「足利成氏」鎌倉公方のプライドを貫き通した男。

室町幕府の関東統治のための機関として、鎌倉に置かれたのが鎌倉府。そこのトップとなったのが鎌倉公方です。会社やお店で例えると、幕府が本店、鎌倉府が支店、といったところでしょうか。

幕府と関係を良好に保ってこその鎌倉公方でしたが、何かと幕府と反目することが多い状態でした。足利将軍家の血を引く者として彼らにもプライドがあったのです。

それを強烈に示したのが5代目の鎌倉公方「足利成氏(あしかが しげうじ)」です。本記事では関東一帯を巻き込んだ「享徳の乱」の当事者となった彼の人生にフォーカスしてみたいと思います。

父も兄も失った激動の少年時代

成氏が誕生したのは、永享6(1434)年とも永享10(1438)年とも言われています。父は第4代鎌倉公方・足利持氏。足利将軍家の血を引く者として、将軍になる野望を抱き続けた人物でした。

そもそも鎌倉公方とは、足利尊氏の四男・足利基氏から始まったため、きわめて将軍に近しい血筋でした。そして持氏は、第5代将軍足利義量が病没した後、次の将軍の座を密かに狙っていたというわけです。

ところが、蓋を開けてみれば、くじ引きで選ばれた上に元々は僧侶だった足利義教が将軍になったのですから、持氏とすれば面白いわけがありません。ここからさらに鎌倉公方と幕府との対立が深まり、ついには永享の乱が勃発してしまったのです。


敗れた持氏は自刃し、ここで鎌倉公方はいったん途絶えてしまうことになります。しかし数年後、成氏の兄に当たる持氏の遺児たちが結城氏によって担ぎ出され、結城合戦が起こりました。ただここで結城方が敗れたため、成氏の兄たちもまた殺されてしまったのです。

この時、成氏はまだ少年でしたが、父や兄たちの末路を知り、小さな胸に幕府への怨みを芽生えさせていたことは否定できないでしょう。

一説には、処刑される寸前だったものの、嘉吉元年(1441年)嘉吉の変によって将軍・足利義教が殺されたために死を免れた、生き延びて信濃にかくまわれていたなどと伝わり、はっきりした足取りはわかっていません。

火種くすぶる鎌倉府の再興

幕府は足利持氏を滅ぼしたものの、関東統治に手を焼いていました。不本意ながら持氏を自害に追い込んだ関東管領・上杉憲実が隠居してしまい、その後、関東管領だけではどうにもならない状態になってしまったのです。

このため、鎌倉公方復活を望む声が高まり、嘉吉の乱以降、中央の安定を最優先させたい幕府は、ついに鎌倉公方の再興にゴーサインを出すことに。そして生き残った成氏が次の鎌倉公方に選ばれたのです。

同時に関東管領には上杉憲実の息子・憲忠が就任。共にまだ10代という、若い統治者でした。

ただ、成氏の心の内には、「上杉氏=父の仇」という思いがくすぶっていたことでしょう。それに加えて、持氏時代から鎌倉公方に心を寄せる勢力と、山内・扇谷上杉氏寄りの勢力が密かに火花を散らしており、新たな鎌倉府の内情はいわば呉越同舟的な状態だったのです。

とはいえ、まだ若い成氏にとって、幕府と上杉氏に牙をむくには時期尚早でした。

不満爆発、そして享徳の 乱へ突入

山内・扇谷上杉氏としては、成氏はもとより、そのバックについている小山氏や宇都宮氏、結城氏、千葉氏など関東の豪族たちも危険視していました。そして宝徳2(1450)年、山内上杉家宰・長尾景仲と扇谷上杉家宰・太田資清は、成氏を急襲したのです。これが江の島合戦です。

成氏は危うく難を逃れ、その後何とか長尾・太田の軍勢を退けました。ただ、幕府が彼らの処分をあいまいにしたことは、成氏の不満を蓄積させていきます。加えて、幕府の管領が細川勝元に代わると、勝元は成氏に対し、関東管領の取次がなければ書状は受け付けないとの強硬な姿勢を示してきたのです。

これはいたく成氏のプライドを傷つけました。なぜ将軍家の血を引く自分が、管領にそんな扱いを受けねばならないのか…。その不満は関東管領である上杉憲忠にも向けられ、ついに事件が起きたのです。

積年の恨みと、鎌倉府内部でついに火が点いた成氏派と両上杉派との対立により、成氏は本来ならば自分の片腕となるはずの関東管領・上杉憲忠を殺害してしまいました。

ここから、関東一円を巻き込み、約30年にも及ぶ大乱「享徳の乱」が幕を開けることになったのです。

朝敵となった成氏、古河公方を誕生させる

成氏はまず、享徳4(1455)年の分倍河原の戦いで上杉氏と激突しました。この時は扇谷上杉家当主・上杉顕房を敗死させ、上杉氏の拠点である上野国へと攻め込まんばかりの勢いとなり、そのまま古河(現在の茨城県古河市)へと入ります。

一方、上杉憲忠を成氏に殺害された山内上杉家では、憲忠の弟・房顕を新たな関東管領に迎えることになりました。この時、後花園天皇から成氏追討命令が下されたため、成氏は図らずも朝敵となってしまったのです。

この間にも、成氏は常陸小栗城にこもった先の戦いの残党と戦い、次には下野で援軍としてやってきた越後上杉氏とも矛を交えました。しかし、天皇からの命令を受け、成氏の包囲網が徐々に形成されたことから、鎌倉の本拠地を奪われてしまいます。

このため、成氏はそのまま古河に居続けることとなり、古河公方が誕生することになりました。

古河公方館(鴻巣御所)の碑
古河総合公園内にある、成氏が築いたという古河公方館(鴻巣御所)の碑。

強烈な自己顕示と、飽くなき幕府への反抗

成氏が古河を本拠地にしたのは、単に鎌倉に戻れなくなったためだけではなく、古河が川に囲まれた要衝であり、御料地内であるため経済的にも安定していたからです。東関東を中心とした成氏派と、上杉方を中心とした西関東との境目に古河があったこともあり、自ら出陣することの多い成氏にとっては、ちょうどいい場所だったのです。

とはいえ、成氏は「これはあくまで上杉氏との戦いであり、幕府に反意はない」と主張していました。しかし、断固として改元に従わず、古河公方周辺では「享徳」の元号を使い続けたことからも、彼が幕府に対して強烈な対抗意識と自己顕示欲を持っていたことがわかります。亡き父・持氏同様、足利将軍家の血を引き、世が世ならば将軍の座にも就く権利があるという、ある意味承認欲求的なものがあったのではないかと思います。

このような成氏の強硬姿勢に対し、幕府は長禄2(1458)年、将軍・足利義政の異母兄である政知を新たな鎌倉公方に任命し、下向させてきました。しかし政知は戦地である鎌倉に入ることができずに堀越に留まったため、彼は堀越公方と呼ばれるようになります。

両上杉氏との激突

成氏が古河城周辺に家臣を配置したのに対し、上杉方は江戸城や岩付城、五十子陣を整備して対抗策を講じました。こうして両者は武蔵国北部や上野国東部などを主戦場とし、幾度となく刃を交えることになります。

攻勢を強めた成氏は、結城氏や小山氏と共に、今度は堀越公方・足利政知を直接叩こうとします。しかしこれは扇谷上杉家の上杉政真に阻止され、文明3年(1471年)に逆に古河城を奪われてしまいました。しかし、千葉氏に保護された成氏はすぐさま態勢を建て直し、翌年には逆襲に転じて政真を敗死させ、古河城を奪還しています。

江戸時代後期の古河城の全体図
江戸時代後期の古河城の全体図(出所:wikipedia

ただ、一度ではあるにせよ古河城を奪われたことは、成氏にとっては痛恨の一事でした。この時に、幕府方に鞍替えする者たちが続出してしまいます。

その一方、上杉氏にも内紛が生じていました。文明8(1476)年、山内上杉家宰になれなかったことを不満に思った長尾景春が挙兵し、五十子陣を落としてしまうという事態となったのです。これは「長尾景春の乱」といい、成氏と戦う両上杉氏は足元をすくわれる形となりました。

双方の疲弊から都鄙合体へ

こうなると、上杉氏としても、成氏を相手にしている場合ではなくなります。また、長尾景春の乱を収めたのが扇谷上杉家宰・太田道灌ということもあり、関東管領をつとめ、宗家でもあった山内上杉家には危機感が生まれます。

太田道灌の肖像画
太田道灌の肖像画

ところで、享徳の乱が関東を大混乱に陥れている間に、幕府でも一大事が起きていました。応仁元(1467)年から文明9(1477)年にかけて勃発した応仁の乱により、幕府は関東に目を配る余裕もなかったのです。

このような状況は、成氏・上杉氏・幕府すべてに「和睦」という思いを抱かせました。そして文明10(1478)年、成氏と上杉氏との間で和睦が結ばれ、その4年後には上杉氏の仲介によって成氏と幕府の和睦が成立することとなりました。

これを「都鄙合体」といい、約30年続いた享徳の乱も、ようやく終結を迎えたのです。

鎌倉公方としての面目を維持した成氏

都鄙合体の結果、堀越公方・足利政知は伊豆を領地とし、成氏は関東を任され、鎌倉公方と同様の地位が保証されるようになりましたが、堀越公方と古河公方が並存する奇妙な構図が成立します。

成氏は、これまでの頑なな態度を軟化させ、「享徳」の元号使用をやめ、中央と同じものに戻しました。加えて、嫡男の政氏に将軍・義政の「政」の字をもらい受けたのです。かつて成氏の父・持氏はこれを拒否して幕府と険悪になりましたが、和睦の成った今、成氏はそうしたことも受け入れたのでしょう。

それでも、成氏の心の中には鎌倉への思いは消えませんでした。その後の上杉氏は内紛が収まらず、堀越公方がいるという手前もあり、成氏は終生鎌倉へ戻ることはなかったのです。

明応6(1497)年に彼は64歳の生涯を古河で終えましたが、臨終に際し、彼は嫡男・政氏に対し、「鎌倉に戻り、関八州を取り戻してくれ」と言い残したと伝わっています。

成氏の強烈なプライドにより、関東は享徳の乱という大乱に巻き込まれました。後の時代にも足利将軍家の血脈は敬意を抱かれるのですが、改めてその血と誇りのすごさを感じさせられた、成氏の人生でした。


【主な参考文献】
  • 則竹雄一『動乱の東国史6 古河公方と伊勢宗瑞』(吉川弘文館、2012年)

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  この記事を書いた人
xiao さん

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