「三好実休」兄・三好長慶を支えた数寄者の武将
- 2020/07/07
三好政権を樹立して天下人となった三好長慶には、彼を支えた有能な弟たちがいました。三好実休はそのひとりで、長慶のすぐ下の弟です。実休は主に長慶が不在となった阿波国をよく守りました。名将ぞろいの三好兄弟の中でも特に茶の湯をよくした人として知られ、名物茶器の収集家でもありました。
三好長慶の弟
三好実休は大永6(1526)年(または翌年)に阿波の三好元長の次男として生まれました。兄は三好長慶。弟に安宅冬康、十河一存、野口冬長がいます。幼名は千満丸で、仮名は彦次郎。一般に「実休」の名で知られますがこれは出家後の法名であり、俗名は之相、之虎といいました。
義賢の名も知られますが、一次史料に記録はありません。また、実休とは別に「物外軒」の号もあります。
兄不在の阿波を守る
実休の父・元長は細川晴元に仕え、堺公方政権で活躍した武将でした。しかし主君の晴元をはじめ、晴元家臣の三好政長・木沢長政・柳本賢治らと対立し、最後は主君に攻められ自害しました。父元長が没したのが享禄5(1532)年のこと。このとき実休はわずか6歳(満年齢)で、兄の長慶は10歳です。
兄の長慶は亡くなった父の跡を継いで三好家当主となり、父の死の翌年には仇である細川晴元のために一向一揆との和睦を斡旋し、そののちには晴元の家臣となりました。
兄が阿波を出て晴元の近くで活躍する一方、実休は阿波にあり、阿波国守護の細川持隆の重臣として活躍しました。
下の弟たちはそれぞれ長慶の命で安宅氏(淡路の水軍衆)、十河氏(讃岐十河城主)、野口氏(淡路の志知を本拠とする家)の養子となっており、実休は三好氏として長慶不在の阿波を守る役割を担っていたのでしょう。兄弟がそれぞれ他家の養子となって協力して兄を支えるところは毛利両川(元就の三人の子)と似ていますし、兄弟の団結は島津四兄弟を思わせます。
茶の湯を好んだ実休
武将として軍事的に兄を支えた一方、実休は茶の湯を愛する文化人としても知られています。武士で風流人、茶の湯に熱心な人物というと『へうげもの』で知られる古田織部(重然)を思い出しますが、実休の数寄者ぶりも負けません。三好一族の中で茶人というと、この実休ともうひとり、三好政長(宗三)です。どちらも名物茶器コレクターであり、政長は15点、実休は11点を所持していたという記録が残っています(弟の安宅冬康は2点)。
天下無双の名物の持ち主
実休のコレクションの中に「三日月茶壺」という壺があります。もとは8代将軍の足利義政が愛した「東山御物」のひとつであったといわれます。その後、複数の持ち主を経て実休に渡りますが、戦により6つに割れてしまいました。実休の死後、修復されて質として預けられていた三日月は、献上品として織田信長の手に渡ります。信長もまた名物コレクターでした。しかし本能寺の変の折、信長とともに焼けて焼失してしまったといわれています。
武士としてただひとりの“数寄者”と認められる
実休はほかにも「珠光小茄子茶入」や「実休肩衝茶入」といった名物茶器を収集していました。実休と交流のあった茶人に千利休の高弟である山上宗二という茶人がいますが、彼は『山上宗二記』の中で実休のことを「武士でただひとりの数寄者」と称賛しています。主君・細川持隆を殺してしまう
さて、話を元に戻しましょう。兄の長慶は天文18(1549)年には、父の仇であった細川晴元と三好政長と戦って勝利し、畿内で三好政権を樹立。実休もその過程で各地を転戦するなど、兄をサポートしています。ただ、実休の人生の中で最大の失敗は、主君の細川持隆を死に追いやったことでしょう。
阿波国守護の細川持隆は実休の父・三好元長の時代から晴元と対立する三好氏に好意的で、庇護者でした。いわば恩人であり、実休にとっては直接の主君にあたります。
ところが、天文22(1553)年に長慶と将軍・義輝、晴元の関係が再び悪くなり決別したころ、実休は見性寺で持隆を殺してしまうのです。この事件には弟の十河一存も協力したとされます。
この見性寺事件の背景については諸説あり、
- 持隆が足利義維の子・義栄を将軍に立てようと考えたが実休が反対した。
- 持隆のほうが実休の力を恐れて暗殺しようとしたが、これが実休に知られて逆に殺されてしまった。
- 長慶によって晴元が落ちぶれていくのを憂い、支援したことが実休に知られてしまった。
などがありますが、なぜふたりが対立するに至ったか、はっきりしたことはわかっていません。持隆を殺した実休は持隆の子・真之を立てて傀儡とし、実権を握りました。持隆を排除することで長慶の背後を安定させようと考えたのかもしれません。
しかしこの事件により実休を憎む者が現れ、また傀儡の真之に近づく者も現れ、阿波を安定させてすべてを握ることには失敗したようです。
久米田の戦いで鉄砲に撃たれ戦死
その後、実休は永禄元(1558)年の北白川の戦い、永禄3(1560)年の畠山高政らとの戦いで兄に協力して戦い、同年11月に河内高屋城主となります。しかし、永禄5(1562)年3月5日、再び畠山高政と対峙した久米田の戦いにおいて戦死しました。実休は鉄砲に撃たれて死んだとされますが、ほかに流れ矢にあたった、自殺した、という後世の記述もあります。
実休の死に際して長慶は……
実休の死の報せが長慶に届けられたとき長慶は連歌会の最中でしたが、長慶は報せを受けても動じることなくそのまま連歌を続けました。「芦間にまじる薄一村」の後に続く句として長慶が続けたのが「古沼の浅き方より野となりて」という句です。その場にいた弟の安宅冬康は、「古沼の」と言ったところですぐさま誉め、この句にその場の一同は感嘆したといいます。百韻すべてが終わると長慶は立ち上がり、弟が亡くなった変事を告げると招いた人々を急いで帰したと伝えられています。
歌といえば、実休の辞世とされる和歌もあります。
「草枯らす 霜また今朝の日に消えて 報ひのほどは終に免(のが)れず」
この「報ひ」は、持隆を殺したことの報いであるといわれています。
信長が欲した実休のコレクション
余談ですが、死後に自身のコレクションである三日月茶壷が織田信長の手に渡った実休、何の因果か、久米田の戦いの際に持っていた刀「実休光忠」ものちに信長の手に渡っています。光忠作の刀を好んだ信長は特に実休の持っていた光忠を愛したそうですが、しかしこれもまた本能寺の変で焼失してしまったのでした。
【参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 今谷明・天野忠幸 監修『三好長慶 室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者』(宮帯出版社、2013年)
- 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
- 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』(洋泉社、2007年)
- 長江正一 著 日本歴史学会 編集『三好長慶』(吉川弘文館、1968年 ※新装版1999年)
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