「たったこれだけ?」不満爆発!主君・上杉家に牙を剥いた新発田重家
- 2025/09/02

戦国時代末期、上杉家は後継者争い「御館の乱」で国力を大きく落としました。さらに、戦後の処理が尾を引き、今回紹介する新発田重家(しばた しげいえ)との対立に発展します。
御館の乱を共に戦い抜いた上杉景勝と新発田重家は、その戦後に袂を分かつことになります。この記事では、新発田重家の生涯と、彼が上杉家に反旗を翻すに至った経緯を解説します。
御館の乱を共に戦い抜いた上杉景勝と新発田重家は、その戦後に袂を分かつことになります。この記事では、新発田重家の生涯と、彼が上杉家に反旗を翻すに至った経緯を解説します。
五十公野姓から新発田家当主へ
新発田重家は天文16年(1547)に生まれ、当初は五十公野源太(のち治長)と名乗っていました。彼が実家である新発田家の家督を継いだのは、兄・新発田長敦が亡くなった天正8年(1580)以降のことです。それまでは、一族の五十公野家を継いでいました。実家との関係は良好だったようであり、重家は兄の長敦とともに新発田家の重臣として、越後の大名・上杉謙信に仕えます。新発田家は一時期、謙信の父である為景と対立したものの、その後は謙信に従い各地を転戦、特に第四次川中島の戦い(1564)では大きな役割を果たしたとされ、この頃に反乱の兆候は一切見られませんでした。
新発田家が歴史の中で最も華々しい活躍を見せたのは、謙信死後に勃発した御館の乱での一連の戦いぶりに他なりません。しかし皮肉なことに、この活躍で彼らの運命を一変させてしまうのです。
御館の乱で景勝を勝利に導く
謙信が亡くなると、養子である景勝と景虎の間で後継者争いが勃発します。新発田家は、景勝方として参戦を決断。家臣の中には分裂する者もいましたが、兄・長敦に率いられた新発田勢は、景勝の勝利に大きく貢献しました。謙信の死後、養子である景勝と景虎の間で後継者争いを本格化させていき、上杉家臣たちは二人のどちらに加担するか、その選択を迫られることになります。新発田家は景勝方としての参戦を決断しますが、家中で敵味方が分裂してしまうような一族もあったようです。
上杉家全体としては、内乱になるのは本意でなく、開戦を回避するために様々な項策がなされていたようですが、両派の勢力が固まってついには天正6年(1578)に戦が勃発します。
当初から景勝方は不利な状況に置かれていました。というのも景虎方は実家の後北条氏や、武田勝頼など周辺同盟国の援助という強みがあったからです。もし武田勢が景虎方として参戦したら、景勝の命運は尽きていたでしょう。しかし武田は織田信長など他国との戦い等で窮地に陥っていたこともあり、中立の立場として事実上の日和見を決め込み、方針を転換したのです。
こうして武田勝頼の仲裁により景勝・景虎の両陣営の和平交渉が進行しますが、他国から侵略の報を受けた勝頼は急遽帰国。和平交渉が決裂し、武田氏の脅威もなくなった景勝方は、調略等を行なって勢力を挽回していくことになります。
その後は景勝方と新発田を含む揚北衆が坂戸城に籠り、景虎と彼の後ろ盾となっている北条氏の勢力との対決を迎えます。

この坂戸城をめぐる攻防が乱の勝敗を分けるものとなることは両者承知していたようですが、優勢に戦を進める景虎方に対し、景勝方は雪の季節を待つ戦略を選択します。これは冬に入って雪が降ることで北条勢の撤退を余儀なくさせ、、小田原からの北条軍の増援の可能性をなくすことにありました。
雪解けの季節を待たなければならない景虎方は、次第に軍事的な弱さを露呈していきます。大将クラスが次々と討ち死にする中、新発田家を含む景勝方の勢力は、その軍事力を見せつける結果となりました。
そして、ついに景虎の本拠である御館が落城。重家ら新発田家を含む揚北勢はこの勝利に多大な貢献を果たしたのです。
恩賞の不満から織田信長と通じて挙兵
御館の乱が終結すると、景勝はこれまでのような国衆と当主の連合体から中央集権的な国家への移行を目指します。その結果、戦後の恩賞はかなり偏った形で与えられ、景勝腹心の家臣ばかりが領土・権力を強めていき、乱で主役として活躍したはずの新発田ら国衆は明らかに冷遇されました。天正8年(1580)に兄が病死し、新たな当主となった重家は、この不公平な裁定に激怒。天正9年(1581)、重家は竹俣慶綱が管理する新潟津を横領すると、その行為に対して弱腰な姿勢を見せた景勝に対し、さらに攻勢を強めます。重家は天下を掌握しつつあった信長と通じ、その後ろ盾を得て、反逆を起こしたのです。(新発田重家の乱)

この乱は信長の影響力もあり、じわじわと戦線を拡大。その脅威は、景勝をして「たとえ滅亡しても天下の人々から羨ましがられる」と、上杉一族の滅びさえも覚悟させるものでした。しかし、重家の快進撃は、天正10年(1582)の本能寺の変で終わりを告げます。後ろ盾であった信長が亡くなり、景勝がその後継の座に収まった秀吉の配下となったからです。
こうして苦境に立たされた重家は、天正15年(1587)に本拠である新発田城を景勝に攻められ、ついに落城。この際も重家は奮戦したと伝わっていますが、抵抗もむなしく最期は自害してその生涯を終えました。
おわりに
新発田重家の乱は、あまり知られていませんが、もし信長がもう少し長く生きていれば、「大名・新発田重家」が誕生していたかもしれない、それほど重要な事件だったのです。【参考文献】
- 歴史群像編集部/編『戦国時代人物事典』(学研パブリッシング、2009年)
- 乃至政彦『上杉謙信の夢と野望:幻の「室町幕府再興」計画の全貌』(洋泉社、2011年)
- 乃至政彦・伊東潤『関東戦国史と御館の乱:上杉景虎・敗北の歴史的な意味とは?』(洋泉社、2011年)
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