こんなに細かかった! 戦国時代の首取り、首実検の作法とは

小牧山合戦屏風絵 (出典:<a href="https://colbase.nich.go.jp/">ColBase</a>)
小牧山合戦屏風絵 (出典:ColBase

首取りの作法

 戦国・織豊時代において、恩賞を与える基準となったのが、討ち取った首の数だった。将兵は敵兵を討ち取ると、最後に刀で首を掻き切り、腰にぶら下げた。

 敵兵をたくさん討ったとき、重たい首を腰にぶら下げるのは大変なことだった。そこで、首ではなく上唇の部分(あるいは耳)を切り取り、腰に下げたのである。上唇には髭の剃り跡があったので、成人した男であるとわかったのだ。

 とはいえ、雑兵の首は上唇でもよかったが、大将や重臣クラスは例外である。敵の大将や重臣を討った際は、首に加えて兜を付けたままであることが必要だった。これは「兜首」といわれ尊重されたのだ。

 もし、大将級の首を取ったにもかかわらず、兜を捨ててしまった場合は悲劇だった。首の価値は下がってしまい、恩賞に反映されなかったのである。大坂の陣のケースでも、兜が重たくて捨ててしまい、恩賞をもらい損ねた将兵がいた。

 拾った首(拾い首)やほかの将兵からもらった首(もらい首)は評価されず、女性や子供の首も同じだった。後者はすぐにわかるとして、前者はどうやって不正な首であることを確認したのだろうか。

 大坂の陣の例でいえば、将兵は常に複数で行動し、一緒にいた将兵が敵の首を取ったときの証人になった。したがって、首実検を控え、同行した将兵らに聞き取りが行われることで、その首が不正であるか否かを確認したのである。

首実検とは

 合戦後、勝った戦国大名は首実検を行った。首実検とは、討ち取った敵兵の首を確認し、恩賞を与えるための基礎作業である。首実検は平安時代の終わり頃から始まり、室町時代なると儀式や作法にのっとって行われた。

 当時は敵兵の首を確認するのは、なかなか難しいものがあった。特に、大将首の場合は、確認作業が慎重に行われた、当時は写真もなかったので、実際に大将を見たことがある者に確認させるなどしたという。

 問題なのは、放火により落城した際の焼死体だった。現在ならば、歯形の一致が目安になるが、当時はそんな技術はない。織田信長は本能寺で亡くなったが、遺骸が確認できなかったのはそのためである。

 首実検は寺院で行われることが多く、大将はもちろんのこと、首の披露役、立会人らが実際に行った。事前の作業として、「首帳」が作成されることがあった。「首帳」とは、敵兵の首を取った武将名を列挙した台帳である。

 首実検に際して、首は水で汚れや血などを洗い、薄化粧を施したり、髪を梳いたりして整えられた。身分の高い武将には、歯に鉄漿を施す例もあった。首に死に化粧をすることで、死者あるいは首に敬意を払ったのだ。

 首を確認するときは、大将の目の前に首が置かれた。首を披露する役の武将は、誰の首なのかを読み上げ、順番に確認作業を行ったのである。敵の大将や重臣の首は、とりわけ丁寧に首の確認が行われた。

 首実検の際には、死者に敬意を払うべく、酒の入ったかわらけを首の前に置いた。一方で、雑兵クラスの首実検では、まとめて数個の首が並べられるなど、扱いがやや雑だったといわれている。なお、首実検では首の目の向きによって、吉凶が占われることもあった。

 首実検の終了後、首は人々が集まる場所で晒し首にされた。それは見せしめのためであるが、一方で首を丁重に葬ったり、敵方に送り返したりすることもあった。

首にまつわるいろいろな話

 天正元年(1573)、織田信長は浅井久政・長政父子と朝倉義景を滅ぼした。翌年正月、信長は家臣らと酒宴を催した際、3人の首を薄濃(はくだみ:頭蓋骨を漆塗りにし、金粉を施すこと)にし、酒の肴に供したという(『信長公記』)。

 信長が3人首を薄濃にしたのは、首に対して敬意を払い、首化粧を施したという意見がある。一方で、単に信長はが3人に激しい憤りを感じていたので、見せしめとして行ったという説もある。どちらが正しいのかは、類例がなく不明である。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、福島正則の部将・可児才蔵は独特な首の確認方法を行った。才蔵は討ち取った首を腰にぶら下げることを止め、笹の葉を首に挟んだのである。

 笹の葉により、首は才蔵が取った首という目印にしたのである。才蔵が「笹才蔵」と称された所以である。先述のとおり、重たい首を腰にぶら下げるのは、動きを鈍らせるので、こうした方法を採用したのである。

「関ヶ原合戦図屏風」にみえる、笹の葉を背中に所持している可児才蔵(出典:wikipedia)
「関ヶ原合戦図屏風」にみえる、笹の葉を背中に所持している可児才蔵(出典:wikipedia)

 慶長20年(1615)の大坂夏の陣において、豊臣方の木村重成は討ち取られることを覚悟し、頭髪に香を焚きしめて出陣した。徳川家康は重成の首実検に臨んだとき、「武士の嗜みである」と感嘆したと伝わっている。

 真田信繁も大坂夏の陣で討ち死にしたが、その首実検には手間取った。本人の首であるか否か、なかなかわからなかったのである。そこで、叔父の信尹に確認させようとしたが、何年も会っていなかったので、確証が得られなかったという。

 信繁のようなケースは決して珍しいことではなく、敵の著名な武将が戦死したか否かわからない場合は、戦後、執拗に牢人狩りを行ったのである。

 首取りや首実検は、恩賞の基準となったので、出陣した将兵にとっては重要なことだった。一方で、首に対する敬意が払われたことに注意すべきだろう。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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