「足利政知」幕府の傀儡でしかなかった堀越公方の野望とは
- 2019/07/09
彼は自らイニシアチブを取り鎌倉に入ろうとするも、関東の戦乱と幕府の思惑によって、結局は鎌倉に入ることができず、堀越公方という存在になりました。一方、以前からの鎌倉公方の足利成氏や、上杉氏といった関東の諸将たちとの関係にも苦労します。
そんな政知の生涯とはどんなものだったのか、晩年に彼が抱いた野望などと共にご紹介していきたいと思います。
僧から堀越公方に転身
足利政知は、永享7(1435)年に誕生しました。父はあの室町幕府第6代将軍・足利義教です。義教といえば些細なことで厳しい処断を行う等したことから「万人恐怖」の異名でよく知られていますよね。
それはさておき、政知は義教の庶子だったこともあり、幼い頃から仏門に入れられます。そして天龍寺香厳院主になります。
鎌倉には入れず、堀越公方になる
しかし、青年期を迎えると彼の運命は一変。長禄元(1457)年、異母弟であり第8代将軍となった足利義政の命令によって還俗し、翌年には正式な鎌倉公方として関東へ下向することに。彼の補佐として関東探題に任命された渋川義鏡と、関東執事となった上杉教朝が従いました。
ところが、伊豆で思わぬ足止めを食らいます。
当時、関東は鎌倉公方・足利成氏による享徳の乱という大乱の真っ最中でした。成氏は反幕府の姿勢を貫いて、本来自分を補佐するはずの関東管領上杉氏とも敵対。この争いの中で成氏は鎌倉を脱出し、古河に移って「古河公方」という存在になっていました。
幕府が政知を正式な鎌倉公方に任命した理由はこうした事情があったワケです。ただ、この戦乱の影響により、危険すぎて鎌倉に入れる状況ではなかったようです。
結局鎌倉に入れなかった政知は、伊豆・堀越に腰を落ち着けることに…。こうして彼は鎌倉公方ではなく「堀越公方」と称されたのです。
鎌倉入りを目指す
もちろん、政知の就任を後押しした将軍義政も手を打とうと、奥州や甲斐・信濃・東海などから大軍を投入して成氏を討伐しようとしていました。ところが、中心となるはずの斯波義敏が内紛によって参加せず、幕府方は成氏に敗北してしまいます。
これでは政知が鎌倉に入れるメドなど立ちません。しかも裏にいるのは幕府なのですから、政知が鎌倉に来たところで、関東の諸将は成氏派か上杉派に分かれているので政知自身に忠誠を誓うような輩はほとんどいなかったのです。これでは政知が自前の兵力すら持つことができないのも当然でした。
こんな中、政知の陣所が成氏方によって焼き討ちされるという事態が発生します。これで兵力を早急に増強する必要性を痛感した政知は、一刻も早く鎌倉に入り、求心力を得たいと思うようになりました。彼はすぐ行動に移り、幕府に使者を送って援軍派遣の約束を取り付け、これでいざ鎌倉入り!というところまでこぎつけます。
味方であるはずの幕府に鎌倉入りを制止される
ところが、直前になって将軍義政に制止されます。義政いわく、「今、鎌倉に入るのは軽率すぎる」ということでした。
義政は堀越公方の政知が鎌倉に入り、それを補佐する上杉氏との結び付きを強めてしまうと、彼が自立して幕府の言うことを聞かなくなるのではと危惧していたようです。それでは古河公方となった成氏と同じ事態となるため、一転して政知の鎌倉入りを妨害します。
その代わりに義政は、関東探題・渋川義鏡の息子・義廉を斯波氏の家督に据え、斯波勢を堀越に設置することで暗に「我慢しろ」と示したのです。
家臣たちの内紛も収められず
しかし、これが堀越公方の家臣たちの内紛を生んでしまうことになりました。渋川義鏡の力が増す一方で、上杉氏の立場が微妙になったのです。政知の関東下向に従ってきた執事・上杉教朝が不可解な自殺を遂げるなど、家臣団に分裂の兆しが見え始めていました。
そして寛正3(1462)年、扇谷上杉当主・上杉持朝が足利成氏に寝返ったとの噂が立ち、それを信じた政知は、持朝の相模守護としての権限を停止した上に義政に報告したのです。これにより持朝の重臣たちである三浦時高や千葉実胤などの有力武将が隠居する事態となってしまい、堀越公方の内情はめちゃくちゃになってしまうのです。
将軍義政自ら調停に乗り出してきたこともあり、政知にこの事態を収拾する権限はありませんでした。結果的に渋川義鏡が追放となり、斯波勢を兵力とすることもできなくなったため、政知の鎌倉入りはさらに難しくなったのです。政知の意思や手腕以上に、幕府の思惑ばかりが先行する状態でした。
晩年は新たな野望にチャレンジ
成氏との抗争を続けた政知ですが、文明8年(1476年)に上杉家臣・長尾景春の乱が起こったことで、そちらに対処せねばならなくなった上杉氏が成氏との和睦に踏み切ります。
その後、幕府も文明14(1483)年に成氏との和睦を成立させ(都鄙合体)、享徳の乱は終結。結局、政知は鎌倉に入ることはなく、その権限が及んだのも伊豆のみで彼の不満だけが残る形となったようです。
鎌倉入りの望みを断たれた政知ですが、その後は実子の義澄(当時は仏門にあって「清晃」といった)を将軍職に就けるという次なる野望を抱きます。
というのも、中央では応仁の乱以降も幕府がゴタゴタ続きだったため、この機に乗じて義澄を義政に会わせるなど裏工作に奔走したのです。
一方、政知自身の後継者問題でも頭を悩ませます。嫡男・茶々丸が素行不良だったために廃嫡し、その弟の潤童子を後継に定めますが、関東執事・上杉政憲がこれに異を唱えます。
彼は自害した上杉教朝の息子ですが、政知は激怒して彼を自害に追い込んでしまいます。意見の相違とはいえ、自身の右腕でもある彼に死を命じたのは、いささかやりすぎた感があります。
ただ、政知なりに考えはあったようで、当時の将軍・足利義材を廃し、義澄を次の将軍に就けた暁には、潤童子と共に足利成氏を討伐させる計画が管領・細川政元との間で進められていたようです。
しかし、彼の野望は突然終わりを告げます。延徳3(1491)年、病に倒れた政知は、そのまま帰らぬ人となりました。57歳でした。
まとめ
政知の死後、子の義澄は第11代将軍となって念願がかなっています。しかし、堀越公方の座は廃嫡された茶々丸が潤童子を殺して奪い取るという泥沼状態でした。茶々丸のその後は、義澄から派遣された伊勢宗瑞に敗北し、堀越公方はわずか2代で終わることとなります。
堀越公方・足利政知は、幕府に操られる存在に過ぎませんでした。幕府は意のままになる鎌倉公方が欲しかっただけで、政知の意思は必要なく、もちろん彼の意思が反映されることはほぼなかったのです。鎌倉公方として鎌倉に入ろうとしたことを幕府に止められたというのは、何とも皮肉な話ですね。
【主な参考文献】
- 則竹雄一『古河公方と伊勢宗瑞 動乱の東国史6』(吉川弘文館、2012年)
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