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後三条天皇が果たした「ストップ・ザ・藤原氏」とは?
- 2024/05/20
平安時代後期の第71代・後三条天皇が即位した治暦4年(1068)は、全盛期を誇っていた摂関家・藤原氏にとって衝撃的な年となりました。170年ぶりに藤原氏とは外戚関係の無い天皇が誕生したのです。それは後三条天皇にとって悲願達成の瞬間でした。
170年という時の流れ
中臣鎌足を祖とする藤原氏は、平安時代に天皇が幼い時には摂政、成人になってからは関白として政権を担ってきました。これは「摂関政治」と呼ばれ、藤原道長と頼通親子の代が全盛期だったと言われています。藤原氏の当主は自分の娘を天皇に嫁がせ、その子(皇子)がやがて天皇に即位すると外祖父となり、強い権限を発揮できるようになります。これを子々孫々続けてきた結果、170年もの間、藤原氏が外戚の天皇が続いてきたのです。
外祖父・三条天皇の存在
後三条天皇は、第69代後朱雀天皇の第2皇子として長元7年(1034)に生まれました。母親は第67代三条天皇の皇女・禎子内親王で、道長の娘の子供です。三条天皇は、道長が権勢を振るっていた時の天皇で、道長とは対立関係にあったといいます。天皇は目の病気を患ったこともあり、甥(兄・一条天皇の皇子)への譲位を道長から強く迫られました。
譲位の条件として、我が子・敦明親王を皇太子にするよう道長に約束させた三条天皇ですが、天皇の死没後に敦明親王は皇太子の座を退くよう仕向けられてしまいます。禎子内親王は「父が生きていたら、さぞ無念だろう」と察していたことでしょう。
長かった皇太弟時代
後朱雀天皇には2人の皇子がおり、第1皇子は道長を外祖父に持つ親仁親王で後に第70代後冷泉天皇となり、禎子内親王の子である尊仁親王(後三条)は後冷泉天皇の即位に伴って、皇太弟となります。藤原氏の当主は道長から頼通に移っていましたが、藤原氏の全盛期には変わりありません。頼通は後冷泉天皇に娘を嫁がせ、道長同様に外祖父の地位を狙います。結局、皇子誕生には至りませんでしたが、尊仁親王は気が気でなかったでしょう。
頼通に嫌がらせをされながらも、皇太弟として研鑽を積んできた尊仁親王の皇位継承は、母である禎子内親王の悲願でもあったと思われます。
苦節20余年、ついに天皇に
そして治暦4年、後冷泉天皇の死去に伴い、尊仁親王は後三条天皇として即位します。藤原氏を外戚としない170年ぶりの天皇誕生の衝撃は大きく、頼通に関白引退の道を選ばせたほどです。苦節20余年、35歳にして即位した後三条天皇は、自ら政治を行うことで摂関政治からの脱却を図り、藤原氏に頼らず幅広く人材を登用して天皇親政を実行します。
なかでも、荘園整理令を発布し、記録荘園券契所を設置したことで、藤原氏の私的財産である荘園にもメスを入れました。これにより、藤原氏は勢力基盤を失っていきますが、藤原氏が外戚で無い後三条天皇だからこそ断行できた政策だったわけです。
おわりに
後三条天皇は在位5年で皇子の白河天皇に譲位し、翌延久5年(1073)に亡くなりました。後三条天皇の登場は平安期政治の大転換を演出し、こののち白河上皇・法皇による「院政」という新しい政治の仕組みが生まれていくことになるのです。※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
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