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「芸は身を助ける」金刺盛澄が秀でていた武芸とは?

金刺盛澄の像(長野県下諏訪町)
金刺盛澄の像(長野県下諏訪町)
 平安時代後期の武士の台頭ともに広まった「流鏑馬(やぶさめ)」は、鎌倉時代には武士の修練として盛んに行われてきました。この武芸にひときわ秀でていたと言われている武士が、信州諏訪にいたのです。その名は金刺盛澄(かなさし・もりずみ)。

 盛澄の人物像や流鏑馬との関係について深掘りしていきましょう。

金刺盛澄ゆかりの下諏訪町

 長野県下諏訪町の諏訪大社下社秋宮の近くに、馬上で弓を放つ武将の像があります。これが金刺盛澄で、躍動感あふれる姿がとても印象的です。

 流鏑馬は、馬場を走る馬にまたがりながら、鏑矢(かぶらや)を放って的を射るという競技で、鎌倉時代の御家人たちは腕を磨き、その技を競い合ったそうです。また、奉納武芸という意味合いもあり、今も神社で儀式として行われています。

 下諏訪町では2000年代に2回、流鏑馬の奉納行事が行われました。筆者も見せていただきましたが、熟練の武芸者たちが次々と矢を放つ姿に感銘を受けました。

 下諏訪で流鏑馬が開催された理由は「盛澄ゆかりの地だった」の一言に尽きるわけですが、盛澄とはどんな人物なのでしょうか。

木曽義仲に従軍した金刺氏

 盛澄は平安末期から鎌倉初期にかけての人物で、生い立ちなどは不明です。諏訪大社の大祝(神職のトップ)である金刺氏の出身で、地域一帯を支配する武士であるとともに、神様に仕える身でもありました。

 源平合戦(治承・寿永の乱)の最中の寿永3年(1183)、木曽義仲が平家打倒のため挙兵した時、信濃衆の一員として金刺氏も参戦。大祝である自分に代わり、弟の手塚光盛を従軍させました。

 『平家物語』では、白髪を黒く染めながら勇敢に戦った平家方の斎藤実盛の逸話がありますが、実盛を討ち取った人物が光盛だったのです。

 義仲は平家を追放して京の都を掌握しましたが、やがて源頼朝が差し向けた義経らの軍勢に敗れ、義仲とともに光盛も討たれてしまいます。そればかりか、盛澄までも捕らえられてしまったのです。

将軍頼朝に見せつけた武芸

 盛澄は、頼朝の家臣である梶原景時に身柄を預けられます。義仲に味方した人物として、頼朝は斬首にする腹積もりでしたが、その才能を惜しんだ景時は「盛澄の弓を見てからご判断願いたい」と進言しました。

 そこで頼朝は、文治3年(1187)に鶴岡八幡宮で開いた流鏑馬で、盛澄に無理難題を与えます。わざと扱いが厄介な暴れ馬を与え、それに乗って弓を放つよう命じたのです。

 その試練に対し、盛澄は難なく的を射抜いていきます。さらに的の代わりに置いた小さなかわらけ(皿)、そして支柱の串までもことごとく命中させました。あまりにも見事な技に、さすがの頼朝も罪を許したばかりか、盛澄を御家人に取り立てたといいます。

 この話は、鎌倉幕府の公式な歴史書である『吾妻鏡』に書かれており、盛澄が「心の中で諏訪大明神にお祈りした」と記しています。

おわりに

 諏訪大社下社の夏の遷座祭・お舟祭りに合わせ、武士や姫、郎党の装束で練り歩く「時代行列」が2005年まで行われていました。地元の下諏訪町長が主役の武将を務めましたが、その武将こそが金刺盛澄公だったのです。

 一芸に秀でていたがゆえに自らの運命を切り開き、「流鏑馬といえば金刺盛澄」とまで称えられた盛澄は、800年以上の時を経ても、地元の人々の誇りであり続けています。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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