「長尾政景」謙信と争いを繰り広げ、不審死を遂げた上田長尾氏のドン

戦国期の越後国といえば、上杉謙信が活躍する華々しいイメージとは裏腹に内乱が絶えなかった地でもあります。その中でも同じ長尾氏の系譜にある越後上杉氏と上田長尾氏の対立は深刻で、これは絶えず謙信を悩ませた頭痛のタネでもありました。

この記事では、謙信と対立した上田長尾氏の当主である長尾政景(ながお まさかげ)の生涯と、その死についてご紹介していきたいと思います。

政景生誕以前から不仲状態にあった長尾一門

さて、上杉政景という人物の生涯を知るには、そもそも越後で勢力を伸ばした長尾氏の歴史を紐解かなければなりません。

もともと、謙信の父である長尾為景の時代に守護を上回る勢力を手にした越後上杉氏には、同じく越後国南部の上田庄という地域を拠点にしていた「上田長尾氏」という分家が存在しました。


ルーツをたどると彼らはもともと同じ長尾氏の一門なのですが、その仲は良好と言い難い時代もあります。例えば、政景の父である長尾房長と為景は一時期対立を深刻化させました。この問題そのものは房長が為景への服従を誓ったことで双方矛を収める結果となりましたが、後年の出来事を考えればそれは表面的なものに過ぎなかったのでしょう。

こうした状況下で生まれてきたのが政景であり、彼らは虎視眈々と越後上杉氏弱体化のタイミングを見計らっていたように思えます。彼らが態度を一変させたのは為景の後継者である晴景が国内の動揺を治めきれず当主の座を謙信に譲った時期であり、政景にしてみれば「ここが起死回生のチャンスだ」と考えたことでしょう。

そして、天文18(1549)年に謙信が計画した、関東管領の上杉氏を救う遠征計画に政景は公然と反発を表明。上田長尾氏は謙信が求めた人質提供の命令を無視するなど、本家に敵対的な立場を明確にしていきました。

ここには、若くして家督を継承した謙信を軽視する政景の意向が反映されているといいます。実際、当時の上田長尾氏はかつて為景と対立していたころのような勢力を失っており、単純に正面切っての戦では敗北は免れがたい状況にありました。

最終的に謙信の関東出兵は関東管領側が内乱をまとめきれない越後上杉氏に失望して要請を取り下げたことで白紙となりましたが、この一件でふたたび両家の対立が表面化してしまいます。

権威を確立する謙信に危機感を抱き、攻撃を仕掛けるも…

先の一件でふたたび冷戦状態に突入した越後国内。しかし、謙信はその対立が行なわれているさなかにも着実に権威を確立していきました。

そもそも関東出兵に関しても出兵要請の取次役として政景がスルーされるほどには対外的な影響力が低下していたことに加え、この時期には謙信が室町幕府より「越後国における統治権」を認められています。

こうして対外的にも認められていく謙信の姿に、彼をあなどっていた政景は大いに危機感を煽られました。そしてしびれを切らした政景は謙信方に先制攻撃を仕掛け、天文19(1550)年には内戦が勃発してしまいます。

開戦当初は、政景方が優勢に戦を運んでいたとされています。しかし、謙信方がすぐさま反攻体制を整えて全面戦争に突入していくと、政景方の旗色は明らかに悪くなっていきました。

そもそも、上田庄の家臣らは越後上杉氏に対する敵意がそれほどでもなかったようで、先に触れた為景との抗争においても多数の離反者を出しています。つまり、まさしく親の仇のように越後上杉氏を敵視していた政景に対し、その家臣たちは冷ややかな目を向けていたことが指摘できるでしょう。

それを裏付けるのがこれまで重臣として仕えてきた宇佐美・平子氏らの離反で、特に政景は宇佐美定満という人物の裏切りに激怒。家臣を使わして定満を徹底的に攻撃しました。しかし、この攻撃に参加した家臣である発智氏も後に彼を裏切るなど、しだいに政景は孤立していきます。

宇佐美定満の肖像画
上杉謙信の軍師として名高い宇佐美定満。最期は政景とともに謎の死を遂げる。

激化していく抗争の中で政景方は連敗を重ね、戦の形勢が大方決定してきました。ここにおよんで謙信は政景に降伏勧告を出しますが、政景は応じるそぶりを見せつつ時間稼ぎをして体制を整えていたようです。

ここでついに謙信は我慢の限界を迎え、これまで上田長尾氏との関係性を重視して自身が戦に赴いてはいなかった謙信も討伐に向かうという最後通牒を受け取ったところで、ついに政景は謙信の元へと下りました。

一応、これで越後国内が統一されたのです。なお、敗北した政景も処刑されるということはなく、和議の証として謙信の姉である仙洞院を妻として迎えることになります。

長尾政景と仙桃院の肖像画
長尾政景と仙桃院の肖像画

この嫁入りに関してはもう少し早い時期であったという説も存在しますが、上杉家の公式見解を信じればこのタイミングということになるでしょう。

晩年は謙信に忠誠を誓うも、謎の死を遂げる

以後、政景は謙信の家臣として忠誠を誓うようになりました。そのため謙信の関東遠征にも口をはさむことがありませんでしたが、国内の家臣団は絶えず争いを繰り返しており、それを苦々しく思った謙信が出家と引退を示唆するようになりました。

これに際し、政景は「国内が危機的状況にもかかわらず逃げ出すとは、臆病者という誹りを免れない」と彼を非難。この甲斐あってか、謙信は出奔を諦めふたたび越後国の支配者として振舞うようになります。

この後はしばらく政景が表舞台に出てくることはありませんが、弘治元(1555)年に彼と仙洞院の間に生まれた少年がのちの上杉景勝であり、さらにその後は謙信が各地を転戦する中で春日山城の留守役を任されるなど、表面的には平穏な生活を送っていました。

上杉景勝の肖像画
のちに謙信の後継者となる上杉景勝。

ところが、政景は永禄7(1564)年に謎の死を遂げます。政景はかつての盟友である宇佐美定満と舟上で酒盛りをしていたところ、両者が口論になったのか家臣および舟ごと沈んでしまい、そろって溺死してしまうという事件が発生してしまうのです。

この死については様々な見解が存在し、単純に心臓麻痺を起こしたというものから謙信の密命を受けた定満が暗殺を謀ったなど、その真相は明らかになっていません。

個人的には過去の対立をぶり返してしまった両者が単純に喧嘩を起こして沈んでしまったと考えているのですが、皆さんの見解はいかがでしょうか。


【主な参考文献】
  • 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』、学研パブリッシング、2009年。
  • 鈴木由紀子『直江兼続とお船』幻冬舎、2009年。
  • 乃至政彦『上杉謙信の夢と野望:幻の「室町幕府再興」計画の全貌』洋泉社、2011年。

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  この記事を書いた人
とーじん さん
上智大学で歴史を学ぶ現役学生ライター。 ライティング活動の傍ら、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」 および古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広く関心をもつ。 卒業後は専業のフリーライターとして活動予定であり、 歴史以外にも映画やアニメなど ...

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