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残酷だった江戸時代の死刑は6種類もあった!
- 2026/01/28
古今東西、罪を犯した者には罰が与えられ、重罪には極刑が宣告されます。そして時代劇でよく見る江戸町奉行所のお白州での場面。捌きの言い渡し方はさておいて、江戸時代でも「死刑」はありました。それもなんと「死刑」の方法は6つもあったのです。
そこで今回は、江戸時代の死刑制度とその種類についてのご案内です。
そこで今回は、江戸時代の死刑制度とその種類についてのご案内です。
【目次】
江戸幕府の法典
徳川家康が江戸幕府を開き、平穏な江戸時代が始まりましたが、初期の頃は刑罰についての目安や制度はまだはっきりとしたものがなかったそうです。そのためか、刑罰を決める時期・地域・人などによって、その重さにほかなりのバラつきがあったのだとか。しかし寛保2年(1747)、8代将軍・徳川吉宗が治める頃になると、「公事方御定書」が制定されて、刑罰についても公平性が確立してきました。「公事方御定書」は、司法や警察関係の基本法令が記された江戸幕府の法典になるのですが、その内容を把握していたのは町奉行・勘定奉行・寺社奉行の三奉行だけだったといいます。
裁判長「死刑に処す」…でもどんな?
江戸時代に制定された法律の基本となる「公事方御定書」。そこには庶民の死刑に関しては6種類が記されていたといわれています。極刑となる死刑ですが、一応ランクがあったようで、一番ランクが低いのが下手人(げしゅにん)と呼ばれる執行方法です。それに次いで、死罪(しざい)、獄門(ごくもん)、磔(はりつけ)と続き、鋸挽(のこぎりびき)、火罪(かざい)が一番厳しいランクとされていました。
やはり江戸時代でも、火あぶりの刑が一番重かったのですね。
下手人(げしゅにん)
死刑の中で最も軽いランクにあったのが、「下手人」と呼ばれる執行方法でした。この執行方法は、牢の中で首を斬るというもの。斬首という面では、次に紹介する死罪と同じなのですが、「下手人」となった場合は、身内の方がいれば遺体を引き取って埋葬することができたそうです。
死罪(しざい)
二番目に軽いランクにあるのが、「死罪」です。普通に考えると、全てが「死罪」なのですが、ランク的には軽い方に位置しているのが面白いですね。言葉が似ていていてややこしいのですが、結果的に命を絶つ刑を「死刑」と呼び、「死罪」は「死刑」の中の一つだったのです。
執行方法は、「下手人」と同じで首を斬るのですが、「死罪」の場合、そのあとの遺体を使って「様斬(ためしぎり)」をされたといいます。刀の斬れ具合を見るために死んでしまっているとはいえ、様斬に利用されるなんて、なんとも悲しいですね。
獄門(ごくもん)
時代劇でのお白州の場面で、町奉行が「市中引き回しの上、獄門に処す」というフレーズはよく聞くセリフですよね。「獄門」は三番目に位置する「死刑」の方法で、「死罪」よりも重い刑となります。「獄門」というのは罪人の首を斬った後、その首を3日間に渡って庶民の前に晒されるというものです。俗にいう「さらし首」で、この言葉の方がわかりやすいかもしれませんね。
磔(はりつけ)
ランキングとして四番目に軽いというか、もう重い方になるのが「磔」です。「獄門」よりも重い刑である「磔」は、刑場で十字架の罪木に縛り付けられ、槍によって「死刑」が執行されます。「獄門」は斬首をされた後に首を晒されて見せしめとされましたが、「磔」の場合は生きているうちから見せしめとされる訳ですね。また、執行された後の3日間、その姿はさらされたままでした。
以前、テレビの時代劇で江戸町奉行が「市中引き回しの上、磔・獄門に処す」というのを聞いたことがありますが、これはあり得ませんね。あえてするなら、斬首をした後、首のない死体を「磔」にして、首と胴体を別々に晒すということになります。いくらなんでもこれはないですね。
鋸挽(のこぎりびき)
「死刑」ランキングでは、2番目に重たい罪状の「鋸挽」。言葉から判断するに、生きたまま鋸で体を切断するという、相当に残酷な刑のようですね。「獄門」も「磔」も刑を執行した後は、人々の前で晒されるのですが、「鋸挽」の場合、体を切断したバラバラ死体を晒すのでしょうか?なんかそれも残酷というか、気持ち悪いですよね。中世ヨーロッパでの刑罰や魔女狩りの際の殺害方法には、鋸で体を切断するなどあったようですが、ギロチンも同じですよね。しかし江戸時代の日本で、そんな「死刑」の執行方法を見たり聞いたりしたことはありません。
鋸という言葉が使われる「鋸挽」ですが、実際のところ、鋸で執行するようなことはなかったようです。「鋸挽」を言い渡された罪人の実際の執行方法は、罪人を入れた穴晒箱という箱を土中に埋め、首だけを地面から出すようにして3日間晒します。その後で市中引き回されて「磔」になったのだとか。
形だけでも、ということなのでしょうか。罪人を埋めている時に、首の左右にタケの鋸と鉄の鋸を立てかけていたそうです。
火罪(かざい)
「死刑」ランキングの中でも、最も重い刑罰となるのが「火罪」です。俗にいう「火あぶり」ですね。江戸時代の日本では、放火を行った罪人に「火罪」が言い渡されました。市中引き回しをされた後、刑場で執行されたそうです。江戸時代は火事が多く、一度火災が起きると多くの人々の命や生活を奪ってしまうことから、放火犯には「火罪」というのが決まりだったようですね。
「火罪」を受けた罪人は、竹枠が組んである柱に縛り付けられます。その時、罪人を縛り付ける縄は燃え落ちないように泥が塗ってあったそうです。竹枠の周りに萱を積み上げて罪人の体を包み、足元には薪を積んで踏ませたのだとか。
罪人が死亡したら、最後に止め焼きという動作を行います。男性は鼻と陰嚢、女性は鼻と乳房を火で焼いたそうです。この止め焼きを済ませて、処刑は完了となったそうです。その後は三日三晩晒した上、刑場の片隅に死体を打ち捨てます。後は、烏や野犬などが処理して「無」に帰るのです。残酷というより、なにか侘しさも感じますね。
江戸時代の死刑は公開刑だった
現代の刑罰から考えると、なかなか残酷で厳しく、気分が悪くなってしまいそうなものばかりですね。「下手人」以外の5種類の「死刑」は、晒し首だけでなく、公開での執行となっていたので、一般の人々も見ることができました。そのため、大勢の見物人がその様子を見届けていたといいます。確かに残酷な姿を見せるほど、犯罪の抑止力になるとは思うのですが。それにしても…。
現在は「死刑」の廃止を支持する人もおられるようですが、第一級犯罪である殺人に対しては、ご遺族や社会への影響を考えると、まだ廃止には早いのではないかと思います。とはいえ、江戸時代のような残酷な「死刑」は、決して復活させてはいけませんね。
この記事を書いた人
聖徳太子に縁のある一族の末裔とか。ベトナムのホーチミンに移住して早十数年。現在、愛犬コロンと二人ぼっちライフをエンジョイ中。本業だった建築設計から離れ、現在ライター&ガイド業でなんとか生活中。20年ほど前に男性から女性に移行し、そして今は自分という性別で生きてます。ベトナムに来てから自律神経異常もき ...
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