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  • 上杉謙信
 2019/09/12

「新発田重家」恩賞問題で不満爆発!上杉家に背く。

福勝寺(新潟県新発田市)にある新発田重家の像
福勝寺(新潟県新発田市)にある新発田重家の像

戦国末期の上杉家はその後継者を争う「御館の乱」で国力を大きく落としただけでなく、戦後処理においても戦の後遺症が尾を引くことになりました。

その最たる例が今回紹介する新発田重家との対立です。乱を共に戦い抜いた上杉景勝と新発田重家はその戦後に袂を分かつ結果となってしまうのです。

この記事では、新発田重家の生涯とその裏切りについてご紹介していきます。
(文=とーじん)

新発田の生まれもしばらくは五十公野姓を名乗る

新発田重家は天文16(1547)年に生まれると、五十公野源太(のち治長と改名)という名で活動していたようです。

そもそも重家が家督を継承したのは彼の兄である新発田長敦が亡くなった天正8(1580)年以降のことであり、それまで重家は新発田家の武将ではなく、五十公野家という一族を継いでいました。

とはいえ当然ながら実家である新発田家との関係性は良好であったようで、新発田城を本拠に重臣として位置づけられていた兄の長敦とともに謙信に仕えました。

新発田家は為景の代でこそ越後上杉氏と関係を悪化させたものの、その後は謙信に従って各地の転戦で大きな成果を挙げています。

特に第四次川中島の戦いで新発田勢が果たした役割は大きいとされ、また上洛から帰国した謙信に太刀を献上するなど、この時期には反乱の影が見えることはありません。

「川中島合戦図屏風」左隻部分(岩国美術館所蔵)
「川中島合戦図屏風」左隻部分(岩国美術館所蔵)

新発田家が歴史の中で最も華々しい活躍を見せるのは、謙信死後に勃発した御館の乱における一連の戦ぶりに他なりません。しかし、皮肉なことにこの活躍こそが彼らの運命を一変させてしまうのですから、戦国時代というものは非常に複雑です。

御館の乱では兄と共に景勝の勝利に貢献

謙信の死後、上杉景勝と景虎という二人の養子が後継者争いを本格化させていき、上杉の家臣らはどちらに味方するか、その選択を迫られることになりました。新発田家は景勝方としての参戦を決断しますが、家臣によっては家の中でも敵味方が分裂してしまうようなこともあったようです。

当初は上杉全体として内乱を起こすのは本意ではなく、開戦を回避するために様々な項策がなされていたようです。しかし、天正6(1578)年にはついに戦が勃発してしまい、景勝方は当初不利な形で戦運びを余儀なくされます。

ところが、そうした不利を跳ね返すかのように緒戦では大軍を相手に景勝方が勝利を収めるなど、不利な状況は変わらずも武運のあるところを見せつけていきます。新発田勢も、この勝利には大きく貢献したことでしょう。

しかし、景虎方が外交戦略によって武田勝頼を味方に引き込むなど、景虎の優れたセンスによってさらに不利な状況へと追い込まれてしまうのです。ここで武田勢が景虎方として参戦してくれば、景勝の命運は尽きていたでしょう。

ここで景勝はある策を弄し、織田家や北条家によって追い込まれていた勝頼に使者を派遣しました。彼は勝頼に上記の脅威に対する共闘を約束すると、武田勢は「両者の和睦あっせん」という、事実上の日和見を決め込むと方針を転換。

これによって景虎方は大打撃をこうむり、さらに景勝は調略を通じて自身の味方を増やしていきました。加えて景勝は景虎との和睦を勝頼に信じ込ませ、彼は意気揚々と帰国していくことになるのです。

ただし、この和睦は言うまでもなく勝頼を帰国させるための方策に過ぎませんでした。その後は景勝勢と新発田を含む揚北衆が坂戸城に籠り、景虎と彼の後ろ盾となっている北条氏の勢力との対決を迎えます。

新発田重家の本拠・新発田城の位置。色塗部分は越後国。

この坂戸城をめぐる攻防が乱の勝敗を分けるものとなることは両者承知していたようですが、優勢に戦を進める景虎方に対して景勝方はじっと耐え忍ぶ戦い方を選択しました。これは彼らが「雪の季節」を待ち望んでいたためで、雪により北条勢が関東から孤立することになるため彼らは順次撤退を迫られることになるのです。

景虎方は雪解けの季節を待たなければなりませんでしたが、その高い政治力の一方で軍事的な弱さを隠せなくなっていきます。景虎方の大将クラスは次々と討ち死にしていき、一方で新発田を含む景勝方の勢力はその軍事力を見せつける結果となりました。

こうしてついに景虎の本拠である御館は落城し、重家ら新発田家を含む揚北勢はその勝利に多大な貢献を果たしたのです。

恩賞に不満を抱いた重家は、信長と結び挙兵に出る

乱の後にくすぶっていた国内の統治を済ませると、景勝はこれまでのような国衆と当主の連合体から中央集権的な国家への移行を目指し、その証拠に戦後の恩賞がかなり偏った形で与えられることになります。

景勝腹心の家臣ばかりが領土・権力を強めていき、乱で主役として活躍したはずの新発田ら国衆は明らかな冷遇をされてしまったのです。天正8(1580)年に兄が病死し、新発田家を継いで新たな当主となった重家は、この裁定に激怒。

天正9(1581)年には竹俣慶綱という人物が管理していた新潟津を横領すると、その行為に対して弱腰な姿勢を見せた景勝に対してさらなる攻勢を仕掛けます。重家は信長と通じ、彼の後ろ盾をもとに新発田重家の乱を引き起こしました。

新発田城跡(本丸表門と辰巳櫓)
重家の本拠・新発田城(本丸表門と辰巳櫓)

この乱は当時天下を手中に収めかけていた信長の影響力もあり、じわじわと戦線を拡大。その脅威は、景勝をして「たとえ滅亡しても天下の人々から羨ましがられる」と、一族の滅びさえ覚悟させるものでした。

しかし、重家の快進撃は、天正10(1582)年の本能寺の変によってストップしてしまいます。これは言うまでもなく彼の後ろ盾であった信長が亡くなってしまい、さらに景勝がその後継の座に収まった秀吉子飼いの大名として位置づけられてしまったためです。

こうして苦境に立たされた重家は、天正15(1587)年に本拠である新発田城を景勝に攻められると、ついに落城してしまいました。この際も彼自身は奮戦したと伝わっていますが、抵抗もむなしく最期は自害によって生涯を終えています。

新発田重家の乱はあまり顧みられることがないものの、信長の命がもう少し長ければ「大名・新発田重家」が誕生してもおかしくなかったような重大事件でした。


【参考文献】
  • 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』、学研パブリッシング、2009年。
  • 乃至政彦『上杉謙信の夢と野望:幻の「室町幕府再興」計画の全貌』洋泉社、2011年。
  • 乃至政彦・伊東潤『関東戦国史と御館の乱:上杉景虎・敗北の歴史的な意味とは?』洋泉社、2011年。



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