※ この記事はユーザー投稿です

我が子に先立たれた戦国大名、その家の運命どうなる?

 親にとって我が子に先立たれてしまうのは、この上ない悲しいことですが、肉親同士で骨肉の争いをしていた戦国大名も同じ気持ちだったのでしょうか?嫡子を失った戦国大名と大名家のその後を追ってみました。

信親を失った長宗我部元親

 嫡子を失った戦国大名家のなかで、最も悲劇的な運命をたどったのが四国の雄・長宗我部家でした。
長宗我部元親の嫡子の信親は永禄8年(1565)に生まれ、文武に優れた武将として順調に成長していきます。ところが、天正14年(1586)に信親だけでなく、長宗我部家の運命を変えてしまう戦いが起きたのです。

 豊臣秀吉の九州征伐に動員された元親・信親親子は、戸次川の戦いで島津軍と激突。島津軍の「釣り野伏戦法」で総崩れとなってしまいます。この時、信親は戦場に踏みとどまり、敵の追撃を食い止めながら壮絶な戦死を遂げたのです。

 元親は、はた目にも分かるほどの落胆ぶりを見せ、人が変わったようになってしまいます。家中の反対を押し切って後継者に指名したのは四男の盛親。元親の死後、盛親は家中をまとめきることができず、関ケ原の戦いで西軍に加わってしまいます。その結果、長宗我部家は改易処分となり、没落してしまったのです。

義信を失った武田信玄

 戦国最強クラスの軍団を作り上げた武田信玄は、勝頼という後継者に恵まれたと思われがちですが、実は嫡子を亡くした経験があったのです。

 信玄の嫡子の義信は天文7年(1538)に生まれます。母親は公家の三条家の娘という家柄で、源氏の血を引く武田家にはふさわしい跡取りでした。義信は今川家の娘を妻に迎え、後継者の地位を固めていきました。

 ところが、今川義元が桶狭間の戦いで戦死して今川家が弱体化すると、信玄は今川領侵攻を企てます。これに義信は猛反対して父子の対立が深まり、義信は信玄へのクーデターを決意しますが、失敗してしまいます。

 義信は幽閉され、永禄10年(1567)に無念の死を遂げました。信玄は武田家当主として、諏訪家を継いでいた勝頼を据えましたが、正当な後継者には摘孫の信勝を指名せざるをえなかったのです。

 勝頼と信勝は天正10年(1582)の天目山の戦いで自刃し、武田家は滅亡しました。

信康を失った徳川家康

 天下統一を果たし、250年以上続く幕府を開いた徳川家康も嫡子を失うという苦い経験をしています。

 家康の嫡子の信康は永禄2年(1559)に、正室・築山殿との間の子として生まれました。桶狭間の戦いの後、織田信長と同盟を結んだ家康は、信長の娘を信康の妻として迎え、強固な関係を築こうとしたのです。

 信康は武勇に優れた武将に育ち、多くの武功を挙げたといいます。しかし、築山殿とともに武田家との内通が疑われ、天正7年(1579)に自害させられました。信長の命令だったとも、家康が自ら処断したとも言われています。

 慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで、徳川軍主力を率いていた後継者の秀忠が、合戦に間に合わないという失態を犯してしまいます。その時、家康は「信康が生きていていたら」と嘆いたそうです。

 存命なら41歳。天下分け目の戦いでの雄姿を見たかったのは、家康だけではなかったでしょうね。

おわりに

 長宗我部信親、武田義信、松平(徳川)信康は、嫡子として将来を嘱望された武将だったことがわかりました。

 「たら、れば」の話ですが、3人がそれぞれ後継者の座に就いていれば、各大名家の運命は変わっていたでしょう。もしかすると、その後の日本の歴史にも影響していたかもしれませんね。

  • ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
  • ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。