「太田道灌」扇谷上杉家を支えた智将。悲劇の末路の原因は聡明すぎる頭脳と無意識の自己顕示?

室町時代後期から戦国時代を代表する智将といえば、まず名前を挙げたくなる人気武将・太田道灌(おおた どうかん)。ただ、智将という以上に有名なのが、暗殺された彼の最期でしょう。

「自分が死ねば主家も滅びる」と叫んだ彼は、自分こそが家を支える屋台骨だと自負しており、実際その通りになりました。しかし、彼の強烈な自負がこの暗殺劇を生む要因の一つではなかったのか…。彼の生涯をご紹介しながら、そこにも迫ってみたいと思います。

父も祖父も智謀の士

太田道灌は、永享4年(1432年)に扇谷上杉家の家宰・太田資清の子として誕生しました。

幼名は鶴千代と言いましたが、この記事では道灌で統一させていただきます。

扇谷上杉家は、上杉氏の中の家のひとつであり、関東管領を主に務めるようになった山内上杉家の補佐的な立場でした。父・資清は扇谷上杉家の家宰として力をふるい「関東不双の案者」と呼ばれましたが、同じくそう呼ばれたのが、山内上杉家の家宰・長尾景仲でした。

景仲の娘が資清に嫁ぎ、生まれたのが道灌。つまり、道灌は関東を代表する智謀の士の血を色濃く受け継ぎ、扇谷・山内上杉両家とつながりを持つ存在だったのです。

少年時代から才気煥発

道灌は、関東の最高学府・足利学校で学びました。史記や四書五経などに親しんだことで、教養のみならずそれを戦事に生かす素地を培ったと考えられます。足利学校は易学のメッカでもあり、戦で軍師的な役割を果たす軍配者としての知識も、道灌はここで手に入れたのでしょう。

祖父と父から受け継いだ血と、足利学校で養われた頭脳により、道灌は少年時代から才気煥発な子供だったようです。

『太田家記』によると、あまりに出来過ぎる息子に対し、父・資清は「知恵が過ぎれば大偽に走る(その逆もしかり)。障子はまっすぐだからこそ役立つのであって、曲がっていれば役に立たないのだ」と暗に苦言を呈したことがありました。すると道灌は、屏風を持ってきて、「屏風はまっすぐだと倒れてしまいます。曲がっているからこそちゃんと立ち、役立つのです」と言い返したそうです。

また、『寛政重修諸家譜』には、資清が「驕者不久(驕れる者は久しからず)」と書くと、道灌は「不驕者又不久(驕らざる者も又久しからず)」と書き加えてみせたとあります。

ああ言えばこう言う、子供らしくない部分はあったようですが、大器の片鱗を感じさせる逸話です。ただ、この頭の回転の良さと、自己顕示の強さめいたものが、彼の悲劇的な最期につながってしまうのでした。

享徳の乱のさなかに家督を継ぐ

当時の関東は、混迷をきわめていました。鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の対立が永享の乱へと発展し、持氏が敗北します。その後息子の成氏が跡を継ぐと、関東管領となった憲実の息子・憲忠を道灌の父・資清らが補佐するようになりました。主である扇谷上杉家当主・上杉持朝は憲忠に娘を嫁がせ、影響力を強めていたのです。

ところが、元々父を殺されたという思いが強い成氏と憲忠はやがて対立し、成氏が憲忠を殺害して享徳の乱が勃発してしまいました。

享徳3年(1455年)のことで、当時道灌は24歳。元服して名は資長と名乗っていました。まもなく、彼は父から家督を譲られ、30年に及ぶ享徳の乱への対処に半生を費やすこととなります。

江戸城築城

享徳の乱により、関東は利根川を境に分断されていました。山内・扇谷上杉家は相模・上野・武蔵西部、古河に移り古河公方を称するようになった足利成氏は、安房・上総・下総・武蔵東部を支配していたのです。

扇谷上杉家宰として、道灌は古河公方対策に当たりました。父・資清と共に河越城を築城し、やがて道灌は江戸城建設にも取り掛かります。

道灌といえば江戸城建設、というほど、彼の名を高めた大事業だった江戸城築城。彼は周辺に日枝神社など今も残る代表的な神社を勧請し、城下町の整備も進めました。この偉業により、現在も「道灌山通り」などの地名が残り、西日暮里をはじめとした一帯に銅像が設置されています。

八面六臂の大活躍

関東管領は上杉憲実の二男・房顕へと代わりしましたが、相変わらず古河公方との戦乱は続き、膠着状態にありました。そして房顕が五十子で陣没すると、顕定が後任となります。

一方、道灌の主家・扇谷上杉家は、上杉持朝が応仁元年(1467年)に亡くなり、その孫である政真が16歳で跡を継ぎました。

道灌は政真を補佐して古河公方との戦いを続け、一度は古河城を占拠しました。しかし成氏の巻き返しに遭い、政真を五十子で戦死させてしまったのです。このため、扇谷上杉家の当主には政真の叔父である定正が就くこととなりました。

この頃、道灌は出家し、正式に「道灌」と号するようになっています。

やがて山内上杉家では内紛が勃発しました。道灌の従兄弟である長尾景春が、家宰になれなかったことを不満に思い、挙兵したのです。このため、扇谷上杉家も乱に巻き込まれることとなりました。

景春が上杉顕定と定正が率いる山内・扇谷連合軍を破ったことで、道灌は動き出します。景春方の溝呂木城や小磯城、石神井城を次々と落とし、反撃に転じたのです。

和歌と道灌

武蔵の小机城を包囲したときのこと。堅牢で知られる小机城を前に尻込みする兵たちを見て、道灌は和歌を詠みました。

「小机は 先ず手習いの はじめにて いろはにほへと ちりぢりになる」

この歌で兵の士気を高め、小机城を落としたといいます。何かと和歌との逸話も多い道灌ですが、かつては和歌などを嗜むことはなかったようです。

ある時、雨に降られた道灌が蓑を借りるために農家に立ち寄ると、そこの娘が一輪の山吹を差し出します。道灌は何のことやらわからず腹を立て、帰ってから家臣にそのことを伝えると、家臣に「それは後拾遺和歌集の『七重八重 花は咲けども 山吹の 実の(みの)ひとつだに なきぞ悲しき』にかけたのでは?」と言われました。

娘の意図は、「こんなみすぼらしい家では みの(蓑)のひとつも持ち合わせておりません」というものだったのです。

道灌はこれを聞いてひどく恥じ入り、歌道にも精進するようになりました。学べばすべてをものにすることができる聡明な彼ですから、以後彼は機転を利かせて和歌を詠むという逸話が増えていきます。ただ、あまりにも巧みに才能を発揮する彼の様子は、意図的ではなかったとしても、強い自己顕示にもつながるような気がしてなりません。

道灌の主張「すべて自分のおかげ」

道灌は長尾景春の乱を鎮圧する一方で古河公方との戦いも続け、結局30余りの戦を無敗で終えることとなりました。そして文明14年(1482年)に都鄙合体が成立し、古河公方・足利成氏と和議が結ばれて享徳の乱が終結したのです。

享徳の乱と長尾景春の乱という、関東一帯を大混乱に陥れた大乱を収束させたのは、ひとえに道灌の手腕のおかげでした。道灌は自分の功績に満足していたらしく、「太田道灌状」の中で「山内上杉家が武蔵と上野を支配できるのは私のおかげだ」と言及しているほどです。

確かにその通りなのですが、やはり自己肯定と顕示欲の高さも感じられるのではないでしょうか。たしかに彼はできる男。誰もが認める点ですが、それが彼の運命を狂わせていくことになります。

出来過ぎた男・道灌、主からの刺客に「当方滅亡」

享徳の乱を終結させたことで、道灌の評判は一気に高まりました。ただその一方で、主君・上杉定正は、道灌が自分を軽んじていると感じていたようで、彼の意見を容れなくなるなど、両者の間には亀裂が生じていったのです。

それだけではなく、道灌をやっかむ一派もいたようで、道灌が城を補修し謀反を企てているという讒言が定正に吹き込まれたのです。

それでも道灌は弁明せずに定正に仕えていましたが、「太田道灌状」で「自分が正当に評価されていない」と不満を述べています。

また、自分の身に何かが起きると予測していたのか、息子・資康を和議したばかりの足利成氏に人質として預けました。ただ、先の先を読んだこの行動は、定正にとっては「やはり自分に反抗するのか!」との思いを抱かせたかもしれません。

文明18年(1486年)、道灌は定正の居館・糟屋館に招かれます。そして、湯殿から出てきたところを刺客に襲われ、命を落としました。55歳でした。

死の直前、「当方滅亡」と言い残した道灌。「自分が死ねば扇谷上杉家は終わりだ」という意味ですが、最後の瞬間にまで強烈な自負と先見性があったことがわかります。事実、扇谷上杉家からは出奔が相次ぎ、やがて山内上杉家との内紛が発生し、弱体化の一途を辿り、やがて滅亡を迎えるのです。

最期の時を迎えた道灌に対し、刺客が上の句を詠みかけたという話があります。

「かかる時 さこそ命の 惜しからめ(こんな時、さぞかし命が惜しいだろう)」

こう詠んだ刺客に対し、道灌は、
「かねてなき身と 思い知らずば(元々存在などしない身と悟っていなかったら、な)」

と返したそうです。目の前に迫った死に対し、すでに覚悟を決め、自分を憐れむ敵に対して切り返す機転を持ち合わせていた彼の器の大きさが伝わる逸話です。

おわりに

道灌ができる男だったことは、誰もが理解していたはず。しかし彼の主に、彼を使いこなせる手腕がなかったことは彼の悲劇でした。ただ、戦国の主がすべて器の大きい人物ではありません。その辺りの相互理解の微妙なすれ違いや、意図せずともあふれ出る才能が道灌の破滅を招いてしまったのではないでしょうか。


【参考HP】

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  この記事を書いた人
xiao さん

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