経塚の歴史 ~藤原道長が埋めたタイムカプセルとは
- 2024/01/26
経塚は、古代から贈られた未来へのタイムカプセル。または、玉手箱とも言えるかもしれませんね。そこにはどんなものが納められていたのか、どのような願いがこめられていたのか。経塚の歴史をたどることで、はるか昔の人々が抱いた気持ちを感じてみましょう。
経塚とは?
経塚が作られるきっかけになった「末法の世」とは、仏教において釈迦の入滅後2千年が経過すると、その教えが衰え、1万年もの間、長く世の中が乱れるとされた期間のこと。その後、56億7千万年が経つと、弥勒菩薩が現れて悟りを開き、衆生を救うとされています。 日本では、末法の世が永承7年(1052)から始まるとされ、その年が近づくにつれて、仏教を篤く信仰する貴族たちは「とても悪いことが起こるのではないか」と怖れるようになりました。
それは、現代におきかえると、「ノストラダムスの大予言」や「古代マヤ暦の予言」と似たようなものだったのかもしれません。
当時、特に怖れられたのは、「仏教の経典が失われるのではないか」ということ。仏教が衰えるということは、教えを広める経典自体がなくなってしまうのではないか…。人々はそう考え、遥かな未来へ経典を残すために、経塚を作ったのです。
経塚には何が入っていたのか
経塚は、仏教の経典を「経筒(きょうづつ)」と呼ばれる容器に入れ、土の中に埋めて完成します。これは「埋経(まいきょう)」と言い、仏教の作善(さぜん/善行を積むこと)行為のひとつとされます。 経典の種類は、法華経を写したものが多かったようです。また、経典も紙に書かれたものがほとんどでしたが、紙よりも強い素材に経典を残そうとした動きも見られ、中には瓦に焼き付けた瓦経(かわらぎょう)や、銅板に経を刻んだ銅板経(どうばんきょう)なども残存しています。
経典を入れる経筒自体は銅製のものが多かったようですが、他にも鉄、石や木、陶磁など、さまざまな素材で作られ、仏塔をかたどったものもありました。
また、経塚には、経典だけではなく、仏具や仏像なども埋められました。
他に有名なものは独鈷杵(とっこしょ/どっこしょ)や三鈷杵(さんこしょ)といった密教用の法具や、仏の姿が彫られた和鏡(懸仏/かけぼとけ)などです。
経塚の深さは約1メートルほどで、中は石や平らな瓦が敷かれ、経筒を入れるための外筒(そとづつ)が置かれます。その内部に経筒や仏具を入れた後は外筒に蓋をして、蓋石と呼ばれる石を置いたら、石や土で埋め、塚として盛り上げ、石で囲いました。
経典と同じく仏教を後世に伝えるために埋納された仏具などは、現在でも美術的価値が高いものとして評価されています。
日本最古の経塚を作った藤原道長
このような経典・仏具を埋める経塚の場所としては、お寺や神社の境内などの霊地、古くから崇拝されている霊山などが選ばれました。日本最古とされている経塚は、藤原道長が寛弘4年(1007)に奈良県の吉野山にある金峯山寺(きんぷせんじ)の山頂へ埋めたものです。
金峯山とは、奈良の大峰山脈のうち吉野山から山上ヶ岳までを含めた連峰の総称であり、当時の貴族にとって、金峯山への登山は重要な宗教行事のひとつでした。
金峯山へ登った道長は、紺色に染めた紙へ金の文字でみずから写経をし、経典15巻を経塚に埋納したのです。
この経典が納められた経筒は銅製で金めっきが施されており、江戸時代の元禄4年(1961)に発掘されました。道長の経典は下部分が腐り落ちていましたが、重要文化財指定を受けており、経典が入った経筒は国宝として指定されています。
道長によってこの経塚が作られたのは、末法の世が始まるとされた45年前のこと。
道長が「この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)の欠けたることもなしと思へば」と自らの栄華をうたった和歌はあまりにも有名ですが、もしかしたら、やがて訪れる平安時代の終焉に気づいていたのかもしれません。
つむがれる経塚の歴史
経塚の分布は日本各地に広がっていて、年代も平安時代から室町時代、江戸時代などさまざまです。前項で述べた、藤原道長が経塚を作ったのは、平安時代中期の11世紀のこと。以降は、道長のひ孫である藤原師通(ふじわらのもろみち)や白河上皇などが金峯山にて経典を埋納しています。
また、それ以外の場所でも、京都の鞍馬寺(くらまでら)経塚や花背(はなせ)経塚群など、貴族を中心として経塚の造営が流行しました。
その後、14世紀から16世紀にかけては、六十六部聖(ろくじゅうろくぶひじり)や廻国聖(かいこくひじり)と呼ばれる修行者によって、日本全国をまわって六十六部の経典を各地へ納経するという修行スタイルが流行しました。ここから、お経を塚に納めるという慣習が庶民にも広まるようになったのです。
平安時代の経塚は、豪奢な経筒や仏具などが数多く残されていますが、江戸時代に多く埋納された経塚では、小さな石に経典を一文字ずつ刻んで納めるという「礫石経(れきせききょう)」が主流となっていました。
こうしたことからも、時代によって経塚に埋納されるものが変遷していったことがうかがえますね。
おわりに
平安時代の終わりに末法思想が広まっていたことは知っていましたが、末法の世が1万年も続き、今もまさにその真っ最中なのだということは、あまり意識していませんでした。とはいえ、弥勒菩薩がこの世に現れて衆生を救うとされているのは56億7千万年後。気が遠くなる話です。
今現在の世界情勢でさえ、1日後はどうなっているか分からないという時代。遠い昔の平安時代に、いずれ訪れるという混乱の世を怖れ、未来に向けて経塚をつくりあげた人々の気持ちも、なんとなく分かるような気がします。
藤原道長が経塚にお経を埋めてから、千年の月日が経ちました。56億7千万年後は難しいとしても、もしも遥か遠く未来の人類に向けて、何かを残せるのだとしたら。私たちは、どんなタイムカプセルを作ったらいいのでしょうね。
そんなことをつれづれと考えてしまう、秋の夜長でした。
【主な参考文献】
- 目の眼編集部『月刊目の眼2023年 10月号』(目の眼、2023年)
- 福田アジオ他編『日本民俗大辞典 上』(吉川弘文館、1999年)
- 金峯山寺HP 「金峯山寺について」(最終閲覧日:2023年10月26日)
- 京都国立博物館 「金色に輝く藤原道長の経筒」(最終閲覧日:2023年10月26日)
- 奈良国立博物館HP 「弥勒如来にささげる―お経のタイムカプセル―」(最終閲覧日:2023年10月26日)
- MIHO MUSEUM 「金峯山の遺宝と神仏」(最終閲覧日:2023年10月26日)
- 静岡県埋蔵文化センター 「礫石経」(最終閲覧日:2023年10月26日)
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