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相楽総三や赤報隊の慰霊と名誉回復に尽力した人々

長野県下諏訪町にある魁塚
長野県下諏訪町にある魁塚
 漫画「るろうに剣心」で一躍注目された赤報隊隊長の相楽総三。明治維新直前の動乱期に偽官軍の汚名を着せられ、長野県下諏訪で処刑された総三ら赤報隊士たちですが、その名誉回復までには半世紀以上、60年という時を待たねばならなかったのです。

赤報隊、下諏訪に散る

 慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いに勝った新政府軍は、江戸に逃げ帰った徳川慶喜の討伐軍を送り込みます。相楽総三も、薩摩藩の西郷隆盛から「浪士を率いて江戸に向かってほしい」と求められました。
総三は、大衆を味方にすべく「年貢半減令」を新政府に進言。赤報隊を組織し、隊長となって年貢半減令を堂々と掲げ、中山道を進軍します。

 ところが下諏訪に差し掛かった時、突然総三ら幹部が捕らえられてしまいました。年貢半減令が実行不可能と判断した新政府は、赤報隊を偽官軍として抹殺しようと企てたのです。総三ら8人は弁明をする機会すら与えられず、下諏訪の地で処刑されました。

相楽総三らを弔った人々

 総三らの処刑を下諏訪の人々はどんな思いで見ていたのでしょうか?

 そのカギとなる人物がいます。高島藩出身の志士・石城東山(いしがき・とうざん)です。東山は、高島藩士として藩校の長善館で教えていましたが、尊王攘夷を掲げて脱藩し、江戸で活動していました。

 総三とは同志の間柄だったようで、その縁で総三は何度か諏訪の地を訪れていたといいます。東山は慶応3年(1867)に獄死してしまいますが、東山にゆかりの深い諏訪人が、総三の人物像を知っていたことは想像に難くありません。

 そのためか、早くから総三らを慰霊する動きがあり、明治3年(1870)には刑場に「魁塚(さきがけづか)」を建立し、慰霊祭を行っています。元赤報隊士が中心だったようですが、地域の人々も建立に協力したようです。

孫の木村亀太郎、汚名返上に走る

 総三の孫に木村亀太郎という人がいます。亀太郎は祖父や赤報隊の汚名を返上することに命を燃やしました。

 「瞼の母」などの股旅物の第一人者として有名な作家の長谷川伸は、数多く著した史伝の一つとして「相楽総三とその同志」を書きました。そのなかで、亀太郎の奔走ぶりも紹介しています。

 亀太郎が渋沢栄一を訪ねた時の話では、赤報隊の汚名返上は総三の孫である自分の責任だと強調し、贈位を賜るよう渋沢に協力を求めます。渋沢は「自分は幕臣だった」と断りつつも、東京府知事らへの口添えを約束してくれたそうです。

 おそらく亀太郎は、維新の功労者や要人たちを片っ端から訪ね歩いていたのだろうと思われます。その努力が実を結び、昭和3年(1928)に相楽総三は正五位が追贈され、赤報隊の名誉が回復されたのでした。

魁塚での「相楽祭」も復活

 亀太郎が初めて魁塚を訪れた時の思いを想像してみましょう。

 偽官軍と言われ、悪評ばかり聞かされてきた総三や赤報隊を、処刑から間もない頃にもかかわらず慰霊してくれた下諏訪の人々。魁塚の名称には「明治維新の魁となって散った人の墓」という意味まで込めてくれていたのです。

 慰霊祭は明治時代中頃からしばらく途絶えていましたが、大正7年(1918)に亀太郎が下諏訪の有志とともに復活させたそうです。贈位運動をしていた亀太郎は、感慨無量の思いに浸ったことでしょう。

 総三が追贈された2年後、昭和5年(1930)には、ジャーナリスト・漢詩人の国府犀東(種徳)がしたためた碑文が魁塚に建立され、遺徳を後世に残すこともできました。

おわりに

 慰霊祭復活後から現在まで、下諏訪町の地元有志「相楽会」は毎年4月に相楽祭を催しており、下諏訪町の関係者のほか、総三や赤報隊士の子孫も参列しているそうです。令和の時代からさらにその先へと、相楽祭が続いていくよう願いたいですね。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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