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  • 室町幕府
 2017/11/20

「足利義昭」幕府最後の将軍。将軍権力にこだわり、執拗に信長と対立!

足利義昭の肖像画

尾張国の戦国大名に過ぎなかった「織田信長」の天下布武の追い風となり、そして強い逆風にもなったのが、室町幕府15代目将軍である「足利義昭」です。信長のおかげで上洛でき、征夷大将軍に就けた義昭ですが、その信長によって京都を追い出されることになってしまいます。

将軍の権威回復のために精力的に行動した義昭とは、はたしてどのような人物だったのでしょうか?
(文=ろひもと理穂)

29歳まで僧として過ごす

将軍の二男として誕生

義昭は、天文6年(1537年)、室町幕府12代目将軍である足利義晴の二男として誕生しました。母親は近衛尚通の娘で、1歳違いの兄には足利義輝がいます。将軍家でも嫡男と二男ではやはり扱いは大きく異なり、義輝が将軍御所で育てられるのに対し、義昭は伯父である近衛稙家の猶子として、6歳で興福寺一条院に入室しています。後に覚輝という法名を名乗りました。

応仁元年(1467年)の応仁・文明の乱以降、将軍の権威は失墜し、世の中は群雄割拠の戦国時代に突入しており、義昭の父親である義晴も有力者たちの権力闘争に巻き込まれて京都を追い出され、近江国に逃れたまま亡くなっています。後を継いだ13代目将軍である義輝も天文11年(1542年)、11歳で将軍位に就きましたが、京都に入れぬまま5年もの間、近江国にとどまっていました。

兄である義輝が殺害される

畿内で勢力を拡大する三好長慶と手を結んで将軍の権威を回復しようとする義輝でしたが、長慶亡き後、将軍を傀儡化したい三好義継、三好三人衆、松永久秀から敵視されます。義継らは足利義維を引き込み、その子である義栄を次期将軍にすべくクーデターを決行し、将軍御所を襲撃して義輝を殺害しました。永禄8年(1565年)、義昭が29歳の時のことです。

以後、義継らは一条院にいる義昭の動向も警戒し、監視をつけています。ただし、幕府の奉公衆である細川藤孝や和田惟政はこの動きに反発し、義昭の母方の伯父にあたる大覚寺門跡・義俊の力も借りて、義昭を一条院から脱出させることに成功しました。ただでさえ衰退していた室町幕府は、義栄派と義昭派に分裂してしまうことになったのです。

上洛を目指し放浪

奈良を脱出し、各地を転々とする

一条院を脱出した義昭は、近江国の戦国大名・六角義賢の許可を得て、惟政の館のある甲賀郡に潜みました。しばらくすると、さらに京都に近い野洲郡矢島村に御所を開き、翌永禄9年(1566年)には還俗して、足利義秋と名乗っています(以後も表記は義昭で統一します)。義昭は自分が足利氏の正当な当主であることをアピールしたのです。

しかし、突如、三好三人衆が矢島を襲撃。ここは奉公衆らの活躍で撃退に成功しますが、頼りの六角氏も三好三人衆に内通していることが発覚し、義昭は矢島を捨て、妹婿である武田義統を頼って若狭国へ逃れました。ただし若狭国も義統と嫡男の元明がもめており、義昭はすぐに越前国の朝倉氏を頼っています。『言継卿記』によると、義昭が若狭国に逃れた際のお供の数はわずか5人だったと記されています。まさにどん底の状態で、とても上洛して将軍職に就くなど夢物語でした。

諸大名に向けた加勢の御内書

義昭もただ逃げ回っていたわけではありません。地方で勢力を拡大する戦国大名らに書状を送り、上洛の協力を求めています。将軍が発する書状を御内書と呼びますが、この頃の義昭は正確にはまだ将軍ではありません。しかし、受け取る側からすると御内書と同じ扱いだったのではないでしょうか。

義昭は様々な戦国大名に協力を要請する書状を送っています。記録が残っているだけでも、甲斐国の武田信玄、相模国の北条氏康、上野国の由良成繁、能登国の畠山義綱、美濃国の斎藤龍興、尾張国の織田信長、近江国の六角承禎、越前国の朝倉義景、大和国の十市遠勝、丹波国の赤井直正、安芸国の吉川元春、肥後国の相良義陽、薩摩国の島津貴久、そして最も義昭が頼りにした越後国の上杉謙信がいます。

義昭は実際に信長と龍興の和睦の調停を行ったり、信長と近江国の浅井長政の姻戚関係を成立させるなど影響力を持っていました。謙信と信玄・氏康との和睦にも力を注いだようですが、こちらはなかなか上手くいかなったようです。それぞれに思惑があり、隣国との領土争いが続いている中、誰ひとり本気で義昭の上洛に力を貸してくれる者はいませんでした。義昭に協力し、上洛のために拠点を離れれば、たちまち隣国に侵攻されるのですから当たり前の話です。

朝倉氏から織田氏へ移り上洛する

織田氏を頼って岐阜へ

永禄10年(1567年)11月から義昭は越前国一条谷の安養寺で暮らすようになりました。朝倉氏に完全に世話になるようになったのです。義昭は朝廷から従五位下左馬頭に叙任されていましたが、このまま一条谷に落ち着いていたのでは征夷大将軍に任じられることはありません。永禄11年(1568年)4月に元服し、義秋から義昭に改名したものの、義景は一向に上洛する気配を見せず、義昭としてはじれったい思いをしていたことでしょう。

そんな中、信長が美濃国の稲葉山城を陥落させ、龍興を追い出して美濃国を制圧します。そして信長は本格的に上洛を決意し、義昭を岐阜に招きました。義昭としてもこのままではいつまでも上洛はできないと、義景を見限り、一条谷を離れ岐阜に向かう決断をします。義景がそれを知ったのは義昭が出立する25日前のことだったようで、おそらく裏切られた気持ちだったことでしょう。以後、信長と義景は長く対立していくのです。この決断で義昭の運命は大きな転換期を迎えることになります。上洛して征夷大将軍となり、室町幕府を再興するという夢が現実味を帯び始めます。

征夷大将軍の宣下を受ける

義昭を岐阜に招聘してからの信長の動きはとても迅速で、永禄11年(1568年)6月に義昭が岐阜に到着すると、8月には佐和山城で浅井長政と上洛の打ち合わせをし、9月には6万の軍勢を率いて出陣しています。

六角氏は信長の上洛に抵抗するものの支城をあっさりと攻略されて逃亡、京都を支配していた三好三人衆も信長の勢いを怖れて阿波国へ退きました。入京し東寺に本陣を置いた信長はそのまま山城国、摂津国へも兵を送り制圧していきます。後から岐阜を発った義昭は、悲願の入京を果たし清水寺に着陣すると、10月には征夷大将軍の宣下を受けました。三好三人衆に擁立されていた14代将軍の義栄は直前に病没しており、大きな問題もなく義昭は室町幕府15代目将軍となることができたわけです。

信長への感謝の気持ちはひとしおで、義昭は副将軍か管領のポストを信長へ勧めましたが、信長はこれを辞退しています。おそらく信長には、義昭を支えて室町幕府を再興する気持ちなどなかったからでしょう。そんな信長の心中など知らず、義昭は、岐阜に帰還する信長に対し、「御父」という言葉を用いて感謝を伝えています。

連合政権の亀裂

信長の幕府傀儡化の動き

義昭が将軍となってからしばらくは義昭と信長による連合政権の状態が続きます。もちろん経済力、軍事力ともに信長が圧倒していますが、義昭はあくまでも武家の棟梁である将軍であり、畿内幕府料所の税や市中の地子銭といった経済基盤が確保され、畿内の守護の軍事指揮権も認められていました。わずかな供回りだけで諸国を放浪していたときとは大きな違いです。義昭としても信長を頼った判断は正しかったことを再認識し、これで室町幕府は再興できると確信していたに違いありません。

しかし上洛してからの義昭と信長の間には少しずつ距離が生まれていきます。将軍としてのリーダーシップを発揮しようとする義昭が、より勢力を拡大して天下布武を目指す信長にとって目障りな存在になってきたのです。

永禄12年(1569年)に制定された殿中掟9ヶ条、並びに追加された7ヶ条は、幕府の規定を再確認するものであると同時に、御内書を出すにも信長の許可が必要であるというように、信長による幕府傀儡化の第一歩となっています。

反信長連合の動き

信長は諸国の大名に上洛を促しますが、越前国の朝倉氏はこれを拒否し、永禄13年(1570年)4月、信長は上意と勅命のもと出陣します。幕府や朝廷を利用し、逆らう勢力を掃討していく戦略です。しかし、浅井氏が離反、さらに六角氏や本願寺、三好三人衆、比叡山延暦寺なども信長に反発したため、信長は危機に陥ります。このときに和睦の役割を担ったのが義昭でした。義昭としては信長に恩を売って、信長を上手くコントロールしたかったのかもしれません。

危機を脱した信長は態勢を立て直し、敵対勢力を滅ぼしていきます。こうして信長が勢力を拡大していくことで、逆に義昭はどんどんと存在感を失っていきました。そんな中、この機に乗じて動き出したのは甲斐国・信濃国・駿河国・遠江国・上野国を支配していた武田信玄です。信長は信玄と同盟を結んでいましたが、信玄は義昭の要望を受けて元亀3年(1572年)10月、西上のために出陣しました。武田勢はまたたくまに徳川氏の領土に侵攻していきます。

義昭はこの報告を聞いて喜んだに違いありません。信玄が信長を追い出してくれれば、室町幕府を本当の意味で再興できると考えていたからでしょう。信長は義昭の存在が完全に邪魔になっており、信玄の西上作戦が始まる直前に、義昭に対してその政治力や人間性を痛烈に批判する十七ヶ条の異見書を突きつけています。この時点で義昭と信長の関係は完全に崩壊していたのです。

京都を追い出され、毛利氏を頼る

挙兵するも敗退し転々とする

信玄の快進撃を聞き、もはや信長は倒せると計算したのか、元亀4年(1573年)2月、義昭は正式に打倒信長の兵を挙げました。しかし、信玄が病で倒れたため武田勢は甲斐国に引き返しており、勝ち目のない戦になってしまいます。朝廷の仲介によって一度は和睦するものの、義昭の打倒信長の気持ちは揺るがず、7月には二条御所から槙島城に移り徹底抗戦の構えを見せます。もちろん信長の軍勢に勝てるわけもなく、あっさりと落城。義昭は息子の義尋を人質として信長に差し出し、京都を追放されました。歴史的にはここで室町幕府は滅亡したとされています。

ただし、義昭は実際には信長より長く生きました。京都を追放されてからは河内国の若江城や和泉国の堺に移り、毛利氏を頼りにしたいもののなかなか受け入れてもらえず、紀伊国の興国寺に長く留まっています。毛利氏の庇護下に入れたのは、備後国に移り住んだ天正4年(1576年)のことです。その間も義昭は打倒信長のために御内書を各地の大名たちに送りつけています。やがて信長は本能寺の変によって亡くなり、後継者の座を手に入れた秀吉に対して、義昭は将軍として島津氏との和睦などの仲介をしています。

秀吉に降って大坂へ

天正15年(1587年)に島津氏が秀吉に降伏し、九州が平定されると、義昭は秀吉の招きに応じて入京します。関白となり絶大な権力を誇る秀吉を見て、さすがの義昭ももはや幕府再興の夢を諦めたようです。天正16年(1588年)、義昭は将軍職を辞して出家し、昌山(法名は道休)と号しました。秀吉より1万石の知行を得、大坂に住居を構えるだけでなく、かつて京都を追われる際に抵抗した山城国槙島に私邸を持ちました。

秀吉に降ってからの義昭は、朝鮮出兵のため肥前国名護屋まで秀吉に従事し、小早川隆景の第一隊に続く第二隊3500を率いたと記録されています。その後は御伽衆のひとりとして秀吉の話し相手を務めていましたが、慶長2年(1597年)に病没しています。義昭の長子である義尋は、興福寺大乗院の法嗣として入院しており、義昭の正統な血筋は途絶えています。

まとめ

義昭の室町幕府再興への執念は凄まじいものがありましたが、それ以上に信長への並々ならぬ対抗心に驚きます。かつては御父とまで尊敬の意を表していただけに、幕府を傀儡化しようとする信長の本性を知って裏切られた気持ちが強かったのでしょう。信長の死後は憑きものが取れたかのように幕府再興の熱意が薄らいだようにも思えます。武家の棟梁としての意地が、武家の新興勢力である信長への対抗心の支えになっていたのかもしれません。一方で、だからこそ武家ではなく関白である公家の秀吉に対しては、あまり抵抗なく降伏できたのではないでしょうか。


【主な参考文献】
  • 奥野高広 『人物叢書 足利義昭』吉川弘文館、1989年。
  • 谷口克広『信長と将軍義昭 提携から追放、包囲網へ』中公新書、2014年。




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