上杉謙信の名言・逸話48選

越後の戦国大名・上杉謙信は、個性豊かな戦国時代にあっても一際目立つ人物です。毘沙門天を深く信仰し、義の心を重んじ、軍神と呼ばれるほど戦に生きた人物は、当時から有名でした。

一方で、当時の常識ではかれない生涯はいまだに謎も多く、数多くの逸話を生んでいます。今回は、そんな上杉謙信の逸話をご紹介します。有名だけど根拠が不確かなもの、あるいはあまり知られていない面白い史実など、厳選の逸話を集めました。

※上杉謙信は何度も名前を変えています。元服後も時期によって、長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→上杉謙信と、その数は4回に及びます。本記事では混乱を避けるため、「上杉謙信」で統一して記述いたします。また他の武将(武田信玄、足利義昭など)も時期に関わらず最も有名な名前で記述しています。あらかじめご了承ください。


幼少期

上杉謙信は享禄3(1530)年正月21日、長尾為景の子息として誕生しました。すでに晴景という兄がいたので、家督継承候補とはならず、間もなく寺に入れられます。


城郭模型で遊ぶ(のちに武田家に贈られる)(~12歳頃)

謙信は幼少期、一間(1.8m)四方の城郭模型で遊ぶのを好んだという。後に、上杉景勝がこの模型を武田勝頼の嫡男に贈っている。(『上杉謙信伝』)

史実かどうか確認はとれませんが、もし事実であれば武田・上杉の関係を物語る面白い逸話でしょう。


家督相続から第四次川中島まで

長尾家の家督を継ぐはずではなかった謙信ですが、病弱な兄・晴景にかわり、天文17(1548)年に19歳で家督を継ぎます。


上洛し後奈良天皇に謁見する(25歳)

越後統一を成し遂げた謙信は、天文22(1553)年の秋から冬にかけて上洛する。後奈良天皇に謁見し「住国および隣国」にて敵を治罰するように、という綸旨を賜った。その後、和泉国堺に出て石山本願寺証如と交流し、高野山に参詣、その後大徳寺前住職と交流を持つなどして越後に戻っている。(『上杉文書』他)

謙信は生涯で2度上洛しています。そのうち1度目がこの時です。彼はこれに先立って弾正少弼に任官され、白笠袋と毛氈鞍覆の使用許可も授与されています。謙信はこの上洛時に13代将軍・足利義輝に謁見を希望していましたが、義輝は政情不安定な京都を離れていたため叶いませんでした。


信玄と半年以上にらみ合い、今川義元が仲裁する(26歳)

この年の正月頃から、武田家方の工作によって信濃国の政情が不安定になった。謙信は4月に川中島付近に出陣するも、両軍睨みあうばかりで決戦にはならなかった。
対陣して7か月後の閏10月、とうとう今川義元が講和斡旋に乗り出して、両軍は陣を退いた。(『勝山記』他)

ちなみに、武田方の資料だと「謙信が困って今川義元に泣きついた」とあり、上杉方の資料だと「信玄が困って義元を担ぎ出した」とあります。


善光寺の仏具を持ち帰る

長期対陣は信濃善光寺付近であった。謙信は善光寺から仏具を持ち帰り、直江津近くに善光寺を建て、仏具を安置した。(十念寺Webサイトより)

ちなみに武田信玄もこの時に信濃善光寺本尊の善光寺如来を持ち帰り、甲斐善光寺をたてています。両者とも「戦で善光寺に被害が及ぶのを避けるため」という名目ですが、真実やいかに。


突然の家出(27歳)

謙信は弘治2(1556)年6月、突如として国主の地位をなげうって出奔した。師の天室光育宛の二千字を超える書状によると、出奔理由は「今まで頑張って国も豊かになったが、いつしか横合いの者がはびこって頑張りも無駄になり、家臣も従わない体たらくだ。もう身を引いて遠くから越後のありさまを見守りたい」との事だった。(「長尾宗心書状(写)」)

この後、家臣たちの必死の説得があり、謙信は春日山城に戻ります。単純に嫌になったから投げ出したのか、家臣の結束を高めるための意図的な策略かは微妙なところです。

謙信はこの頃から、家臣や、味方になった諸勢力の統制に苦慮しています。くるくると態度を変える勢力の統制は、彼が生涯にわたって悩まされる最大の問題になります。後世のイメージではカリスマの一人でありますが、実態はあまり人心掌握が得意でなかったようです。


「国の事は捨て置いても将軍様をお守りします」(30歳)

謙信は永禄2(1559)年、2度目の上洛を果たした。前回面会できなかった、13代将軍・足利義輝にも面会し、「御望みとあれば国の事は捨て置いても将軍様をお守りします」という手紙を進上している。(『上杉家文書』)

家臣や地元の有力者からは嫌われがちな謙信ですが、足利義輝ほか京都の将軍や公家からは好かれていました。なお、この時も謙信は文の裏書・塗輿・菊桐の紋章・朱柄の傘・屋形号の使用を許されています。これらは室町幕府では管領の家格にのみ許されていたことで、謙信が管領格として遇されていたことを物語っています。


大友宗麟からの書物を貰う(30歳)

この年、謙信は足利義輝から『鉄放薬方幷調合次第』という書物を下賜された。この本は大友宗麟が足利義輝に献上したものだという。(『上杉家文書』)

現在、本書は鉄砲技術をしるした比較的早い時期の書物として国宝に指定されています。


近衛前久に惚れられる(30歳)

時の関白・近衛前久は、上杉謙信との交流を強く希望していた。謙信が上洛したと聞けば、手紙を出したり御所からの帰り道を待ち伏せしたりして、なんとか面会にこぎつけた。面会後はお互いおろそかにしない旨の血判をかわした。(『上杉家文書』ほか)

間もなく近衛前久は謙信を追いかけて越後春日山に下向します。当時は公家が地方に下向することは珍しくありませんでしたが、摂関家の当主が、現職関白のまま、地方に行くことは前代未聞でした。
その後、近衛前久は越後に滞在し、謙信の関東出兵や第四次川中島の戦いの折には前線の城まで出張るというアクティブさを見せています。


鎌倉で上杉氏の家督を譲られる(32歳)

小田原城の包囲を解いた謙信は鎌倉の鶴岡八幡宮に向かう。そこで上杉憲政や周囲の要請があり、病気がちの憲政にかわって上杉の家督を継ぐことを受け入れる。(『簗田文書』ほか)

当時の文書によると、上杉家相続はどうも謙信自ら願ったものではなく、周囲の説得によるものだそうです。


下馬しなかった成田氏をしばいた(32歳)

鶴岡八幡宮での関東管領就任儀式の時、武蔵国忍城城主の成田長泰が下馬しなかった。成田家は名門のため騎乗での参列が慣例だったのだが、それを知らなかった謙信は激怒し、衆の面前で長泰を打擲した。間もなく長泰は兵をまとめて帰城し、上杉方を裏切って北条家に味方したという。(『相州兵乱記』)

しばいた真偽は不明ですが、この時期に成田家が上杉家から北条家に鞍替えしたのは事実です。一説には領土の統治方針について謙信と意見が相違したのが原因との事です。


第四次川中島の戦い

上杉謙信の生涯を語るにおいて、武田信玄との川中島における戦闘は避けて通れません。

もともとは、信濃侵略を進める武田家に追われた豪族たちが、謙信に助けを求めて逃げ込んできたのがきっかけです。彼らの旧領回復のために、謙信は度々北信濃に出兵し、武田軍と川中島付近で戦闘を繰り返しました。

その中でも特に、永禄4(1561)年、謙信32歳の時の第四次川中島の戦いは、激戦としても有名です。この戦は江戸時代から様々な物語で取り上げられ、多くの伝説が作られました。


武田軍の啄木鳥の陣を見破る

永禄4(1561)年、上杉・武田両軍は川中島で対陣した。武田軍は海津城に入り、上杉軍は妻女山に陣取って、膠着状態が続いた。その時、武田軍は、別動隊で上杉軍を奇襲し、本隊とで挟み撃ちにする「啄木鳥の陣」を計画していた。
しかし、上杉謙信は、夜になり海津城で飯炊きの煙が多いことから、武田軍が兵を動かすことに気付き、夜霧にまぎれて先に山を下り、逆に武田軍本陣に奇襲をかけようと計画した。(『上杉謙信伝』)

一説によると、この「啄木鳥の陣」を提案したのが武田信玄の軍師・山本勘助で、別動隊を率いたのは高坂弾正だと言われています。武田信玄・上杉謙信の一騎打ちが実現する前提として、武田軍が兵を二つに分けて、本陣側が手薄になっていた、という伏線にもなっています。


犀川を渡って武田軍の前に布陣する

鞭声粛粛夜過河(べんせい しゅくしゅく よる かわをわたる)
暁見千兵擁大牙(あかつきにみる せんぺいの たいがを ようするを)
遺恨十年磨一剣(いこんなり じゅうねん いっけんを みがき)
流星光底逸長蛇(りゅうせい こうてい ちょうだを いっす)
(頼山陽「不識庵機山を撃つの図に題す」・詩吟「川中島」)

江戸時代の学者・頼山陽の漢詩は、武田軍の啄木鳥の陣に気付いた上杉謙信が、夜闇にまぎれて山を下り、犀川を渡って武田軍本隊の前に迫る様子を描写しています。

個人的には、明かりも何もない中で夜に渡河できたのは不思議です。さらに、大軍が川を渡れば、どうやっても武田軍に聞こえてしまうような気もするのですが、物語的演出ということなのでしょう。


武田信玄との一騎討ち?

『甲陽軍鑑』では、上杉謙信が単騎武田軍本陣に斬り込んできて、信玄に馬上から斬りかかったと伝えている。信玄は軍配で三太刀受け止めたが、後で見れば軍配には七つの傷が残っていたという。
一方で、『上杉年譜』では、信玄本陣に突撃したのは荒川伊豆守という武将だとする。

『甲陽軍鑑』によると、この時斬りかかってきた者は、白手ぬぐいで頭をつつみ、萌黄の陣羽織で、月毛の馬に乗って三尺ばかりの太刀を抜いていた、という姿だったそうです。一軍の大将にしては地味な装いのように思われるのですが、いかに。

別の伝来だと、謙信はこの時「小豆長光」という刀を振るっていたと言います。信玄に肉薄した武者は、かけつけた信玄の護衛(中間頭の原大隅守と伝える書も)に馬を刺され追い返されてしまいました。


車懸りの陣

手薄な武田軍を撃破すべく、謙信も作戦をたてた。それが「車懸りの陣」で、全軍が車輪のように回ることで、新手がかわるがわる正面の敵にとりかかり、敵陣を突破するという作戦である。(『上杉謙信伝』)

一説には、この戦法で本陣が武田軍と戦う番になったとき、謙信と信玄の一騎討ちが起こったとしています。ただ、実際の戦場でそのように軍を指揮できるかは不明で、本当に謙信がこの作戦をとったかは分かっていません。


川の中での対決

五回目の川中島合戦の時、謙信は、前回の合戦で信玄を逃したのを悔しがり、川の中を退却する信玄を自ら追いかけて、川の中で太刀を抜いて斬りかかったという。(『川中島五箇度合戦之次第』)

江戸時代の屏風絵や錦絵に見られる、川の中での信玄・謙信の対決は、第五回目の出来事だとされる伝説です。


激闘だったのは事実

近衛前久が上杉謙信に出した書状によると、謙信は第四次川中島の戦いで「自身太刀打ちにおよび」すなわち「謙信自身も武器をとって戦った」という。(「歴代古案」)

当時、近衛前久は古河城にいました。謙信大活躍の知らせを受け、それをねぎらうために手紙を出しました。これにより、謙信自身も戦いに参加していたことは歴史上の事実といえます。もちろん、武田信玄の本陣に突撃したかは不明ですが、後世に謙信の本陣突撃が定説になる元ネタのひとつになりました。


その後の謙信

川中島の合戦の後も、謙信は関東攻略を進めます。一方で、独自に武田包囲網を模索し、織田信長・徳川家康との接触も試みています。


足利義輝暗殺事件を朝倉義景経由で聞く(36歳)

京都で足利義輝が三好三人衆と松永久秀に殺害されたと謙信に知らせが来た。(『上杉古文書』)

謙信は使者を朝倉家に送って詳細を聞いていて、朝倉方も「連絡がおくれて済みません」と言っていることから、両者の間で情報交換の協定のようなものがあったと思われます。


足利義昭から頼られる(37歳)

上杉謙信は早い段階から足利義輝の弟・足利義昭に頼られていた。永禄9(1566)年には、足利義昭から上杉謙信に宛てて、「自分を連れて上洛し三好・松永を蹴散らしてくれ」という内容の手紙が多数出されている。(『上杉家文書』)

謙信は2度の上洛経験があり、足利義輝と面会も果たしていることから、足利義昭も親しみを感じていたのではないでしょうか。結局、謙信が上洛することはなく、義昭は朝倉家そして織田家によって保護されます。


太田資正を説得する(38歳)

謙信は、武蔵岩付城の太田資正と親しく、関東攻略の時も彼と協力しようと考えていた。だが太田資正は北条軍に城を追われ、佐竹氏のもとに身を寄せるも、佐竹氏もまた北条方についたという知らせが。焦った謙信は太田資正に行動を促す使者や手紙を大量に送っている。(『上杉家文書』ほか)

謙信が義昭のもとに行かなかった理由のひとつに、関東諸侯の寝返りが相次いでいたことが挙げられます。この頃、北条氏の工作によって、謙信の関東における影響力がだんだん弱まっていました。謙信は、太田資正本人のみならず、交流があった彼の妹にも手紙を出して、兄の説得を頼んでいるほどです。


北条三郎(上杉景虎)を養子にする(41歳)

対武田信玄に備え、北条氏康・氏政は上杉謙信と関東での国境をさだめ和睦しようと試みた。永禄12(1569)年に起請文をとりかわして和睦が成立し、翌年の元亀元(1570)年に人質交換が行われた。上杉方からは柿崎景家の子息(謙信の甥)が、北条氏からは氏康の末子・三郎が人質となった。三郎は謙信の養子となり、「上杉景虎」と名乗った。(『上杉家文書』)


徳川家康と協力する(42歳)

この頃、徳川家康は駿河・遠江の支配をめぐり武田信玄と微妙な緊張関係にあった。謙信は一緒に武田家をけん制しようと考えて徳川家康に使者を派遣し、家康も起請文を書いて「武田と断交する」と誓った。(『上杉家文書』ほか)

以降上杉謙信は、対武田家の目的のもと、しばし織田信長・徳川家康と協力するようになります。


家康から兜を貰う(42歳)

元亀2(1571)年8月1日、謙信は家康から「唐頭兜」を贈られ、馬を返礼した。(『歴代古案』)


織田信長、謙信に鷹をせびる(42歳)

元亀2年3月20日、織田信長は書状で謙信からの陣中見舞いの礼を述べ、ついでに越後の鷹を求めた。間もなく謙信は信長にプレゼントしたらしく、同年9月25日付の手紙で信長は鷹の礼を述べている。(『上杉家文書』)

あわせて、信長は畿内の様子を謙信に知らせています。

それまで謙信は朝倉家経由で畿内の情報を得ていたようですが、この頃からは織田・徳川家経由で情報を貰うようになっていたようです。

織田信長からは他にも「洛中洛外図屏風」やマントが贈られたと伝わっています。


北条氏と断交する(42歳)

北条氏の当主となった氏政は、対立していた武田信玄と講和し、上杉謙信と断交した。(『上杉家文書』)

連絡を受けた謙信は、家臣宛の手紙で北条氏政を「馬鹿者」と罵倒しています。


信玄の死を知る(44歳)

上杉謙信のライバルであった武田信玄は、元亀4(1573)年4月12日に陣中で没した。
古文書によると、謙信は4月25日には信玄が病気だという情報を得、4月30日には信玄が病死した可能性が高いとみている手紙を出している。(『上杉家文書』ほか)


謙信、武田信玄・北条氏康を懐かしむ(45歳)

天正2年春、謙信は利根川付近にある羽生城の救援に来ていた。北条方が攻め寄せる城に兵糧を入れようとしたが、部下の誤情報のせいで地形を見誤り大失敗をした謙信。彼はその部下を「ばかもの」と酷評すると同時に、「たとえ信玄や氏康であっても地形を見誤っては勝てないだろう」と、2人の名を挙げて懐かしんでいる。(「志賀槙太郎氏所蔵文書」)

謙信は信玄や氏康を憎みつつも、どこか実力を認め懐かしんでいたようです。


武田氏弱体化により織田信長と断交(47歳)

天正4(1576)年前後から、上杉家と織田家の関係が悪化する。原因は、両家が敵視していた武田勝頼が弱体化し、織田家が甲斐・信濃や北陸に勢力を広げはじめたことによる。謙信は、足利義昭の要請もあり、織田信長と断交した。(『上杉家文書』ほか)


手取川の戦いで織田軍に圧勝する(49歳)

天正6(1578)年、北陸に勢力を伸ばしていた織田軍と上杉軍が、能登国七尾城付近の手取川で激突した。
この戦は、「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長」という落首にあるように織田方が大敗し、多数の死傷者を出した。(『上杉謙信伝』ほか)

七尾城は、当初織田方の城でしたが、織田軍本体が救援に駆けつけた時にはすでに謙信が攻略していました。

そうとも知らず、手取川を渡って城に入ろうとした織田軍が、あわてて引き返そうとした時に、上杉軍の追撃を受けた状況でした。

これにより、いわゆる「信長包囲網」は一時的に復活しますが、謙信は間もなく倒れてしまいます。


死後

甲冑を着せて埋葬

謙信の死後、遺体は遺言の通りに甲冑を着せ、甕の中に納めて、林泉寺不識院の中に埋葬された。(『謙信年譜』)


上杉家本拠地移転のたびに甕も引っ越し?

上杉家はその後会津や米沢に転封される。そのたびに謙信の遺骸が入った甕も輿にのせて運ばれたという。(『上杉謙信伝』)

ただ、本当に甕が動かされたのか・現在はどこにあるのか等は、寺伝や口伝などで様々な説があり、はっきりしていません。


神になった

上杉謙信の祠堂は、明治時代に神社となり、上杉鷹山を合祀して「上杉神社」となり現在に至る。(羽前米沢上杉神社Webページ)

人物像

ここでは、特定の時期に関わらない、上杉謙信の人となりに関する逸話をご紹介します。


義の武将イメージ

幕末の書物『名将言行録』によると、北条氏康はある時家臣たちに、「武田信玄や織田信長は言動が裏腹で信頼できない。ひとり上杉謙信だけは、請け負ったら死ぬまで義理を通す人だ。だから謙信の肌着でお守りを作り、若い武将に持たせたいくらいだ。私が仮に明日死んだとしたら、あとを頼めるのは謙信だけだ。」と語ったという。

他にも有名な逸話として、ライバルの武田信玄が息子の勝頼に「謙信を頼れ」と遺言した、というものもあります。


実は女性?

上杉謙信は女性という伝説が残っている。

この伝説についてはすでに別記事に詳しい解説がありますので、詳細はそちらに譲ります。


悲恋があった?

上杉謙信は若い頃に結ばれない相手に恋をした、という伝説がある。

郷土史家の花ケ前盛明氏によると、相手は近衛前久の妹・絶姫であったり、群馬県平井城城主・千葉采女の娘・伊勢姫であったり、重臣・直江景綱の娘であったりと、3つほど伝説があるそうです。

残念ながら、これらの姫は史料上で存在が確認されていません。


妻がいたかもしれない?

上杉謙信は、一般には「妻を娶らなかった」と言われている。
しかし山田邦明氏によると、高野山清浄心院『越後過去名簿』に、永禄2(1559)年4月に「越後府中御新造」という人の身内の供養がなされたとして、この「御新造」が当時貴人の妻を指す言葉であるから、当時府中を支配していた上杉謙信の妻である可能性が高い、とする。
ただし、この女性に関する史料はこれだけで、たとえ妻であったとしても間もなく離別したか亡くなったと考えられる。

謙信は「一瞬だけ妻がいたが離別・死別して、あとはずっと独身だった」というのが真相に近そうです。


いろいろな神仏を信仰する

元亀元(1570)年12月13日付の直筆祈願文によると、上杉謙信は阿弥陀如来・千手観音・摩利支天・日天・弁財天・愛宕勝軍地蔵・十一面観音・不動明王・愛染明王に経をあげている。(『大日本古文書』)

毘沙門天を信仰したことは有名ですが、それ以外にも多くの神仏に祈りをささげていたようです。柴辻俊六氏は、謙信は特に山岳修行や真言に関心があったと指摘しています。


祈祷の効果は信じていた

元亀3(1572)年8月24日付の発心坊宛の手紙で、謙信は、僧侶らが真面目に加持祈祷をしないから国が安定せず、戦も勝てないのだと叱咤している。(『上杉家文書』)

謙信は、僧侶の加持祈祷の力で加護がもたらされると割合本気で信じていたようです。


左足が不自由だったらしい

『上杉謙信伝』によると、謙信は左の足が不自由だったらしい。永禄8(1565)年頃に高熱にかかったときに関節を痛めたとも、子供の時に馬から落ちたとも、矢傷が悪化したからとも言われる。
江戸時代の『常山紀談』には、謙信が杖のかわりに青竹を持って軍を指揮したという伝説が収録されている。

NHK大河ドラマ「風林火山」では、片足が不自由なのは山本勘助の側でしたが、どうも謙信も左足に痛みを抱えていた可能性がありそうです。


右筆より字がうまい

上杉謙信はとても字が上手く、甥の上杉景勝のために直筆で手本を書くほどだった。(米沢市上杉博物館)

上杉謙信の自筆文書は戦国大名の中でも比較的多く残っており、現代でも美しい筆跡を見ることができます。

通常は、戦国大名直筆の書状は変な癖があって読みにくく、右筆(代筆をする家臣)の書いた書状のほうが数倍読みやすいのですが、謙信に限っては「右筆より大名のほうが上手」(山田邦明『上杉謙信』)です。


手紙の頻出フレーズ「馬鹿者」

山田邦明氏の分析によると、謙信は45歳頃から手紙に「馬鹿者」をよく使いだすという。

意味は現代とほぼ一緒で、敵を罵倒したり、「いかに謙信が馬鹿者であっても…」というように使ったりしています。「馬鹿者」は他の戦国大名の手紙にはあまり登場せず、謙信独特の珍しい現象と言えます。


出陣前の「お立ち飯」

謙信は、平時は質素な食事だが、合戦前になると豪華な食事を家臣にふるまったという。その時の食事が「お立ち飯・お発ち飯・かちどき飯」などの名称で現在も新潟県に伝わっている。(にいがた観光ナビほか)


青苧(あおそ)商人を優遇

上杉謙信は青苧を商う蔵田五郎左衛門を優遇し、府内の統治を任せた。(『上杉家文書』ほか)

青苧はカラムシの一種で、織物の原料として重宝されていました。

蔵田は商人ながら、後の町奉行のような役割を担っていたと考えられ、遠征で留守がちだった謙信を支えました。


謙信ゆかりの品に関する逸話・伝説

塩留めの太刀(東京国立博物館所蔵)

『甲陽軍鑑』などによると、北条氏康と織田信長が示し合わせて武田領への塩を止めたとき、謙信は「戦は戦場でするものだ」として塩を止めなかったという。その礼として、信玄はこの太刀を贈ったという。

「敵に塩を贈る」という伝説自体が創作なので、この伝承もまた創作でしょう。東京国立博物館のページや上杉方の資料によると、本太刀は武田信虎から長尾家に贈られた太刀だそうです。上杉家の御重代三十五腰の1つです。


琵琶 銘朝嵐(上杉神社所蔵)

上杉神社に、上杉謙信愛用の琵琶「朝嵐」が現存している。

謙信は戦国大名に珍しく、琵琶が弾けたと伝わっています。近衛前久はじめ京都との文化交流があったので、その過程で公家から学んだのかもしれません。陣中にも琵琶を持参して弾くことがあったそうです。


馬上杯(上杉神社所蔵)

上杉謙信愛用の杯。馬上でも酒が飲めるように取っ手がついている。

直径は12㎝ほどで、3合ほど入るそうです。


五虎退(米沢市上杉博物館所蔵)

粟田口吉光作の名刀。上杉謙信が永禄2(1559)年に上洛した際に、正親町天皇から下賜された。(『羽州米沢上杉家譜』)

名前の由来は、この刀で五匹の虎を追い払ったから、という逸話があるからだそうです。


謙信景光(埼玉県立歴史と民俗の博物館所蔵)

上杉謙信が常に帯びていた刀と言われている。この刀とセットで帯びていたのが、「姫鶴一文字」という太刀だと伝わる。(京都国立博物館特別展「京のかたな 匠のわざと雅のこころ」図録)


洛中洛外図屏風(米沢市上杉博物館所蔵)

天正2(1574)年に織田信長から上杉謙信に贈られた屏風。狩野永徳の手によるもので、京都の洛中・洛外の様子を詳細に描いた名品。屏風は米沢藩上杉家に伝来し、現在は国宝に指定されている。


おわりに

上杉謙信は在世中も各方面から頼りにされ、現代においても地元の新潟県のみならず全国的にファンが多い戦国大名です。彼に関する逸話も多く伝わっていますが、史実の研究はまだ進められている最中、といった状況です。


今後、史料の読解や新たな発見があれば、謎につつまれた上杉謙信の実像も一層明らかになるでしょう。今後の研究動向からも目がはなせません。



【主な参考文献】
  • 山田邦明『上杉謙信』(吉川弘文館、2020年)
  • 矢田俊文『上杉謙信』(ミネルヴァ書房、2005年)
  • 井上鋭夫『謙信と信玄』(吉川弘文館、2012年)
  • 柴辻俊六『信玄と謙信』(高志書院、2009年)
  • 花ケ前盛明『上杉謙信』(新潟日報事業社、2010年)
  • 花ケ前盛明『上杉謙信謎解き散歩』(KADOKAWA、2013年)
  • 布施秀治『上杉謙信伝』(謙信文庫ほか、1920年)
  • 上杉神社
  • 米沢市上杉博物館

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  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

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