大河ドラマ「光る君へ」 一条天皇はどのように崩御されたのか?

 大河ドラマ「光る君へ」第40話は「君を置きて」。

 一条天皇(円融天皇の子)の中宮・彰子(藤原道長の長女)は、寛弘5年(1008)、敦成親王を出産しますが、翌年(1009)11月には敦良親王を産むことになります。一方、道長の次女・妍子は寛弘7年(1010)に、居貞親王(冷泉天皇の子。後の三条天皇)の妃となります。

 道長の長女・彰子は前述したように、一条天皇の皇子を産んでいました。その皇子が順調に成長し、何れ天皇に即位すれば、道長は天皇の外祖父となります。しかし当時は乳児や子供の死亡率が高いですので、順調にいくとも限りません。そこで道長は次女・妍子を居貞親王に嫁がせて男子の誕生を期したのでしょう。道長としては、一条天皇が譲位した場合は、居貞親王を即位させ、敦成親王をその皇太子とするとの思惑があったと思われます。

 寛弘8年(1011)5月下旬、一条天皇が病に倒れたことにより、譲位の動きが活発化します。道長は譲位に関連する易占いを行わせますが、その結果は、天皇崩御という不吉なものでした。その結果を見た道長は泣いてしまいます。道長は清涼殿の二間で泣いたのですが、その様を一条天皇が目撃してしまうのです。

 一条天皇は、道長が譲位に関する策動をしていることを知り、ショックを受け、病が余計に重くなったとのこと。一条天皇としては、寵愛していた中宮・定子との間に生まれた第一皇子・敦康親王を先ずは立太子させたいと思っていたと推測されます。一条天皇は、側近である藤原行成に敦康親王の立太子の件を諮問しますが、行成は敦成親王の立太子こそ相応しいことを言上するのでした(ドラマでも描かれているように、行成は道長の右腕としても活躍していました)。現在、道長が朝廷の重臣であるので、その外孫の第二皇子(敦成親王)が皇太子に相応しいと行成は主張したのです。

 そうした経緯もあり、一条天皇は6月13日、居貞親王に譲位(三条天皇の誕生)。三条天皇の皇太子には、敦成親王が立ちます。道長の思惑通りに事が進んだと言えるでしょう。出家された一条は、6月22日に崩御されます。32歳のご生涯でした。


【主要参考文献一覧】
  • 朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007年)
  • 倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023年)

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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