本能寺の変直前の「家康接待」~光秀が腐った鯛を出して信長の怒りを買った?

本能寺の変からさかのぼることわずか半月。天正10年(1582年)の5月中旬、信長は安土を訪れた徳川家康の接待を家臣の明智光秀に任せています。信長が光秀を信頼していたことがよくわかりますが、このとき光秀が信長ともめたという逸話も残っています。「もめたことで信長に恨みを抱いた光秀が謀反を起こした」という見方もあり、本能寺の変を探る上で重要な出来事でした。

天正10年(1582年)の信長による家康接待

この年の5月15日、徳川家康が安土に到着しました。

信長と武田の戦いに貢献した家康は駿府を拝領し(※『信長公記』には駿府・遠江両国を拝領とありますが、高柳氏は著書『明智光秀』のなかで「これは当然駿府だけでなければならない」と誤りを指摘しています)、同時期に本領安堵された穴山信君(あなやまのぶただ/梅雪の名で知られる)とともにお礼のため安土を訪ねてきたのです。

信長は二人の接待に力を入れていた

信長はこの二人を歓待しました。太田牛一の『信長公記』によれば、信長はこの二人を接待するために街道を整備させ、安土に到着する前の日には、信長の家臣たちに命じて丁重に接待させたようです。

光秀に饗応準備の役を一任

家康が安土に到着した15日、信長は光秀に接待を一任しました。『信長公記』によれば、光秀は京都や堺で豪華な食料や珍しいものを調達し、盛大にもてなしています。光秀による接待は15日から17日まで続きました。

光秀は二人を丁重にもてなすために、宴を豪華に彩る調度品を集めに奔走しています。寺社に交渉して調度品を整えました。

このとき光秀は休暇中だった?

光秀が家康の饗応準備を任される前日、どうやら光秀は休暇中だったようです。

『兼見卿記』では

光秀の友人、吉田兼見の『兼見卿記』によれば、5月14日、光秀は軍事から外れ、信長から休暇を取るよう命じられていたらしい。そして翌日から家康の接待に奔走することになったことが記されています。

『信長公記』では

また『信長公記』では、中国で毛利とにらみ合っている秀吉の報告を聞いた信長が堀秀政を使者に送って指示を出すと同時に、光秀はじめ、細川忠興、池田恒興らの家臣には出陣命令を出して帰国の許可を与えたとあります。

17日に接待役から外れて出陣の準備~怒涛の展開へ

結局光秀は接待のために軍事から外されただけだったのか……休む間もなく、接待役から外れた光秀は出陣の支度のために坂本城へ帰り、戦の用意をします。26日には坂本を出発し、亀山に到着。愛宕山へ参詣し、連歌会を催した数日後、上洛した信長が逗留する本能寺へ向かうことになるのです。

扱いの酷さで恨み?

この家康接待からの一連の流れについて、高柳氏は『明智光秀』の中で兼見卿記の記録を参照しながら、「何となくこのような光秀に信長がすぐ中国への出陣を命ずるのは気の毒であるといっているような気がする。この気持は実は兼見一人の気持ばかりではなく、多くの人の気持であったらしく、これがやがて、光秀が恨みに思って謀反をするに至ったという説にまでなって行ったのであろう」と述べています。

よく、このとき信長ともめたことで恨みに思い謀反に走った、といわれますが、それ以前に休みもなく接待をさせられたかと思えばすぐ出陣、というように、馬車馬のように働かされる状況、これも怨恨につながったのではないか、という見方があります。

信長に叱責された逸話は作り話か

信長の家康接待について有名な逸話がありますね。接待役の光秀が信長と相談をしていて叱りつけられた、足蹴にされた、急に接待役を外されたという話。本能寺の変の直前ということもあり、光秀も我慢の限界がきて不満が爆発して謀反に及んだ、なんていう考え方もあるほどです。

いくつかの逸話をざっくりと紹介しましょう。

ルイス・フロイスの『日本史』

饗応準備中の光秀が信長と接待の相談をしていたところ、信長の意見に光秀が口答えしたため、怒った信長は光秀を足蹴にした、というエピソードが記されています。

『川角太閤記』

光秀は接待のために食事を用意していたが、夏だったので用意していた生魚が傷んでいた。準備中にやってきた信長がこの悪臭に気分を害し、すぐさま光秀を接待役から降ろして堀秀政に変えた。光秀は面目を失い、用意していた食事や調度品を城の堀に捨ててしまった、というエピソード。

接待役を外された理由は別にある

光秀が信長を恨む理由としてもっともらしいエピソードですが、本当にあったことかどうかはわかりません。それ以前に、先ほど紹介したとおり、光秀が接待役を外れたのは中国への出陣を命じられたからです。

フロイスの『日本史』にあるような出来事がこのときあったのか。キレっぽい信長のことなので、家臣を叱責することはよくあったでしょう。『川角太閤記』は江戸時代に入ってから書かれた書物で、秀吉寄り。光秀怨恨説を裏付ける話として創作された可能性が高いでしょう。

『信長公記』にはない

そもそも、家康接待に関してこの前後を記録している『信長公記』にこのことが書かれていないのが妙です。あえて書かなかった可能性もありますが、同じ家康接待中の出来事として、能を舞った梅若大夫が不出来で信長が大変立腹した、という話は記録されています。

これは書いて、他のトラブルは書かない、という書き分けがあったとは少々考えにくい……。光秀の準備に関する記述は簡潔にまとめられており、そこに何か問題があった様子はないのです。

光秀が外されたあとの接待は

一応、光秀が接待から外れたあとの様子をまとめておくと、おおむね滞りなく進みました。

19日には舞を見て、20日には丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一、菅谷長頼に接待の用意を命じ、この日は信長も一緒に膳を並べて食事をしたようです。これはめったにないことでした。

信長は家康に帷子を贈って歓待し、翌日以降は「上洛して京都・大坂・奈良・堺を見物したらいい」と勧め、長谷川秀一を案内役に。信長自身も29日に上洛し、本能寺に滞在しました。

本能寺の変怨恨説につながる出来事

家康接待中に信長とトラブルがあったのかどうかは不確かですが、本能寺の変の直前ということもあり、重要なポイントではあるようです。

この出来事に関連してはさまざまな説があり、単純に光秀が信長を恨んで突発的に謀反を起こした(または恨みが蓄積して爆発した)という説のほか、最近では家康も主犯格として絡んでいたという説もあります。

数年前の大河ドラマ『おんな城主直虎』がその説を取っており、家康は光秀から「信長が家康を暗殺しようとしている」話を聞き、また光秀が謀反を起こすことも知っていた、という展開でした。

家康自身は事前に謀反計画を知っていたという新しい解釈のもとで本能寺の変が語られていましたね。(ところが信長は家康を殺すつもりなど全くなく、純粋に歓待していただけ、光秀が家康を引き込もうと嵌めた、というのも面白い。)

本能寺の変につながる大事な出来事でありながら、いろんな説が飛び交っていまだに確かな動機がわからない。ここもまた、さまざまな解釈ができておもしろいところです。


【主な参考文献】
  • 高柳光寿『明智光秀』(吉川弘文館、1958年)
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)
  • 太田牛一著・中川太古訳『現代語訳 信長公記』(株式会社KADOKAWA、2013年)
  • 芝裕之編著『図説 明智光秀』(戎光祥出版、2019年)etc…

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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