「安倍晴明」スゴ腕陰陽師の実像とは 藤原道長との関係は?

安倍晴明(『安倍晴明 : 武士道精華』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
安倍晴明(『安倍晴明 : 武士道精華』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 陰陽師・安倍晴明(あべのはるあきら、921~1005年)。圧倒的な呪術力で怨霊と対決するヒーロー像がイメージされます。確かに平安時代の人物としては藤原道長、紫式部に劣らない知名度がありますが、実は、前半生はほとんど不明。40歳のときはまだ学生で、陰陽師としての活動は50歳前後から本格化し、かなり大器晩成の人物でした。安倍晴明の意外な実像や藤原道長ら貴族との関係をみていきます。

百鬼夜行が見えた少年時代

 安倍晴明の父は大膳大夫・安倍益材(ますき)。大膳大夫は儀式の膳、供物の調達など宮中の食事に関わる大膳職の長官。何やら裏方仕事のようですが、地味ながらも天皇側近です。古代豪族・阿倍氏(安倍氏)の「アベ」の由来は「饗(あへ)」で、これも同じ職掌とする説もあるので、代々継承された役職の可能性もあります。いずれにしても中級貴族です。

 系図によると、祖先は大化の改新で左大臣となる阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)で、「阿倍」から「安倍」となる平安時代初期まではそれなりに高官も輩出しますが、その後、この一族はぱっとしません。

「せいめい」でなく「はるあきら」

 安倍晴明の読みは「あべのせいめい」で知られていますが、本来、「晴明」は「はるあきら」です。または、「はるあき」「はれあきら」とする見方もありますが、いずれにしても、伝承の中では早くから「せいめい」と読まれ、「清明」の表記も登場します。

 陰陽道の師匠は、『今昔物語集』では賀茂忠行、『続古事談』では忠行の子・賀茂保憲とされています。賀茂保憲は晴明の4歳上で、ほぼ同世代。この頃は賀茂忠行、保憲父子が陰陽道の第一人者だったのです。保憲の長男・賀茂光栄も晴明とほぼ同時期に活躍した優れた陰陽師です。

 その後、賀茂保憲の子孫が暦博士、安倍晴明の子孫が天文博士を世襲し、安倍氏と賀茂氏が二大陰陽家として並び立つようになります。

死後100年で伝説的存在に

 『今昔物語集』に少年時代の逸話があります。

 夜半、賀茂忠行は牛車の中で眠ってしまいますが、徒歩で従っていた安倍晴明は前方から恐ろしい鬼たちが迫ってくるのが見え、すぐに賀茂忠行を起こします。賀茂忠行は隠形の術で無事にやりすごしました。ほかの人には見えない百鬼夜行が見える晴明に感心した賀茂忠行は陰陽道の奥義をすべて伝えたといいます。

 『今昔物語集』は平安時代後期の成立。没後100年程度で早くも晴明の伝説ができあがっていました。

陰陽師はもともと国家公務員

 陰陽師はれっきとした朝廷の官僚、すなわち国家公務員です。

 中務省という国家の中心的な省庁に陰陽寮があり、その長官の陰陽頭を筆頭に事務官僚がいます。そして、技能部門は、(1)陰陽部門、(2)暦部門、(3)天文部門、(4)漏剋(ろうこく、水時計)部門があり、陰陽博士、暦博士などの技能官僚がいました。天体観測や暦の作成、時報の発出など最先端科学を扱う役所だったのです。

 その陰陽寮の陰陽部門に定員6人の陰陽師がいました。業務として占いや祈禱を行いましたが、徐々に呪術も重視されるようになり、平安時代中期には不思議な能力を駆使する陰陽師のイメージが定着します。さらには陰陽寮に所属する官僚全体にもその能力が期待され、陰陽寮経験者も陰陽師とみられるようになります。

 陰陽寮を離れた後の安倍晴明も、貴族の日記などに「陰陽師」と書かれています。

不遇の前半生 50歳頃から頭角

 安倍晴明は天徳4年(960)、40歳のとき、まだ学生でした。

 30年以上後の長徳3年(997)、蔵人・藤原信経に、こんな話をしています。

晴明:「重要な霊剣が去る天徳の内裏の火災で焼失した。私は天文得業生だったが、宣旨(天皇の命令書)を受けて調査報告書を出し、霊剣を再生させた」

 天徳4年9月に起きた内裏の大火災の際、被災した霊剣の刀身の文様を明らかにし、その通りに刻ませて霊剣を再生させたと、晴明自身が証言しているのです。

40歳・学生で霊剣再生?

 「天文得業生」とは、天文博士を目指す学生「天文生」のうち特待生となった者で、天文博士の後任候補としてはいいポジションですが、いわば修業中の身。内裏の霊剣再生に関わる重要な任務を学生の立場で請け負ったのでしょうか?

 別の史料では、勅命を受けて霊剣を再生したのは天文博士・賀茂保憲となっています。また、その儀式に関する史料では、安倍晴明は助手のようなポジション。天文博士が責任者で、その後任候補である天文得業生が助手というのは至って自然です。

 賀茂保憲は貞元2年(977)、61歳で死去。保憲死後20年が経ち、さも自分が中心だったかのように安倍晴明が盛って話したのではないでしょうか。ちなみに、この話を記録した藤原信経は紫式部の異母妹の夫です。

藤原実資とも私的に交流

 安倍晴明は47歳のときは陰陽師、52歳の天禄3年(972)には天文博士だったことが確認でき、50歳前後でようやく天文博士になったとみられます。

 その後は宮中だけでなく、有力貴族の依頼も受け、陰陽師として活動したことが、いろいろな史料から分かります。

 藤原実資の日記『小右記』にもたびたび登場。寛和元年(985)4月19日、実資の妻の出産のため、お祓いをします。予定日を過ぎても出産の気配がなく、実資が心配したのです。出産は9日後の4月28日で、女の子でした。また、この女児のために永延2年(988)7月4日には病気や祟りを祓う祈禱もしています。

疫病神退治をする安倍晴明(『泣不動縁起』より。出典:wikipedia)
疫病神退治をする安倍晴明(『泣不動縁起』より。出典:wikipedia)

健康長寿 60歳以降もバリバリ現役

 安倍晴明は70代以降、陰陽寮を離れ、官僚として出世していきます。70代で主計権助や備中介、80代で大膳大夫、左京権大夫とまあまあの官職に就いています。

 また、80歳までに従四位下に上っており、「安四位」と呼ばれました。四位は陰陽師を経験した官僚ではかなりの高位で、賀茂氏や晴明自身とその子孫が数少ない例外。晴明は成功した貴族でもあります。

道長の大きな信頼

 藤原道長の信頼も得ていて、『御堂関白記』によると、長保2年(1000)1月28日、道長の長女・彰子が一条天皇の中宮となるとき、吉凶を占って儀式の日時を選んだのも80歳の安倍晴明です。

 道長の姉・詮子の病気平癒の祈禱や葬儀にも関わり、長保6年(1004)2月、道長の父母らが眠る京近郊の木幡(京都府宇治市)での三昧堂建立地も選定。6月には、「きょうは日が悪い」と道長の仏像作りをやめさせ、8月には彰子の大野原社行啓を占い、延期を進言するなど公私ともに道長の様々な依頼を受けています。

大雨を降らせた雨乞い

 長保6年(1004)7月14日、安倍晴明が雨乞いの祭を行うと、その夜に大雨が降りました。一条天皇は晴明に褒美を与えるよう、道長に命じます。瞬間的にみると、晴明の不思議な能力が発揮されたようにみえます。しかし、雨はそのときだけで深刻な日照りは翌月まで続きました。現実的な効果があったとは言えません。

 雨がほとんど降らなかった期間に晴明が雨乞いしたときだけ雨が降ったのだから、やはり不思議な力とみるのか、問題解決に寄与しないただの偶然を過大評価すべきではないとみるか。見方が変われば、陰陽師の能力の捉え方も変わります。

死去直前まで精力的に活動

 安倍晴明は85歳で死去した寛弘2年(1005)も精力的に活動しており、死去直前まで健康だったようです。

 2月には改築された藤原道長の別邸・東三条第で儀式を行いました。なお、このとき、晴明は遅刻し、参加者を待たせています。3月には前年に続き彰子の大野原社行啓に関わる呪術をしています。

 死去したのは、『土御門家記録』では9月26日、『陰陽家系図』では12月16日となっています。

道長愛犬吠え、道満法師と対決

 陰陽師は国家公務員、官僚ですが、民間の陰陽師もかなりいました。法師陰陽師です。

 貴族たちの日常生活は、物忌みや方違えなど日時や方角の吉凶を判断する占いが身近であり、必要でした。官僚の陰陽師だけでは貴族のニーズに応えられない状況。しかも、法師陰陽師と言いますが、多くは形だけのニセ僧侶だったようです。また、ライバルや政敵を呪い殺そうとする貴族の呪詛事件に関わっている場合もありました。法師陰陽師は怪しげな存在だったのです。

『宇治拾遺物語』の道摩法師

 安倍晴明の宿敵として物語に登場するのが法師陰陽師の蘆屋道満(あしや・どうまん)です。

 『宇治拾遺物語』で晴明と対決する道摩法師は、そのモデルとみられています。藤原道長が白い犬を連れて法成寺に出かけますが、この愛犬は道長の周りを駆け回って吠えたり、直衣(のうし)の裾をくわえたりして道長を寺に入れないようにします。道長が晴明を呼んで調べさせます。

晴明:「この通り道に呪う物が埋められています。その上を通ると、よくないことが起こりますが、犬には神通力があるので、そのことをお知らせ申し上げたのです」

 晴明が占いによって、その場所を見抜いて掘らせると、道長を呪うひと組の土器(かわらけ)が出てきました。そして、晴明は道摩法師の仕業と見破り、取り調べの結果、道摩法師は道長を恨む藤原顕光の命令だと白状します。

 なお、道長が法成寺を建立したのは寛仁4年(1020)で、晴明の死後。話自体はフィクションです。

実在した法師陰陽師・道満

 安倍晴明と蘆屋道満の対決は江戸時代の仮名草子『安倍晴明物語』や浄瑠璃、歌舞伎などの芸能にも取り入れられて人気となります。

 蘆屋道満はまったく架空の人物に思えますが、道満という法師陰陽師は実在しました。

 寛弘6年(1009)2月、藤原道長や彰子、彰子を母とする一条天皇の皇子・敦成親王を呪う呪詛事件が発覚しますが、『政事要略』という史料にその裁判記録があり、呪詛した法師陰陽師グループの中に道満という人物がいました。

 実在の道満は、晴明と面識や対決があったのかは分かりませんが、早い時期にできた晴明の伝説は何らかの事実が下敷きになり、道満の名が伝わる原点になった可能性があります。

おわりに

 安倍晴明は、藤原道長の側近・藤原行成の日記『権記』に「道の傑出者」と記され、平安時代の陰陽書で唯一現存する『占事略决』も著しています。傑出した陰陽師だったことは確かです。

 そして、霊剣再生のエピソードなどからは、かなりの自信家でプレゼン能力が高かった人物像が想像できます。陰陽道第一人者で同年代の賀茂保憲よりもかなり長生きだった幸運もあり、有力貴族とのコネクションを築き、陰陽家・安倍氏の地位を押し上げたのです。その努力が子孫につながり、様々な伝説、フィクションを生み、無敵の「安倍晴明」像ができあがったのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 山下克明監修、大塚活美・読売新聞大阪本社編『図説安倍晴明と陰陽道』(河出書房新社、2004年)
  • 繁田信一『安倍晴明』(吉川弘文館、2006年)
  • 武石彰夫訳『今昔物語集本朝世俗篇 全現代語訳』(講談社、2016年)講談社学術文庫
  • 高橋貢、増古和子『宇治拾遺物語 全訳注』(講談社、2018年)講談社学術文庫
  • 倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」』(講談社、2009年)講談社学術文庫
  • 倉本一宏編『現代語訳小右記』(吉川弘文館、2015~2023年)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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