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神君を苦しめた真田家から老中が生まれたワケは?

真田幸貫(出典:Wikipedia)
真田幸貫(出典:Wikipedia)
 戦国時代に徳川家康や徳川家を苦しめた信濃の小大名・真田家は、家康に滅ぼされることなく、江戸時代に松代藩として幕末まで命脈を保ちました。そればかりか、真田家からは幕府の中枢である老中まで輩出しているのです。なぜでしょう?

徳川家と真田家の因縁

 真田家が徳川家と関係を持ち始めたのは、織田信長によって武田家が滅亡し、その信長が本能寺の変で殺された後、旧武田領を巡って周辺大名が領有争いをした「天正壬午の乱」からです。

 天正13年(1585)に、真田昌幸が徳川家康の大軍を迎え撃った第一次上田城合戦が勃発します。昌幸は知略を駆使して徳川軍を翻弄し、撃退することに成功しました。家康は合戦で苦い黒星をつけられたわけです。

 時代が下って慶長5年(1600)、上方で挙兵した石田三成に味方するため、昌幸は上田城に引きこもり、徳川秀忠率いる徳川軍との第二次上田城合戦の火ぶたが切られます。ここでも老獪な策をろうし、西へ向かう徳川軍の足止めを果たしました。

 家康にとって真田家は、2度も苦汁をなめさせられた憎き大名だったのです。

長寿だった真田信之

 真田昌幸には嫡男の信之がいました。信之は、家康の腹心である本多忠勝の娘を家康の養女としたうえで妻に迎えており、三成挙兵の際も、家康に離反した昌幸に対し、徳川軍に残るという選択をしたのです。
関ケ原の合戦後の論功行賞で、信之は昌幸の所領だった上田城を与えられ、元和8年(1622)に松代藩への移封を命じられました。

 徳川幕府は、福島正則をはじめ、加藤清正の加藤家や最上家など豊臣恩顧の諸大名に対して様々な理由をつけ、次々と改易処分にしていました。真田家も過去のいきさつから、目を付けられていた可能性はあります。

 信之は藩主の座にあり続け、隠居したのは明暦2年(1656)の御年91歳。家康と直接かかわりがあり、戦国乱世を知る信之が健康長寿を保ったことが、真田家存続の一因になったと言えるでしょう。

転機となった男系断絶

 信之の隠居後は、二男の信政が跡を継いで2代藩主となり、3代幸道、4代信弘、5代信安、6代幸弘と、松代藩主として君臨し続けてきました。

 真田幸弘は名君として知られていますが、男子がいませんでした。そのため、譜代大名の筆頭格である井伊家から婿養子を迎え、7代幸専(ゆきたか)として藩主を継がせたのです。

 幸弘にすれば、本来なら実子に継がせたかったのでしょうが、実子がいないのであれば、幕府との結びつきを深めた方が松代藩の行く末のためになると決断したのでしょう。これにより、真田昌幸や信之からの直系男子は途絶えることになります。

幕末の老中・真田幸貫

 真田幸専も後継者となる男子に恵まれませんでした。そこで、白河藩の松平家から養子を迎えることにしました。これが8代幸貫となります。

 幸貫の実父は寛政の改革を実行した松平定信です。定信は徳川吉宗の孫にあたり、将軍家の血統を継ぐ人物でした。幸貫が当主となったことで、真田家と幕府との結びつきは格段に深まりました。

 幸貫は時の老中首座である水野忠邦に抜擢され、天保12年(1841)には老中に登用されたのです。幸貫は海防掛を務めながら、天保の改革の一翼を担いました。

 幸貫の後、9代幸教、10代幸民と続き、明治維新を迎えたのです。

おわりに

 神君家康に2度も苦汁をなめさせた真田家ですが、江戸後期には家康の子孫の家から養子を迎えていたことがわかりました。戦国以来、お家の生き残り戦略に長けていた真田家の「伝統」は、見事に引き継がれていたのですね。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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