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  • 豊臣秀吉
 2018/12/26

「前田玄以」京都奉行職も務めた五奉行の1人

前田玄以の肖像画

「織田信長」が上洛した際に設置した「京都所司代」という織田政権と公家・諸寺社とを結びつける重要な役割を担ったのが、「村井貞勝」であり、豊臣政権になってからは、その娘婿である「前田玄以」が任されました。 その政治的手腕は「豊臣秀吉」に大いに認められ、五奉行のひとりにも数えられています。「徳川家康」も玄以を高く評価していたようです。

はたして彼はどのような人物だったのでしょうか?今回は前田玄以の生涯についてお伝えしていきます。
(文=ろひもと 理穂)

織田信忠の家臣となる

謎の多い半生

玄以の前半生に関しては残された史料が少なく、ほとんどが謎に包まれています。玄以の氏族とされる美濃前田氏は、美濃国守護代である斎藤氏の庶流で、前田李基が美濃国前田村に移住して前田氏を称したとされています(前田利家の加賀前田氏と同じく、菅原氏の一族であるという説もあります)。

玄以は1539年(天文8年)に美濃国に生まれ、当初は基勝と名乗っていました。しかし、武士ではなく僧となっています。天台宗または禅宗の僧だったようです。尾張小松原寺の住職を務めていたという説もあります。

信長との出会いの経緯は不明ですが、信長はその器量を認め、玄以を招聘し、嫡男である信忠付の家臣としました。信長の目に留まるほどですから、よほど優れた才能の持ち主だったのでしょう。

村井貞勝の娘を正室に迎える

玄以の初見史料は、1579年(天正7年)に寺の掟を定めた発給文書です。真長寺宛てに玄以の名が記されています。 しかし、長子である前田秀以が生まれるのが1576年(天正4年)のことになりますから、それ以前に玄以は村井貞勝の娘を正室に迎えていたことになります。

貞勝は、信長が足利義昭の上洛を手伝った際に京都に設置した京都所司代を務めていた人物です。ルイス・フロイスが「都の総督」と記したほど権勢を得ていた人物であり、朝廷とかなり太いパイプを持っていたようです。玄以もまた信忠の側近として、信忠と本願寺の取次を務めていました。交渉術については義父である貞勝から学んだことも多かったのではないでしょうか。

京都所司代として活躍

三法師を託されて二条御所を逃れる

1582年(天正10年)、明智光秀の謀叛によって、信長は本能寺で倒れます。貞勝は信忠に進言し、二条御所に移って光秀と戦い倒れました。この時、玄以もまた信忠の傍にいましたが、信忠の嫡男である三法師(後の織田秀信)を託され、京都から脱出。岐阜国美濃城から三法師を救出し、尾張まで逃れています。

玄以は主君と共に、義父もまた失うことになったのです。

その後、光秀は秀吉に討たれ、清州会議で三法師が織田家当主に決定すると、玄以は傅役に指名されます。そして信長の二男である織田信雄に仕えた玄以は、1583年(天正11年)、義父の貞勝同様、京都所司代に抜擢されることになります。<.p>

しかし、信雄は秀吉と対立し、家康を味方に付けて1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いで激突しました。その結果、秀吉の勢力が拡大することとなり、京都にいた玄以はそのまま秀吉の家臣として仕えることとなりました。

京都所司代として秀吉から信頼を受ける

秀吉の破竹の勢いは止まることがなく、1585年(天正13年)には関白に就任。事実上の豊臣政権を樹立することになります。玄以は引き続き京都所司代を務め、京都の庶政、寺社の管理、洛中洛外の民政を担当しました。

貞勝の仕事ぶりを見ていた玄以は京都を管理するコツを掴んでいたでしょうし、貞勝が生前に築いた人脈を娘婿として生かすこともできたことでしょう。秀吉からの信頼も篤く、玄以は京都所司代を関ヶ原の戦いの時期まで務め続けることになります。

1587年(天正15年)には、秀吉の政庁兼邸宅である「聚楽第」が完成し、玄以も移り住みました。京都所司代の屋敷は、秀吉の京都における宿所も兼ねていたからです。さらに1588年(天正16年)には、聚楽第にて後陽成天皇の行幸を迎えて饗応することになります。玄以は諸家の記録や故事を調べるなど奉行として活躍しました。

1593年(文禄2年)には京都を離れ、秀吉に近侍し、朝鮮出兵の前線基地となった肥前国名護屋城へ赴いています。 1595年(文禄4年)には秀吉から丹波国亀山5万石を与えられて、城主となりました。そして1598年(慶長3年)、秀吉が病没する間際、石田三成らと共に豊臣政権下の五奉行のひとりに任じられ、後事を託されたのです。

秀吉没後は家康方へ

関ケ原の戦いでは西軍に味方するも本領安堵

秀吉の没後、家康が秀吉の遺言を破って諸大名同士の婚姻を行うなどをしたために、三成や前田利家らが反発します。そして1600年(慶長5年)には、家康方の東軍と三成方の西軍が衝突する天下分け目の大戦、関ヶ原の戦いが行われることになるのです。

玄以は他の五奉行と同じく、西軍に味方し、家康討伐会議に参加していましたが、決戦の直前になって病と称し、最後まで出陣することはありませんでした。大坂に残った玄以は、家康に内通し、三成の動きを伝えていたようです。その功績があって、玄以は戦後処理の際に罰を受けることはなく、丹波国亀山の本領を安堵されています。

五奉行のひとりである増田長盛もまた家康に内通し、大坂に残っていましたが、こちらは改易となり、身柄は高野山に預けられています。なぜ玄以と長盛ではこうも扱いが異なったのでしょうか?

丹波亀山藩初代藩主

玄以が本領安堵され、丹波亀山藩初代藩主となった理由は、京都所司代としての働きを家康に認められていたからではないでしょうか。家康は、江戸幕府創設後の朝廷政策に玄以が欠かせないと考えていたのでしょう。 しかし、玄以は江戸幕府が創設される前の1602年(慶長7年)に病没してしまいました。目論見が外れた家康はショックを受けたはずです。

丹波亀山藩は玄以の三男である前田茂勝が引き継いでいます。

まとめ

信長、秀吉、家康という天下の英雄にその器量を認められた玄以。もとは僧であり、謎の多い人物ですが、嫡男・前田秀以はキリシタンとなり家を出ています。丹波亀山藩を継いだ茂勝もまたキリシタンでした。玄以の家庭内もまた謎が多く、ミステリアスです。

大名、公家、寺社、キリシタンと多くの人脈を有していたことが、玄以の価値をさらに高めたのかもしれません。





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