毛利元就の次男として生まれ、他家の養子となって毛利家を支えた吉川元春。弟の隆景が知略と外交に優れた「知」の武将ならば、元春は幼いころから武勇に優れた「武」の武将でした。
元就が自分亡き後の毛利を託した「三本の矢」の真ん中は、軍事面で毛利の中国制覇に貢献。その生涯を簡単に紹介しましょう。
(文=東 滋実)
【目次】
享禄3(1530)年、元春は毛利元就の次男として、吉田郡山城にて誕生しました。母は嫡男の隆元と同じく、正室の妙玖(みょうきゅう/法名。実名はわかっていない)。幼名を「少輔次郎」といいます。
天文9(1540)年、元就が以前仕えていた尼子氏に攻め込まれた戦い(吉田郡山城の戦い)が起こり、翌年まで続きました。このとき少輔次郎はまだ11歳(もしくは10歳/数えでは12歳)という幼さでしたが、なんと元服前であるにもかかわらず初陣を果たしているのです。
武士の初陣はだいたい元服前後の10代半ばあたりが平均的です。同い年の上杉謙信でさえ初陣は元服後の13歳のときですから、元春はかなり早かったことがわかります。あの軍神と呼ばれた上杉謙信よりも先に初陣を飾り、しかも恐れることなく大暴れしてしっかり手柄を立てたというのだから驚きです。
戦に出たいと言った元春。元就はまだ早いと反対しますが、あまりのしつこさに根負けして初陣を許したのだそうです。
この戦で初陣を果たしたのち、天文12(1543)年に元服します。「元春」の「元」は父からではなく、兄・隆元の偏諱を受けたものであるといわれています。この三年後に元就が隠居して隆元が家督を継いでいるので、元就としては「今後は兄に従いこれを支えるように」という意図があったのかもしれません。
元春はこのように、やっと10代になったようなころから戦の才能を発揮していました。余談ですが、元就も元春の才能に気づいていたようで、こんなエピソードもあります。
幼い元春と隆景が雪合戦をして遊んでいたときのこと。まずは元春側が勢いのままに勝利。悔しがった弟の隆景は、対策をしっかり練り、改めて第2戦に挑むと今度は隆景の作戦勝ち。これを見ていた元就は、勢いのある強さなら元春、知略なら隆景だ、と考えたとか。
元春の人となりを語るうえで外せないのが、嫁取りのエピソードです。天文16(1547)年、元春は熊谷信直の娘・新庄局(しんじょうのつぼね)と結婚し、ほかに側室を持つことなく生涯添い遂げています。
特筆すべきは、新庄局が不美人(もっといえば醜女)であったということ。醜いことが噂になるような女性であったのに、元春は自ら望んで新庄局と結婚したという逸話が残っています。
『陰徳太平記』によれば、元春の決断に驚いた毛利の家臣・児玉就忠が「どうして新庄局なのか」と尋ねると、「醜女ならば誰も結婚したがらないだろう。信直もそれを承知しているだろうから、私が娘を娶ればきっと感謝する。何かあったとき私のために尽くしてくれるだろう」と答えたとか。
信直は勇猛な武士であり、彼を味方につけるための政略結婚だったといわれていますが、元春は生涯妻を愛して関係は良好だったようです。
あえて醜女を妻にしたというエピソードは諸葛孔明や近藤勇の例などがありますが、なかには本当に醜女だったかどうか疑わしい話もあります。
たとえば明智光秀の妻は、疱瘡にかかって醜かったといいますが、噂になるほどの美女だったという逸話も(おまけに娘の細川ガラシャも美女で有名)あるため、夫婦の美談として誇張されているだけとも考えられます。
新庄局に関しても、不美人とは書いていない書物もあり、実際のところはよくわかりません。
さて、同年に元春は吉川家の養子となっています。吉川家は母・妙玖の生家であり、義理の父となった吉川興経(おきつね)は従兄弟にあたります。
興経には実子の千法師がいたのに、なぜ養子を迎えることになったのか。それは興経が大内・尼子の間で行ったり来たりを繰り返し、吉川家中で主君に対する不信感が生まれたことが理由でした。家中の説得により、おばの子をしぶしぶ養子に迎えた興経。
元就は不穏な動きのあった興経を強制的に隠居させ、元春が吉川家の家督を相続することになりました。興経、千法師親子は粛清として殺害され、吉川家の嫡流は途絶えてしまいます。
弟・隆景の小早川家家督相続が比較的穏便に進められた一方、元春が吉川家の当主の座を得るまでにはかなり血なまぐさい出来事があったのでした。
こうして吉川の当主となった元春。吉川家は藤原南家の流れをくむ名門で、宗家は安芸吉川家ですが、山陰の石見にも古くから一族が根付いていました。そういうわけで、元春は安芸西北部から石見にかけての山陰方面のおさえとしてはたらくことになります。
毛利宗家は安芸東北部の吉田郡山(現在の広島県安芸高田市)にあり、弟の隆景は海に面した安芸東南部の山陽を本拠地とした。宗家を真ん中に、それぞれ養子に出た弟たちが北と東南方面に領地を得たことは、毛利の中国制覇の足がかりとなりました。
初陣から暴れまくって武功をあげた元春は戦上手の武将でした。生涯で出陣した戦は76。そのうち64戦で勝利をおさめ、残り12戦は引き分けでした。つまり、一度も負けたことがないのです。
弘治元(1555)年に行われた日本三大奇襲戦の厳島の戦いでは、隆景と協力して先頭に立って奇襲攻撃を仕掛け、毛利の勝利に貢献。以後、長期化した尼子との戦いでも主力として戦っています。
父・元就が亡くなった後、いよいよ織田信長が中国に目を向け始めます。きっかけは将軍・足利義昭の京都追放です。
天正5(1577)年から織田家臣団の一員・羽柴秀吉の中国攻めが始まると、元春は翌年の上月城の戦いをはじめとした数々の戦いで敵を退け続けます。
が、やがて劣勢に。天正10(1582)年、備中高松城の戦いにおいて、秀吉の水攻めを受けた毛利側は攻撃もままならない状況に陥ります。和睦の条件でも互いに一歩も譲らず、膠着状態に陥るのですが、6月4日に状況は一変します。秀吉は突如譲歩の姿勢を見せ、和睦はあっという間になってしまったのです。
秀吉が和睦を急いだ理由は、信長の死でした。光秀謀反の知らせを聞いた秀吉はすぐにでも京都へ引き返して敵を討ちたかったのでした。
毛利側が信長の死を知ったのは、和睦がなって秀吉が帰ったあとのことでした。元春は信長の死を隠して講和を急いだ秀吉に激怒し、「今すぐ秀吉を追って討とう」と鼻息荒く提案します。こちらに背中を向けた相手を追撃すれば、討ち取って天下をとることだってできるはず。
いかにも武勇の人・元春らしい意見ですが、これは隆景によって止められます。和睦を結んで舌の根の乾かぬ内に反古にするのは武士として恥ずべき行為であり、また秀吉を追撃したところで必ず勝てるという見込みもなかったのでしょう。
深謀遠慮、何手も先を読む知将・隆景の制止で踏みとどまりましたが、元春としては秀吉が気に入らなかったようで。本能寺の変と同じ年、元春は隠居して子の元長に家督を譲ってしまいます。天下をとった秀吉の下では働きたくなかったのでしょう。
隠居後、秀吉との付き合いは弟・隆景や子の元長に任せ、隠居生活を送るための館建設などに精を出した元春。ただ、その隠居生活も長くは続きませんでした。
元春の最後は戦の陣中でした。秀吉に熱心に頼まれ、隆景や輝元の熱心な説得により再び出陣し、九州征討に赴いたときのこと。病(化膿性炎症とされる)にかかっていた元春は豊前小倉城で生涯を閉じます。57歳。戦上手の勇将は、最期の時も陣中で迎えたのでした。