光秀唯一の肖像画 ~光秀と本徳寺とのつながり

明智光秀というと、どんな顔を思い浮かべますか?数々のドラマで演じてきた俳優かもしれません。でも、多くの人は光秀の肖像画を頭に思い浮かべるのではないでしょうか。そう、あの教科書とか、「明智光秀」と題した書籍などの表紙に登場する肖像画です。

何の気なしにあの絵を見て「ああ、光秀だな」なんて軽く流し見していませんか?実はその肖像画、いろいろおもしろい伝説につながるものなのです。

光秀の肖像画

一般的に知られている明智光秀の肖像画は現在の大阪府岸和田市にある本徳寺所蔵のものです。光秀肖像画はこれが唯一のものといわれており、これをおいてほかに光秀の姿を記録した絵は残っていないそう。

明智光秀の肖像画(大阪府岸和田市 本徳寺所蔵)
明智光秀の肖像画(大阪府岸和田市 本徳寺所蔵)

なぜこれが光秀の肖像画だとわかるかというと、実はこれが結構曖昧な感じで……。

本徳寺には位牌があるのですが、その位牌には「鳳岳院殿輝雲道琇大禅定門」と書かれ、肖像画には「輝雲道琇禅定門肖像賛」と書かれています。

「輝」の字のなかに「光」があり、「琇」の字のなかに「秀」が、つまり「光秀」の名がどちらにも隠れているというわけで、だからこれが光秀の肖像画なのだ、といわれています。

それだけでなく、この肖像画を書かせた、もしくは書いたのが光秀の息子・光慶であるとされており、それも光秀の肖像画だとする大きな根拠になっています。

本徳寺(大阪府岸和田市)の由緒

そもそも本徳寺とは、明智氏と密接なつながりのあるお寺なのです。

寺の開祖は光秀の息子?

本徳寺は臨済宗のお寺で、京都の臨済宗妙心寺派の大本山である妙心寺の末寺です。このお寺の開祖が南国梵桂(なんごくぼんけい)という安土桃山時代の僧侶でした。俗に、この南国梵桂が光秀の遺子・明智光慶(あけちみつよし)だと言われています。

光慶(十兵衛)は複数ある明智氏の系図では『明智軍記』や「鈴木叢書」所収の『明智系図』にしか見えない名ではありますが、光秀とともに連歌会に名を連ねたことが記録に残っており、実在した人物であろうといわれています。

『明智軍記』によると、光慶は山崎の戦いで光秀が敗死した天正10年(1582)6月13日に亀山城で病死したとありますが、同日に討ち死にしたならともかく病死とは偶然過ぎる…。

自害だった可能性、討ち死にした可能性もありますが、光秀の子どもたちについては討ち取られたという記録がそもそも残っていないため、落ちのびて生きていた可能性も十分に考えられます。そのため、光慶=南国梵桂という説も完全に作り話だ、とは言い切れない。

大河ドラマ『おんな城主直虎』では、『明智系図』に見える光秀の子・自然(じねん)が井伊谷に落ちのびたというエピソードがありました。

※参考:『鈴木叢書』所収「明智系図」にみえる光秀の実子(6男7女)

『明智系図』では自然は坂本城で自害したことになっており(複数の書物によれば明智秀満によって刺殺されたか)、もちろんこれはドラマの創作でしょう。

しかし、光秀の子孫として知られる明智憲三郎氏は、落ちのびて山城(京都)でひっそりと隠棲した於寉丸(おづるまる)の子孫だといいます。憲三郎氏によれば、他にも各地に落ちのびた光秀の子孫がおり、現在まで家系をつないでいるとか。

こういう話もあるので、あの日秀満は坂本城で子どもたちを逃したのかもしれない、そんな可能性も考えられますよね。


岸和田市に伝わる昔話

本徳寺がある岸和田市には、こんな伝説が残っています。

───本徳寺を開いた南国和尚は光秀の実子で、父・光秀が討たれた後でひっそりと落ちのびて京都の妙心寺で僧侶になった。その後貝塚にある鳥羽村の海雲寺で父・光秀の肖像画を描き、位牌も用意して供養した。この海雲寺を岸和田に移転したのが今の本徳寺である。───

岸和田の地では、古くからこのように昔話として本徳寺の由緒が伝えられてきたようです。

妻木氏との関係

出家した光慶には別の名があったという説もあります。それが「玄琳」。玄琳は妙心寺の塔頭の瑞松院にいたようで、実はこの瑞松院が光秀の妻の実家である妻木氏の菩提寺・岐阜県土岐市の崇禅寺にある塔頭と同じ名前です。瑞松院は妻木頼忠を弔うために建てられたようですが、もしかするとかかわりがあったのかもしれません。

光秀=天海説との関係

「生存していたかも?」といわれるのは息子の光慶だけではありませんよね。光秀自身にも生存説はあります。光秀が落ちのびて僧侶となり、「南光坊天海」として徳川家康に仕えたという説があります。光秀の肖像画には、それに関わるとされるとある文章が書かれているのです。

明智光秀と天海のイラスト

光秀は落ちのびてここで隠れ住んでいたのか

肖像画に書かれた「放下般舟三昧去」という文章。多くの人は肖像画の人物に目を向けるので、その上にある文章には注目しないかもしれませんが、うっすらといろいろ書かれています。

引用した文章は、「一度仏門に入って修行三昧だったが、去って行った」という内容です。これが示すのは、光秀が仏門にくだって修行をしていたということ。「去った」とはどういう意味でしょう。

  • 亡くなった説
  • ここ(本徳寺)を出て行って天海僧正になった説

の2つの説が考えられます。

どちらにせよ、山中で討ち取られたはずの光秀が生きて仏門に入っていた可能性があるということですね。そして「去った」のが天海僧正になったことを示すのであれば、光秀=天海となるわけです。

「かごめかごめ」の後ろの正面は光秀か

また、都市伝説的なこんな話もあります。

光秀=天海説の証拠として、また本徳寺と光秀をつなぐ話として、昔からある子どもの遊びで歌われる「かごめかごめ」が引き合いに出されることがあります。

「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出や る夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ?」

いろいろと怖い話がある「かごめかごめ」ですが、この件においてはとくに怖いエピソードはありません。

光秀の出身地は美濃国の可児郡。ここに居城・明智城があったといわれています。現在の岐阜県可児市ですね。ここから日光東照宮(天海の廟所が日光にある)の方角を向くと、「後ろの正面」にあたるのが本徳寺だ、というのです。

可児から日光を向くと、真後ろは本徳寺
可児から日光を向くと、真後ろは本徳寺(出所:wikipedia

日光の方角を見るのは、「夜明けの晩」=「夜が明ける最後」=「日の出」から来るという説もあります。

これが、「日光とつながりが深い天海の正体は光秀なんだよ」と暗示しているとまことしやかにささやかれているのです。少々こじつけっぽいですが、どう思われますか?

肖像画ひとつで想像が広がる

光秀の肖像画と、本徳寺の関係、そして生存説との関連性について紹介しました。

「これが光秀なんだ」と認識する程度だった肖像画も、こうしてみると興味深いことがいろいろ見え隠れすることがわかると思います。もちろん、光慶が南国梵桂だという説も一説に過ぎず、確証はありません。しかし、肖像画があるお寺に光秀の伝説が残っているとそれだけで想像が膨らみますね。

本徳寺に所蔵されている光秀の肖像画は普段は非公開ですが、たまに一般公開されることがあります。実際の肖像画にどんなことが書かれているのか、興味がある人は直接見に行ってみてください。


【参考文献】

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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