江戸時代の農村に休日はあった? ~江戸の暦と遊び日

『日本風俗図絵』より(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『日本風俗図絵』より(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
「あれ、今日って何日だっけ?」と思ったとき、スマホやカレンダーを見れば、すぐに何月何日なのかわかりますよね。

1月1日はお正月、3月3日はひな祭り、5月5日はこどもの日。私たちは、暦を基準にして日々の生活を送っているといっても過言ではありません。仕事や勉学をするときも、それは同じ。シフトごとのお仕事もありますが、平日と休日は一般的に「平日=月曜から金曜」「休日=土曜と日曜」とされています。

実は、江戸時代を主とした近世における村社会では、今のような「休日」はありませんでした。はたして、当時の休日とはどのようなものだったのでしょうか? 今回は「遊び日」と呼ばれる、農村での休日について解説します。

現代の新暦と江戸時代の旧暦

現代において、私たちが使っている「太陽暦(グレゴリオ暦)」は、地球が1年かけて太陽のまわりを一周する時間を基準としたものです。この太陽暦は、明治維新の際に樹立した新政府によって定められました。

暦が切り替わることを改暦といい、それまで使われていた「太陰太陽暦」は「旧暦」と呼ばれます。旧暦では月の満ち欠けを基準としていたので、月を見れば大体の日付がわかるようになっていました。新月は1日(朔日/さくじつ)、満月は15日といったように。

ただ、この暦で1年の長さを12ヶ月とすると、地球が太陽のまわりを一周する1年の長さと約11日のズレが生じます。それが何十年も続いた場合、1月に夏が来る、といったことになります。日本の旧暦では、そうしたズレを減らすため、約3年に1度「閏月(うるうづき)」をつくり、年ごとに1ヶ月が30日ある月(大の月)と29日ある月(小の月)をきめていました。

改暦は江戸時代にも行われていた

実は、江戸時代では4回も改暦が行われています。

もともと、暦は朝廷の陰陽寮(おんようりょう)が、平安時代の貞観4年(862)から毎年暦をつくっていました。ただ、江戸時代に印刷技術が発達しても、全国に暦を普及させるのには数が足りなかったようです。そのため、各地の暦師によって「伊勢暦(いせごよみ)」「三島暦(みしまごよみ)」などと呼ばれる地方暦がつくられていました。

しかし、平安時代から続いた長い暦の歴史の中で、江戸時代にはすでに、暦と実際の日蝕・月蝕などが合わなくなっていました。そこで、日本初の天文学者である渋川春海(しぶかわ はるみ)が暦法(れきほう/毎年の暦を作成するための方法)を改良し、日本独自の新しい太陰太陽暦を作りあげたのです。

この「貞享(じょうきょう)の改暦」によって、暦を計算する役割は朝廷から幕府へとうつり、「天文方(てんもんかた)」という職務が設置されます。江戸幕府では、その後もより精密な計算がくりかえされ、3回の改暦が行われていったのでした。

農村の休日は誰がきめていたのか

江戸幕府が定め、暦師が印刷し、日本全国へ配られていた暦。その暦をもとにして、農村では、休日をふくめた村ごとのきまり(村定/むらさだめ)を決定し、村内へ知らせていました。

当時の農村での休日とは、「村の祝祭日」と「農作業を休む日」のことです。その呼び名は地域によってさまざまでしたが、信州などの一部地域では「遊日(あそびび/あそぶひ)」と呼ばれることが多かったようです。

村の祝祭日には、節目を祝う五節供(節句)や、産土神(うぶすながみ)をはじめとした神社の祭りの日などがあります。

村では、休日に働くことはタブーとされていました。これは「怠け者の節供働き」という言葉が残っていることからもわかります。この意味は、「ふだん怠けている者こそ、節供などの休日に働く羽目になる」という批判めいたものでした。

そして神社の祭りのとき、運営をまかされるのは、「若者組」と呼ばれる集団でした。若者より上の年齢の人々は、若者組の後見人として指導する立場にあったのです。

祭りの日には花火をあげ、神輿を担ぎ、山車を練りだし、酒を飲んで遊ぶ。若者組は自分の村だけでなく、近くの村の祭りに対しても、道具の貸し借りや人員の補充などを積極的に行っていました。つまり、当時の村のお祭りは、他村との交流の場であり、若者たちの出会いの場でもあったのです。

勝手に休む=無断欠勤!?

こうした農村での休日は、江戸時代後期に増えていく傾向にあったようです。その理由として、火災や疫病の流行にともない、村へ新しい神社をたてる機会が増えたことも一因だとする説があります。

また、19世紀へ入ってから各農村で見られたのが、「願い遊び日(不時遊び日)」と呼ばれる、臨時の休日を村役人に願い出る動きでした。

さらには、村役人への手続きを省略して休むという「気儘(きまま)遊び日」や「勝手休日」と呼ばれるような休日も出てきたといいます。これは現代でいう、無断欠勤などと同じかもしれませんね。

各地域をとりしきる諸国諸藩では、こうした休日をおさえこむ狙いで「休日規則令」を定めました。

江戸時代における農村の休日

古川貞雄『村の遊び日』では、特に信州地方における村の休日について詳しく検証されていますが、そこからとある村の1年の休日を抜き出してみました。

信濃国上田領小県郡(ちいさがた)上塩尻村(現上田市)「天保四巳二月取極書」

正月 三ヶ日、7日、13日、15日、16日、20日
2月 1日、初午、17日、23日
3月 3日、13日、24日
4月 宗判(判押しの日/宗門人別帳の押印・作成の日)、山の口明け前1日(入山の解禁)
5月 農休み(田植え明け)
6月 17日、24日
7月 1日、7日、盆3日、27日、風祭り(立春から数えて210日より前に行う農作物安全の祈願)
8月 1日
9月 お触れ次第1日(伊勢講の日か、重陽の節句である9日のどちらかを村役人が選定して知らせる)
10月 秋休み(稲刈りまたは脱穀明け)

※『村の遊び日』30pより要約、()内は筆者注

当時、休日は基本的に「農作業が行われる月」である1~9月に限定して定められていました。これは、10~12月が農閑期であるためという説があります。

上塩尻村の休日は、農繁期の8・9月は休みが1日しかありません。5月と10~12月が休みとはいえ、相当ハードな印象です。

こうしてきめられた休日を、村の人々はどのように過ごしていたのでしょうか。

安政7年(1860)に書かれた『近世鳩山農事日記』の中の『岡田家日記』では、女性も男性もそれぞれ休日に何らかの家事を行っていたことがわかっています。

<武州比企郡須江村(現埼玉県比企郡鳩山町)における岡田家の休日の過ごしかた>

女性:炊事や針仕事などの日常の家事や機織り、糸とり・糸撚り
男性:年貢諸勘定や村役帳簿の記載、諸帳簿の整理や庭木の手入れなど
共通:村の鎮守社の祭礼や寺社への参詣、芝居や相撲見物

※『近世農民の日記を読む』58pより要約

また休日には、お餅やお米・赤飯や小豆飯など、平日よりも豪華な食事をすることが多かったようですね。

明治政府によるバタバタの改暦

明治5年(1872)、欧米化をすすめていた明治政府は、それまでの太陰太陽暦から太陽暦へと改暦を行いました。

旧暦で同年12月3日となるはずだった日は、新暦では明治6年1月1日となり、12月が2日しかないという事態に陥ったため、国内は非常に混乱したといいます。

また新暦では五節供の休日を廃止し、以下の休日が定められました。

1月 3日(元始祭)、5日(新年宴会)、30日(孝明天皇祭)
2月 11日(起源節)
4月 3日(神武天皇祭)
9月 17日(神嘗祭)
11月 3日(天長節/当時の天皇誕生日)、23日(新嘗祭)
『法令全書 明治6年』520pより引用

これに加えて明治9年(1876)には、土曜の午後と日曜が休日となる「週休制」が導入され、明治11年(1878)には春分・秋分の日が追加されます。

一連の改暦により、それまでの月に応じた季節感は失われてしまいました。明治政府は、数年間で新暦へ移行できると考えていたようですが、昭和21年(1946)に中央気象台が調査をした際には、いまだ旧暦を使っている農村や漁村が半数ほどあったとのことです。

おわりに

現在の私たちが使っている祝祭日は、昭和23年(1948)に定められた「国民の祝日に関する法律」によるものです。それ以降も、体育の日やハッピーマンデー制度など、さまざまな祝日が追加されています。

こうして歴史をたどってみると、江戸時代では村ごとに休日をきめたり、休日を願い出たりと、現代に似ている一面もあるように思いました。時代劇やドラマなどで見る当時の人々の暮らしも、よりリアルに感じられそうです。

江戸時代には、絵だけで描かれた暦(絵暦)や大小暦など、さまざまなタイプの暦が流行っていました。暦に興味を持たれた方は、ぜひ調べてみてくださいね。


【主な参考文献】
  • 『法令全書 明治6年』(内閣官報局、1887年)
  • 阿部昭「近世における民衆の休日慣行とその論理」『国士舘大学文学部人文学会紀要 21』(国士舘大学文学部人文学会、1988年)
  • 古川貞雄『増補 村の遊び日―自治の源流を探る』(農山漁村文化協会、2003年)
  • 宮田登『日本民俗文化大系9 暦と祭事』(小学館、2014年)
  • 谷口貢、他『年中行事の民俗学』(八千代出版、2017年)
  • 青木美智子「近世農民の日記を読む―家内女性の労働と休日へのアプローチ―」『総合女性史研究 第35号』(総合女性史学会、2018年)
  • 宮田登『民俗学』(講談社、2019年)
  • 国立国会図書館HP「江戸から明治の改暦」(最終閲覧日:2023年3月8日)
  • サイエンスポータルHP「科博発、江戸の天文学者からのメッセージ」(最終閲覧日:2023年3月8日)

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  この記事を書いた人
なずなはな さん
民俗学が好きなライターです。松尾芭蕉の俳句「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」から名前を取りました。民話や伝説、神話を特に好みます。先達の研究者の方々へ、心から敬意を表します。

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