀。利仁は異界の者と直面し、異界から京を守る武官として畏敬の対象だったのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 関幸彦『武士の誕生 坂東の兵どもの夢』(日本放送出版協会)NHKブックス
  • 野口実『伝説の将軍 藤原秀郷』(吉川弘文館)
  • 高橋貢、増古和子訳『宇治拾遺物語 全訳注』(講談社)講談社学術文庫
  • 武石彰夫訳『今昔物語集本朝世俗篇 全現代語訳』(講談社)講談社学術文庫
  • 源顕兼編、伊東玉美校訂・訳『古事談』(筑摩書房)ちくま学芸文庫

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。