「毛利隆元」毛利元就の嫡男は有能な父や弟らに劣等感を抱いていた?

東滋実
 2021/05/12

毛利隆元の肖像画

父の毛利元就、そして弟の吉川元春・小早川隆景、さらに子の毛利輝元に比べ、知名度や評価で一段劣るのが毛利隆元です。

これは決して隆元自身が優秀ではなかったというわけではなく、父があまりにも偉大であったこと、そして父よりも先に亡くなってしまったこと、また弟たちのように、「武」や「智」という武将として武略や計略にかかわる目立った才能はなかったことが、隆元を目立たない存在にしてしまっているのだと思われます。

しかし、隆元は目立たないながらも財務や内政においては陰ながら毛利氏を支えた、能力のある人物でした。

毛利元就の嫡男として生まれる

毛利隆元は、大永3(1523)年に毛利元就の嫡男として、安芸国多治比猿掛城(現在の安芸高田市)で生まれました。通称を少輔太郎といいます。

母は元就正室の妙玖(吉川国経の娘)で、同母弟に吉川元春・小早川隆景が、同母妹に五龍局(宍戸隆家の正室)がいます。

同年、父の元就はその甥の幸松丸が亡くなったことで、27歳で毛利宗家の家督を継ぐことになりました。そのころ、毛利氏は勢力を伸ばしていた出雲の尼子氏麾下にありましたが、尼子経久が元就の家督相続の背後で元就を排除しようと動いていたことを知り、大永5(1525)年には大内氏に属するようになります。

人質として大内義隆の元へ

そんな中で、嫡男の隆元は主君の大内義隆の元へ人質として送られることになりました。天文6(1537)年12月1日のことです。

隆元は義隆に厚遇され、同月19日には義隆を烏帽子親として元服し、その偏諱を受けて「隆元」と称しました。隆元が義隆に可愛がられていたことは、『毛利家文書』所収の「毛利隆元山口滞留日記」からうかがい知ることができます。

義隆の厚遇は、単純に隆元が気に入ったというよりも、毛利氏との結束を強めたいという意思の表れであったと思われます。隆元はその後天文9(1540)年まで山口に滞在し、大内氏の重臣らと親交を深め、毛利氏と大内氏を結びつける役割を果たしました。

家督を譲られるも……

天文14(1545)年に母の妙玖が亡くなると、翌天文15(1546)年に元就は隠居し、隆元へ家督を譲りました。元就50歳、隆元は24歳でした。

元就が妻を亡くして気落ちしたというのも理由のひとつでしょうが、このころの元就は月山富田城攻めで敗北し、得るものがなく家臣に褒賞を与えることができず、家中で悪評を得ていたこともあるでしょう。

また、元就が元気なうちに後継者である隆元を当主として教育するという目的もあったものと思われます。元就は信頼する重臣・志道広良と相談しながら教育を進めました。

「山口かゝり」の隆元

元就が隆元の当主としての器量を憂慮した理由のひとつに、「隆元が文化にのめり込み過ぎて、このままでは家臣の信頼を失いかねない」という問題がありました。

大内義隆の下で数年の間人質生活を送った隆元は、当然ながら「大内文化」と呼ばれる独特の山口の文化に触れました。貴重な書籍を手にする機会も多くあったでしょう。隆元は大内氏家臣の江口興郷から小笠原流故実を伝授され、武家故実書を贈られています。

これを書写し、武家故実に通じた隆元は、元就・元春とともに大内義隆の元へ挨拶に行く隆景にアドバイスをするなど、隆元の文化的教養が役に立つこともあったのですが、元就にとっては不安のほうが大きかったようです。

「山口かゝり」つまり度を超えた山口かぶれでは、緊迫する現状を乗り越えられないと考えたのです。隆元があまりにも外に出ないので、元就は鷹狩りや蹴鞠を勧めました。

ネガティブな隆元

また、隆元自身が当主としての器量に自信を持てないことも問題でした。天文15(1546)年の元就隠居表明の時は、元就自身実権を手放す気はなかったのでしょう。それ以前よりもその後のほうが、厳島の戦いや尼子攻め、大内攻めと大活躍していることからもわかります。

しかし弘治3(1557)年、毛利両川体制を整え、大内氏討伐を終えた元就が「蟄居(政務から退く)」すると表明すると、今度は本気で引退することを感じたのか、うろたえた隆元は必死になって止めました。

『毛利家文書』には、「元就が隠居するなら自分も幸鶴(のちの輝元)に家督を譲って隠居する、その時家がどうなろうと構わない、自分が家を滅亡させた当主になりたくないのだ」とか、「自分は無器量で無才覚なので、長く家を保ち分国を治めることなどできない」とか、弟たちや信頼する僧に不安な心の内を吐露したものがあります。

元就は隠居の理由として「大内氏討伐を世間では隆元の努力によるものと思わず、ただ元就の力によるとばかり言われることを憂えたため」だとして隆元に書状を送っていますが、隆元はすべて元就の才覚や器量によるものだと考えたようです。

もっとも、隆元が元就を引き留めようとするのも無理はありません。最初に家督を継いだ時とは状況が違うからです。大内氏討伐により、芸備だけでなく大内氏旧領の防長も手にしたわけですから、以前にもまして分国統治の責任がのしかかるのです。

結果、元就は隠居を思い留まり、引き続き実権を握り続けることになります。隆元の優柔不断さにため息をつきつつ、問題点は何度も指摘し、助言しながら教育を続けました。

隆元がこれほど後ろ向きな姿勢なのは、偉大過ぎる父に対するファザコンとでもいうべき執着はもちろんあるでしょうが、元就自身愚痴ばかりの悲観的な人間であり、それに似たのかもしれないと感じます。

陶晴賢との断交を主張!

隆元自身が卑下するほど、存外器量がないわけでもないのでは?と思わせる出来事に、天文22(1553)年の陶晴賢の吉見正頼攻めに際して、援軍を送るよう命じる晴賢と断交すべきと主張した一件があります。

援軍を送るべきか否か、毛利家中では何度も議論が行われました。元就自身は「自分が兵を率いて出陣し、晴賢に義理立てすべきだ」「そうでなければ晴賢に内心を疑われる」「敵対するには大内氏との力の差がありすぎる」と、あくまでも兵を出す考えを示しますが、隆元は反対しました。

隆元自身、義隆に可愛がられ、その娘(養女)を正室に迎えたこともあって、謀反を起こして義隆を殺した晴賢を嫌っていたのか、「晴賢は悪心を持つので、主君・大内義隆をクーデターで殺害したことの報いを受けるだろう」とし、「もし元就が参陣すれば晴賢に抑留される可能性がある」「元就留守中に尼子に攻め入られる可能性がある」「吉見討伐が終われば、次に晴賢が危機感を抱くのは元就であろう。今敵対せずとも、どうせ毛利を倒そうとするはずだ」と理由を並べ、兵を出すべきではないと主張しました。

これも「ここで元就を失ったら毛利は破滅だ」という、ただ元就を失ってなるものかという思いからくる主張だったのかもしれませんが、大事な局面の判断として間違ってはいませんでした。現状、晴賢とは領域をめぐる問題から不満が生じており、すでに両者の間に亀裂が入っていたのです。

結果、両者の敵対は決定的になり、折敷畑の戦い、厳島の戦いで晴賢を討ち取ることになりました。芸備から防長まで勢力を拡大するに至ったきっかけは、隆元の決断にこそあったといえるでしょう。

また、隆元は財務や内政を行う才能があったとされます。隆元の死後、収入が2000~3000貫減っていたとか。また隆景は隆元の死後に書状から兄がどれだけ家のために苦心したかを知り、いたく感じ入ったといわれます。地味かもしれませんが、いなくなってはじめて知る能力もあったのです。

「三子教訓状」と、隆元だけに宛てた添え状

弘治3(1557)年、元就が隠居を表明し、隆元の必死の反対により思い留まった後の11月25日、元就は隆元・元春・隆景の3人の兄弟に向けて14か条の教訓状を送っています。内容は、とにかく3人が協力して家を保つこと、同母の五龍局が嫁いだ宍戸家も同様に扱うこと、隠居しても隆元の後見を続けるつもりであること、また厳島信仰や元就が日課とする念仏のことなどです。

現在では「毛利両川が協力して仲が良かった」と見られる3兄弟ですが、元就がここまで「3人が協力しなければ」と教え諭した背景には、元就が元春・隆景を吉川・小早川家に養子入りさせた後、協力しようにも弟ふたりは吉田郡山城に来てもさっさと養家に帰ってしまい、ふたりだけで仲良くやっていると父に不満を訴えたことが少なからず関係しているようです。

ところで、教訓状には隆元だけに宛てた添え状がありました。その内容は以下のとおりです。

  • 毛利家をよかれと思う者は、他国はもちろん国内にもひとりもいない。
  • 毛利家中であっても、人によって、あるいは時によって、毛利氏一族をよく思わない者がいる。
  • 3人が結束していれば、毛利家中は隆元が、小早川家中は隆景が、吉川家中は元春が意のままにできる。しかし少しでも不和が生じれば、家中から侮られ、何事もできなくなる。

この添え状からは、毛利氏の繁栄を願うものは他国はもとより国内にもいない、油断も隙もないのだ、という戦国の世を生き抜く厳しさを感じさせられます。

尼子氏攻めの途中に急死する

天文16(1547)年に従五位下・備中守に任ぜられていた隆元ですが、永禄2(1559)年に正親町天皇即位料を献納すると、翌永禄3(1560)年に綸旨を賜り、大膳大夫に任ぜられました。

また続いて、幕府は隆元を相伴衆とし、安芸守護職に。数年後には備中・備後・長門・周防の守護職も兼任しました。

このように毛利氏が勢力を増し、尼子攻めに力を注ぐ中、隆元の死は突然訪れました。それは永禄6(1563)年8月4日未明のことです。

同年、尼子攻めと並行して九州の大友氏の侵攻に対応していた隆元は、芸農和談が成立すると軍を引き返し、厳島神社に参詣して父・元就の無事と長生き、元就に難がある場合は自分が蒙ると祈願しています。

そして7月10日、多治比猿掛城に帰着した隆元は、嫡男の幸鶴丸と対面しました。呼び寄せたのは幸鶴丸だけ。まだ陣中にある元就に配慮し、吉田郡山城で妻子と会うことはしませんでした。幸鶴丸とは、これが最後の体面となりました。

翌々日には猿掛城を出て、安芸佐々部の蓮華寺を宿所とし、8月5日に尼子攻めに加わるため出雲へ出発するつもりでした。ところが、出発の前の8月3日、毛利麾下の和智誠春(わちまさはる)の宿所に招かれて酒宴に参加した隆元は、宿所に戻ったあと腹痛に倒れ、そのまま4日未明に急死してしまったのです。

死因は毒殺とも、病死とも言われますが、よくわかっていません。

元就は和智らが毒殺したと考え、彼らを誅殺しました。しかしこれは隆元の死から数年後の永禄10(1567)年永禄12(1569)年のことです。死の報せを受けた直後はあまりの悲しみに茫然自失になっており、また毒殺を裏付けるだけの証拠がなかったためであろうと考えられています。

隆元の死後しばらくして、元就は隆景を通じ、隆元が生前信頼を寄せた禅僧の竺雲恵心(じくうんえしん)から、隆元自筆の書状を受け取っています。

それは隆元と恵心がやりとりした書状で、先に挙げたように元就の隠居表明に際して心境を吐露したもので、「自分は無器量・無才覚だ」「名将の子には必ず不運の子が生まれるというが、そのとおりだ」といった内容でした。

子の胸の内を知った元就は感涙し、恵心、そして元春・隆景とともに隆元の菩提を弔う常栄寺を建立。元就は期待をかけた後継者を失った後も実権を握りながら、隆元の嫡男・輝元の教育に力を注いでいます。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 岸田裕之『毛利元就 武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ』(ミネルヴァ書房、2014年)
  • 池亨『知将・毛利元就 国人領主から戦国大名へ』(新日本出版社、2009年)
  • 利重忠『元就と毛利両川』(海鳥社、1997年)
  • 小和田哲男『毛利元就 知将の戦略・戦術』(三笠書房、1996年)
  • 河合正治編『毛利元就のすべて』(新人物往来社、1996年)
  • 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...


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