「安東愛季」斗星の北天に在るにもさも似たり! 出羽国北部に領土を広げた武将

かつて出羽国北部から蝦夷地まで、広大な領地を保有していた大名がいました。
鎌倉時代から続く安東家です。この頃は、檜山家と湊家の二つに分かれて争いを繰り広げていました。

そうした中、戦国時代に当主となった安東愛季(あんどう ちかすえ)は、二つの安東家を統一。交易体制を整備して、十三湊を北日本で最大級の港湾都市に成長させます。

彼はいかにして分裂した家を統一し、安東家を東北有数の大名に育て上げたのでしょうか。安東愛季の生涯について見ていきましょう。


鎌倉以来の名門・安東一族

日の本大将軍と呼ばれた安東氏に生まれる

天文8(1539)年、愛季は檜山(下国)家安東氏の安東舜季(きよすえ)の嫡男として生まれました。母は湊(上国)家安東氏出身の嶺松院と伝わります。


安東氏は、蝦夷の「安倍貞任」の後裔を自称しています。鎌倉時代には、安藤孫五郎が幕府から命じられて蝦夷対応に当たったと伝わります。


鎌倉幕府でも御内人として、蝦夷沙汰代官職を務め、出羽北部の秋田郡から津軽地方、下北半島、そして蝦夷地までの広大な土地を領していました。


経済的な面でも、安東氏は恵まれていたようで、津軽十三湊(十三湖と日本海に挟まれた砂州に発達した港湾都市)を拠点にアイヌや中国と交易を展開。日の本将軍とも呼ばれるほどにその勢威を誇りました。


しかしその安東氏も、鎌倉から室町頃には二つに分裂。惣領家である檜山家が出羽国檜山に、湊家が秋田湊を拠点に構えました。


一度は檜山家が三戸の南部家に戰に敗れ、蝦夷地に逃げることもあったと伝わります。かつては勢威を誇った安東氏も、分裂して次第に弱体化していったようです。


安東氏を統一し躍進を遂げる

戦国時代になっても分裂状態は変わらなかったのですが、両家の血を引く人間として、愛季がこの問題に正面から立ち向かいます。

愛季は安東氏を統一するため、婚姻関係と養子縁組を駆使。弟・茂季を湊家安東氏に養子入りさせます。結果、湊家安東氏を吸収する形で、安東氏の統一を成し遂げました。


一族の統一後、愛季は本格的な領土拡張に動きます。永禄5(1562)年、比内郡の国衆・浅利則祐を攻めました。このとき、愛季は則祐の弟・勝頼に謀反を起こさせています。結果、則祐を自害に追い込むことに成功。戦後、勝頼を支配下においています。


永禄7(1564)年には南部領の鹿角郡に侵攻を開始しました。南部家は、かつて安東氏を蝦夷地に追った宿敵です。当主・南部晴政は三戸を中心に勢力を築いており、全盛期を築いた武将として知られていました。


安東家と南部家は、永禄12(1569)年まで衝突を繰り返します。
双方とも勝利と敗北を繰り返し、一進一退の情勢でした。しかし結果的に、南部晴政と嫡男の信直によって阻まれる形で戦は終わります。


北日本最大の港湾都市を育てる

愛季は領地経営に関しても熱心に取り組みます。
周辺の大名や国衆への統制強化を兼ね、港湾関係に力を入れるものでした。


愛季は、湊家安東氏に津料(通行税)を支払うことで領土経営を認めています。
雄物川上流域の大名や国衆による河川交易の統制を強化しました。


その一方で、旧来から安東家が続けてきた蝦夷地との交易を行っています。
土崎港を改修整備し、北日本最大規模の港湾都市に成長させています。


さらには米や材木(杉)、鉱産物の商品化するなどの政策も行っています
当時のキリスト教宣教師であるルイス・フロイスは、永禄8(1565)年の書簡において、愛季のことを記しています。


「日本の極北にて、都より約三百リーグを隔つる所に一大国あり、野獣の皮を着、全身多毛、髪髭頗る長き蛮人之に住す」


檜山家安東氏は、代々蝦夷地との交易を管理して来ました。
愛季による安東氏統一後も、変わらずに北方との交易は続けられていたようです。
しかし交易制限は、反発も招いています。


元亀元(1570)年、湊家を継いだ弟・茂季が配下の豊島領内との交易を制限。それにより、豊島玄蕃が挙兵に及びます。いわゆる湊騒動の勃発です。


これに仙北の大宝寺家、戸沢家が加わり、由利郡侵攻を招きました。
この戦いは二年にも及びますが、安東家の勝利で終結。
結果、由利郡の大半を支配下に置くことに成功しました。愛季はここで止まらず、酒田まで侵攻を進めています。


奥州有数の大名へと駆け上がる

東北で初めて従五位下に叙される

愛季は中央政界との外交にも余念がありませんでした。

天正元(1573)年からは、織田信長に貢物を送っています。


また、同5(1577)年には従五位下、同8(1580)年には、従五位上に叙任の上、侍従に任官されました。これは東北の武将としては初めてのことです。


従五位以上は、殿上人と呼ばれます。
殿上人とは、朝廷に昇殿出来る地位であり、朝廷からも認められたことを意味していました。


官職の上では、並みいる東北の諸大名の中で随一の高みにあったことになります。
愛季は名実ともに、安東家の最盛期を築き上げていました。


出羽国北部最大の大名となる

愛季はさらに領地を広げるべく動きを活発化させます。天正10(1582)年、愛季は浅利勝頼を縁戚に招いて謀殺します。
その直後、家臣を浅利家の旧領・大館城に入らせます。これにより、愛季は浅利家の比内郡を含む出羽国北部の大部分を抑えることが出来ました。


同年には、京の都で本能寺の変が勃発。信長が京で明智光秀に討たれてしまいます。
しかし愛季はその後を見据えていたようで、羽柴秀吉とも連絡を密に取り合っていました。これが結果として、安東家の未来に関わってくるようになります。


「北天に在るにもさも似たり」と称される

愛季はさらに内陸部に兵を進めていきました。やがて雄物川流域の支配権を巡って北浦郡の戸沢家との戦いに向かいます。

天正15(1587)年、仙北郡に出陣して角館城主・戸沢盛安と戦いました。
しかし愛季は、淀川の陣中で病により世を去りました。享年四十九。
戒名は龍隠院殿萬郷生鐡大禅定門。墓所は三春の龍隠院にあります。


まとめ

愛季は文武に秀でた武将で、安東家を奥州でも有数の大名に育て上げました。
安東家は当時、秋田郡・檜山郡・由利郡を勢力圏に収めて出羽北部最大の大名となっています。
愛季は「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と評されています。


愛季の後を継いだ嫡男・実季は、苗字を安東から秋田に改めます。
これは湊家安藤氏が、代々「秋田城介」を自称してきたことから来るものです。



【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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