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こんなにある?各地に鎮座する為朝神社
- 2025/03/03

身長2メートルを超える大男で、生まれつきの乱暴者。剛弓の使い手として蛮勇を振るった人物として恐れられた平安末期の武将・源為朝。数々の英雄伝説にあやかってか、全国各地に「為朝神社」という名の神社があることをご存じでしょうか?
源為朝とは
冒頭に記した人物像は、軍記物「保元物語」に登場する源為朝を言い表したものです。為朝は架空の人物ではなく、源氏一族として実在しました。為朝は、保延5年(1139)に源為義の八男として生まれ、兄弟には源頼朝の父である義朝や木曽義仲の父である義賢がいます。為朝は為義の不興を買って九州に追われ、そこで「鎮西八郎」と名乗り、大暴れをしていたそうです。
天皇家と摂関家の権力争いによって勃発した保元の乱では、為朝は為義とともに崇徳上皇方につきますが、戦いに敗れてしまいます。逃亡した為朝は捕らえられ、伊豆大島へ流罪となったのです。
伊豆諸島にある為朝神社
流罪となった為朝ですが、蛮勇ぶりは相変わらずで伊豆大島をはじめ、伊豆諸島の島々を従えるようになったといいます。一方で逃亡のために島々を転々としたとも伝わっています。伊豆大島には、為朝の館跡だったところに為朝神社(香殿神社)が建立されています。為朝は島の代官・藤井氏の娘を妻にしており、藤井家代々の氏神として祀られました。館跡と神社は、ホテル赤門の敷地内になっています。
八丈島には、為朝神社石宮(いしみや)という史跡があります。伝承によると、保元の乱に敗れた為朝は八丈島へと流れ着き、さらに追っ手から逃れるため、北西にある八丈小島に渡って生涯を閉じたそうです。
このほか、新島や三宅島にも為朝が上陸したことに伴う伝説が残っており、ゆかりの地として為朝神社が鎮座しています。

甲斐武田家の始祖が祀った為朝神社
本州内陸部の山梨県韮崎市にある武田八幡宮の境内の一角にも為朝神社があります。為朝伝説とは直接関係がなさそうな地ですが、なぜ神社が鎮座しているのでしょうか?武田八幡宮は、平安末期に源氏の一族であり、甲斐源氏武田家の祖となる武田信義が氏神として厚く崇敬した神社です。
信義の曽祖父は新羅三郎義光、為朝の曽祖父は八幡太郎義家という兄弟関係にあり、為朝の死後、祖先を同じくする信義が為朝神社を建立しました。信義には、弓の名手であり、武勇と伝説に彩られた為朝を敬う気持ちがあったのだろうと思われます。
社殿内には巨大な源為朝像が鎮座し、にらみを利かせていますが、この像は天保12年(1841)に造られたそうです。
全国各地にある為朝神社
山梨県韮崎市以外にも、全国各地に為朝神社があります。そのいくつかの神社をご紹介しましょう。仙台市青葉区の為朝神社には、江戸時代に仙台藩祖となった伊達政宗が、為朝の霊力によって難を逃れたとの社伝が残っているそうです。
神奈川県横須賀市の為朝神社には、江戸時代に漁民が海に浮かぶ鎮西八郎為朝の木像を拾い、地蔵堂に安置して祈願したところ、功が多かったという話が残っています。
熊本県水俣市の為朝神社には、保元の乱に敗れて伊豆大島に流される前に為朝が立ち寄り、着ていた直垂の片袖をちぎって残していったという由緒があるそうです。
おわりに
歴史上に名を残した武将の中で、自身の名を冠した神社がこれほど残っている人物は数少ないでしょう。源為朝は、同じ時代の人々の心に残ったばかりでなく、時代を超えた英雄として長く語り継がれていたことを物語っています。- ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
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