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忠臣蔵の陰に隠された吉良家の悲劇とは

吉良義周の墓所(長野県諏訪市法華寺)
吉良義周の墓所(長野県諏訪市法華寺)
 江戸時代中期の元禄15年(1702)に起きた赤穂浪士による吉良邸襲撃事件で、討ち取られた吉良上野介(義央)は、自身の命が奪われただけでなく、事件のとばっちりを受けて吉良家そのものも断絶の憂き目に遭ってしまったのです。当時吉良家の当主だったのは吉良義周。その数奇で悲劇的な運命を紐解いていきます。

吉良邸襲撃事件とは

 吉良義周を語る前に、吉良邸襲撃事件について触れておきましょう。

 事件前年の元禄14年(1701)、赤穂藩主だった浅野内匠頭(長矩)が、江戸城内で吉良上野介に切りかかるという刃傷ざたが起きたことが発端となります。内匠頭は即日切腹となったのに対し、上野介は「おとがめなし」という裁定になったのです。

 赤穂藩浅野家はお家断絶となって取り潰され、家臣たちは路頭に迷う羽目になります。お家再興を嘆願してきた大石内蔵助(良雄)らは、再興の願いを断たれると、上野介を「主君のかたき」ととらえ、あだ討ちを計画します。

 そして元禄15年12月14日、大石ら47人の赤穂浪士たちは、東京本所にある吉良邸に討ち入りをし、見事に上野介の首を取ったのです。

吉良家とはどんな家柄だったのか

 吉良家は、先祖が源氏出身で足利将軍家につながる血筋でした。徳川幕府では、儀礼や典礼をつかさどる「高家」を代々継いでおり、上野介も大名たちに作法などを指南する立場にあったのです。また、妻には米沢藩主である上杉綱勝の妹を迎えていました。

 米沢藩は、寛文4年(1664)に綱勝が急死してしまい、跡継ぎがなくお家断絶のピンチに陥ります。これを救ったのが、上野介の実子である三之助でした。生まれたばかりだった三之助(のちの上杉綱憲)が上杉家の養子に入ったことで、命脈が保たれたのです。

 その後、今度は吉良家に後継者がいなくなってしまいました。上野介は、上杉家から綱憲の子を養子に迎えて跡取りにします。これが吉良義周で、上野介にとっては外孫にあたる人物でした。

赤穂浪士の討ち入りで義周は?

 上野介は、浅野内匠頭の刃傷ざたがあった翌年、家督を義周に譲ります。この年の12月に赤穂浪士の討ち入り(襲撃)が行われるわけですが、その時には上野介は隠居の身であり、当主は義周だったのです。

 完全武装した浪士たちに対し、襲撃された吉良邸の者たちは無防備のまま戦わなければなりません。義周も薙刀(なぎなた)を手にして応戦したそうですが、ケガをしたことで戦線離脱となってしまいました。

 赤穂浪士の吉良邸襲撃の一報は上杉家にも入ってきました。綱憲にとって、実の父親と息子に危機が迫っていたわけですが、援軍を送ることは止められました。事件に巻き込まれれば、上杉家の存亡にもかかわってしまうためです。さぞや断腸の思いだったでしょう。

義周が受けた非情な裁定

 事件後、幕府は吉良家に対して「お家断絶」という厳しい処分を課しました。義周が生きのびたことに対して、「仕方不届」だと断罪したのです。あまりにも理不尽な裁定ではありましたが、幕府の命なので従うしかありません。

 領地を没収された義周は、信州高島藩(長野県)にお預けとなり、高島城内に幽閉されます。世間では、赤穂浪士に対する評判がうなぎ上りとなる一方で、吉良上野介や吉良家に対する同情は少しもなかったと言われています。

 己には罪も非もないのに流罪の身となってしまった義周は、生きる力まで失われていったのでしょう。事件から3年後の宝永3年(1706)に病死してしまいます。享年21歳という悲劇的な生涯の幕切れでした。

おわりに

 吉良義周の墓所は、諏訪大社上社本宮近くの法華寺裏手にあります。毎年6月には義周の墓所で供養祭が行われており、諏訪市の関係者だけでなく、吉良氏の領地だった愛知県西尾市(旧吉良町)からも参列者が訪れています。

 墓所には吉良町から贈られた案内板が設置されており、文面には「公よ、あなたは元禄事件最大の被害者であった」と綴られています。事件から300年以上経った今、吉良上野介を再評価する動きが見られるようになったことは、せめてもの慰めになるでしょうか。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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