「堀田作兵衛(興重)」大河真田丸では藤本隆宏さん演じる…幸村長女 "すへ" の養父

 大河ドラマ「真田丸」では、競泳でオリンピックに出場した経歴を持つ異色な俳優・藤本隆宏さんが演じた堀田作兵衛(ほった さくべえ)。妹が幸村の側室になるも、自身はおごることなく幸村を支える姿には恰好いいものがありました。

 今回は幸村の側室の兄でありながら、二人の間にできた娘を養女にもらい受け、育て上げた堀田作兵衛をご紹介します。

作兵衛謎の前半生

 実のところ、真田家臣の作兵衛がいつ生まれ、どのような前半生を送ったのかは、よく分かっていません。

 大河ドラマ『真田丸』では、作兵衛の妹が幸村の側室となって娘を生んだことから、妹や幸村より一回り年上のような設定に見えました。作兵衛の妹役・黒木華(はる)さん演じた「梅」は、まだ記憶に残っていると思いますが、歴史上では幸村との間に長女・すへ(阿菊、お菊とも)、次女・於市を産んだと伝わっています。

 天正13年(1585)の第一次上田合戦で「梅」が亡くなり、幸村も人質として上杉家に行かなければならなくなったため、作兵衛が姪(=すへと思われる)を引き取って自分の養女として育てる、という流れになっていましたね。

 作兵衛が姪を育てることになった経緯も謎であるため、幸村と作兵衛の妹には子供を育てられなくなった事情があるのだろうと考えたのでしょうか…。ちなみに次女・於市は大河真田丸に登場していません。

主君の娘を無事に嫁がせる作兵衛

 さて、歴史上の作兵衛の前半生はまったく不明ですが、慶長5年(1600)に起こった関ケ原の戦いの前哨戦のひとつである「第二次上田合戦」のころより、ようやく歴史上にあらわれます。

 この戦いで昌幸・幸村父子は、西軍に加担したとして紀伊国の九度山へ幽閉されることになりますが、作兵衛は昌幸らに従わずに上田に残ったとされています。おそらく第二次上田合戦に昌幸・幸村父子に従って参加していたのでしょう。

 その後、「すへ」が結婚適齢期を迎えると、作兵衛は彼女を自身の養女とし、嫁に出したといいます。すへの嫁ぎ先は信濃国は長窪宿の本陣(大名が泊まる旅館)の倅である石合十蔵と伝わっています。

 石合家は本陣を営む商人だったため、幸村の娘を嫁に迎えるなど本来はありえないことでした。しかし幸村は罪人として九度山に流刑になっており、作兵衛の身分も地侍という半士半農の身分でしたから、その養女である「すへ」は石合家に嫁ぐことになったのでしょう。

 大河『真田丸』でも「すへ」と夫・石合十蔵の仲の良さがすごく伝わってきましたね。主君の娘を嫁に出すという一大行事をやり遂げた作兵衛は、やがて最後の仕事をするために大阪に向かうことになります。

大坂の陣にて

 慶長19年(1614)、幽閉されていた幸村は、豊臣秀頼の誘いに乗って九度山を抜け出し、大坂城に入城。これを知った作兵衛は、上田から同志を率いて幸村の下へと馳せ参じます。

 大坂冬の陣が終わった後、すへの夫・石合十蔵は作兵衛に向けて書状を送ったといいます。それは幸村の安否を気遣う手紙でした。本当の父を心配するすへの心を十蔵が代筆したのでしょうか。返書は幸村自らしたため、決死の覚悟と娘を頼む旨を十蔵に託しています。

 そして翌慶長20年(1615)、作兵衛は幸村とともに徳川の大軍を迎え撃った大坂夏の陣で討ち死にしたのです。作兵衛の最期の様子は知る由もないのですが、やはり大河『真田丸』のように幸村を庇ったのでしょうか…。そこは想像するしかありません。

作兵衛亡き後

 天下人・家康に刃向かい、討死した幸村と作兵衛。一方で今や徳川の家臣となっていた幸村の兄・真田信之は、作兵衛や付き従った同志たちを詮議するため、残された妻子や下人らを上田へと連行。作兵衛にもすへの他に妻子がおり、その娘は京都で処刑されたともいいます。

 すへの嫁ぎ先である石合家に預けられていた作兵衛の嫡男・又兵衛も詮議を受けましたが、それは大阪夏の陣からずいぶん先の寛永16年(1639)だったこともあり、事なきを得たようです。

 そしてその3年後、幸村の忘れ形見である「すへ」もこの世を去っています。享年は不明ですが、お墓は長門町の西蓮寺にあるそうです。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
趙襄子 さん

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