「藤原保昌」紆余曲折を経て藤原道長に仕える 左遷組から主要国司へと上り詰めた男!
- 2024/03/21
平安貴族の左遷、と聞くとあなたはどんなイメージを持ちますか?当時の貴族は、たとえ自分に非が無かったとしても、政治的闘争に敗れて地方へ追いやられることは多々ありました。今回ご紹介する藤原保昌(ふじわら の やすまさ)もその一人です。
保昌は藤原南家の流れを汲む一族に生まれますが、父や兄弟の捕縛によって人生は一変。国司として九州に左遷されてしまいます。しかし20年が経った頃、中央政界に復帰した保昌は、当時の最高権力者であった藤原道長に仕え、後ろ盾を得ることに成功。長じた保昌は都で女流歌人である和泉式部と結婚。地方官として最上職である摂津守に叙任されるなど、前半生とは別の生き方をしていくのです。
藤原保昌は、一体何を考え、どう生きたのか。藤原保昌の生涯を見ていきましょう。
保昌は藤原南家の流れを汲む一族に生まれますが、父や兄弟の捕縛によって人生は一変。国司として九州に左遷されてしまいます。しかし20年が経った頃、中央政界に復帰した保昌は、当時の最高権力者であった藤原道長に仕え、後ろ盾を得ることに成功。長じた保昌は都で女流歌人である和泉式部と結婚。地方官として最上職である摂津守に叙任されるなど、前半生とは別の生き方をしていくのです。
藤原保昌は、一体何を考え、どう生きたのか。藤原保昌の生涯を見ていきましょう。
円融院判官代を務める
天徳2年(958)、藤原保昌は、藤原南家出身である藤原致忠の長男として生を受けました。生母は元明親王(醍醐天皇の皇子)の娘と伝わります。保昌は藤原不比等から8代後の人物です。この時代は、政治の中枢に藤原氏が君臨。中でも北家の勢いが強く、保昌の生まれた南家はわずかな勢力にとどまっていました。加えて身内の問題も、保昌の将来に影をさしたと考えられます。
寛和元年(985)には、弟の藤原斉光(斉明か?)が貴族への傷害事件を起こして逃走。検非違使によって討たれてしまいます。さらに保昌のもう一人の弟・藤原保輔も盗賊行為を働いていました。
こうしたことから、保昌に周囲からの厳しい視線が注がれたことは想像に難くありません。それでも保昌は懸命に仕事に取り組んでいきました。永延2年(988)には既に円融院判官代となっていたことがわかっています。
判官代(ほうがんだい)とは、上皇や法皇の家政機関である院司の次官にあたる役職です。別当(長官)を補佐するとともに、院庁が発給した公文に署判する立場でした。つまりこの時点で保昌の官位は、五位または六位であったことがわかります。
左遷? 地方官としての九州赴任
やがて保昌の人生に試練が訪れます。永誕2年(985)、父・藤原致忠が検非違使によって連行され、拘禁されてしまいます。弟・藤原保輔の罪に絡んでのことでした。同年には検非違使が藤原保輔を捕縛します。保輔は捕縛の際の傷が原因で、獄中で命を落とします。このとき、保昌には検非違使唐追求の手が及びませんでした。おそらく判官代という立場からだと考えられます。
しかし保昌の立場は、すぐに揺らぎ始めていきました。正徳2年(991)3月、円融法皇が崩御。仕えるべき君を失ってしまい、翌正徳3年(992)には日向守に叙任することになります。
日向国(現在の宮崎県に相当)の国力は、律令の等級区分で上から3番目の「中国」でした。同時に都から遠い「遠国」として扱われており、決して恵まれた人事ではなかったようです。一族の罪による、一種の報復人事であったことが想像されます。
長保元年(999)、またもや災難が降りかかります。今度は父・致忠が橘惟頼らを殺害したとして、流罪となるのです。こうした状況でも、保昌は何も問題を起こさずに日向守の役職を務め、寛弘2年(1005)8月には、九州において2度目の長官国司となる肥後守に叙任します。
肥後国(現在の熊本県に相当)は京から遠い「遠国」でしたが、国力は律令の等級区分で「大国」として扱われています。
中央政界に復帰 藤原道長に仕える
寛弘7年(1010)には、既に大宰少弐(太宰府における次官補佐)を拝命しており、同年11月に正五位下に叙位されたようです。太宰府は九州地方の国々の内政も担当。同時に諸外国との外交も所管していました。翌寛弘8年(1011)には従四位下に叙位されていますので、中央政界にもその働きが評価され、少しずつ出世の階段を登っていたことがわかりますね。
すでに保昌の地方での生活は、約20年と長きにわたっていました。そんな実直な働きが評価されたのか、長和2年(1013)正月には大和守に叙任しています。大和国(現在の奈良県に相当)は京のすぐそばの「畿内」に属しており、規模では「大国」に分類されます。
地方赴任20年以上が経ち、保昌はようやく畿内の長官国司となることができたのです。
なお、同年4月には左馬権頭を拝命。武官として朝廷の軍馬を管理する立場を任されています。すでにこの頃には、藤原道長に接近していたと見られます。当時の道長は正二位左大臣として朝廷を主導、公卿の中心的立場として動いていました。
保昌は源頼信や平維衡、平致頼らとともに出仕。道長四天王と並び称せられています。源頼信は平忠常の乱を制圧。平維衡は伊勢平氏の祖となり、平致頼は道長暗殺計画に関わったと言われるほどの人物でした(後述)。
和泉式部を妻に娶る
保昌は左馬権頭だったときに、一人の女性と出会います。藤原彰子(道長の長女)の女房で、女流歌人でもある和泉式部(いずみ しきぶ)です。和泉式部は大江雅致の娘であり、多くの恋の逸話を持つ女性でした。保昌と和泉式部の恋の話は、祇園祭の保昌山(ほうしょうやま)の由来とされてきました。
謡曲『花盗人』では、保昌が宮中で和泉式部を見初めます。想いが昂じた保昌は恋文を送り続けますが、色良い返事をもらえません。やがて和泉式部は紫宸殿(内裏の正殿)に咲いている紅梅を手折って、持って来て欲しいと伝えます。
紫宸殿は警護が厳しい場所で、保昌は左馬権頭という高位な武官でした。通常であれば諦めて断るところですが、保昌は請け負います。
夜になったところで保昌は内裏に潜入。北面武士たちに矢を射かけられながらも、紅梅の一枝を持って帰ります。和泉式部もそんな保昌の想いに応え、2人は無事に結ばれました。
最上級の国司へ
寛仁4年(1020)、今度は保昌は丹後守に叙任。丹後は、都に近い「近国」で国力は「中国」でした。前任の大和国より少しランクが落とされたように見えます。しかし丹波は京を守る上で重要な土地でした。『十訓抄』では、丹後国に下向した話が記されています。
保昌は馬に乗ったままの状態で与謝山に差し掛かり、同地で白髪の武者に遭遇しました。説話によると、老武者は平致頼だったと伝わります。致頼はかつて藤原道長の暗殺計画に関わっていたとも言われる人物でした。しかし史実では、致頼はすでに死去しています。おそらくフィクションだと思われますが、保昌の鋭さを伝える話です。
万寿2年(1025)年、保昌は大和守(再任)に叙任され、再び畿内の大国を収める立場となります。『日本紀略』によれば、長元7年(1034)には既に摂津守に叙任されています。「畿内」に属する「上国」の国司という地方官としては最上級の立場でした。
やがて摂津国の平井という場所に住むようになり、平井保昌とも呼ばれるようになりました。この前後において、正四位下に昇叙されています。長元9年(1036)9月、この世を去りました。
享年79。墓所は昌林寺にあります。
【主な参考文献】
- レファレンス協同データベースHP 「藤原保昌とはどんな人物か知りたい」
- コトバンクHP
- 関幸彦『武士の原像 都大路の暗殺者たち』(吉川弘文館、2020年)
- 桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす─混血する古代、創発される中世』(筑摩書房、2018年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄