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 2019/05/10

現代にも続く?戦国時代の正月行事と風習

正月を意図するアイキャッチ画像

お正月行事は伝統的なもの。地域によって違いはあれ、 行事や文化は全国で共通のものが多いですよね。また、日本の長い歴史の中で現代まで続いている行事や文化もあります。

今回は、戦国時代の正月行事について、どんなお祝いをしていたのか、また現代に通じるものはあるか、などを紹介します。(文=東 滋実)

新年のあいさつ「年始参り」のはじまりは宮中・武家社会の年賀行事

現代ではお正月になると実家に帰省したり、親戚の家で集まって新年のあいさつをしたりしますよね。このことを「年始参り」「お年始」と呼びます。

この年始のあいさつは、すでに飛鳥時代ごろから宮中で行われていたといわれています。公的な行事としては、「朝賀」があります。

大化2年(646年)、孝徳天皇の時代に始まった元日の年頭拝賀の儀式です。もともとは神々とともに新年を祝うための集まりだったようですが、やがてお世話になった人へ年始回りのあいさつをする形へと変化し、のちの武家社会へも継承されました。

現在の年賀状も、もともとは宮中・武家社会でおこなわれていたならわし。直接会ってあいさつできないかわりに書状で年始のあいさつをしたものでした。

お年玉も室町時代からという説も

現在は子どもがお正月にもらうお金を指す「お年玉」ですが、もともとは年神様を迎えるために供えていた鏡餅を、鏡開きで子どもたちに分け与えたものが始まりとされています。

語源としては、

  • 餅は鏡を模したもの(鏡は魂を映す)→魂(たま)=玉
  • 年の初めに神様から賜るもの→「年賜(としだま)」
  • お供えの鏡餅が丸い→玉

などが挙げられます。すべて年神様に由来するものだということがわかりますね。

このほか、室町時代から始まった風習とされるのが、お酒や紙を贈る風習。また、目上の者が目下の者に金品(高価な茶碗など)を贈る風習も。これが現代のお年玉の始まりであるともいわれます。

正月飾りの門松

正月飾りである門松も、年神様を迎えるためのものです。松は魔除けの植物と考えられ、これを家の入り口に飾ったことが起源とされています。

門松のイラスト

この松が正月飾りとして定着するのが平安時代、そして松と竹の組み合わせで飾られるようになったのが鎌倉時代中期ごろでした。スパッと斜めに切った丈は鋭利で、松の葉のように魔除けとなったのです。

戦国時代の正月の姿

戦国時代の門松を見るならば、「国宝 上杉本洛中洛外図屏風」がいいでしょう。

米沢藩上杉家に伝わる屏風で、これはもともと天正2年(1574年)に織田信長から上杉謙信へと贈られたものとして伝わりました。屛風絵を描いたのは狩野永徳。これだけで京の都の四季折々の様子を知ることができます。

国宝『上杉本洛中洛外図屏風』の左隻
国宝『上杉本洛中洛外図屏風』の左隻

市中の家々の軒先にはしめ飾りがあり、これも現代に近い形。門松は飾りというより地面に生えたような姿で、現代の門松は竹がスッと真ん中に配置されますが、この洛中洛外図屏風では背の高い松の根元に数本の竹をさしています。

驚くのは、この門松があるのが立派な屋敷だけでなく、そこらへんの民家でもどこでも飾られているということ。当時の京都では一般庶民にまで正月飾りの文化が浸透していたことがわかります。

元日は祝の宴「三献の祝」

戦国時代のおもてなし料理、饗宴のスタイル「式三献」については以前も紹介しましたが、これが元日のお祝いでも催されました。

室町時代の『殿中以下年中行事』によれば、毎月晦日の30日の夜に公方が使者を立てて占い、その吉凶の結果を受けて朔日(月初めのついたち)に儀礼を行います。その際に三献の儀式を行ったと考えられます。

さまざまな正月の行事

ここからは、戦国時代の武家で行われたいくつかの行事を紹介しましょう。

室町御所の行事

『上杉本洛中洛外図屏風』にみえる室町御所
『上杉本洛中洛外図屏風』にみえる室町御所
正月二日:御乗馬始(ごじょうばはじめ)

通常「御乗馬始」というと、幼い男子が初めて乗馬する儀式などを指しますが、室町幕府の年中行事でもありました。正月二日、室町御所の松の庭において、将軍がその年初めて乗馬する儀式として行われました。

正月四日:御うたひ始

室町将軍家の正月の祝宴で、呼ばれた観世大夫には管領から御扇や能装束が下賜されるなどしました。

正月七日:御吉書始(きっしょはじめ)

吉書というのは、吉日を選んで奏聞する文書のこと。武家の吉書始は平安時代の朝廷に倣ったものですが、鎌倉幕府・室町幕府それぞれには少々違いがあります。基本、正月二日に行われるもののようですが、室町御所では正月七日、鎌倉管領は正月十五日に行われたようです。

正月十日:御参内始

現代でいうところの「仕事始め」にあたる日です。これも地域によって異なったようで、地方ではゆっくり正月気分をいつまでも味わってはいられず、五日ごろには仕事始めとなっていたそう。地域や職業によっても異なります。

武家社会一般の行事

正月七日:初子の祝(はつねのいわい)

初子(はつね)というのは毎月あり、その月最初の子(ね)の日をいいます。特に重要だったのが年の始め、正月最初の子の日です。「子」つまり「鼠」はねずみ算法式といわれるように多産と繁栄の象徴だったため、子の日が重視されているのです。

この行事は古くからあり、百人一首の光孝天皇の和歌「君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ」に登場する「若菜摘み」が初子の日に春の七草を摘むことを表わしています。つまり、七草粥を食べる日。鎌倉御所の「七日の朝御祝」と「椀飯の儀礼」は、初子の祝が由来であると考えられています。これは現代にも続いていますね。

正月十七日:弓始め

これは「流鏑馬(やぶさめ)」の名で知られていて有名ですね。鎌倉時代にも行われていたものの、日付が十七日に定められたのは室町時代中期になってから。

  • 「一色殿今夕公方様御弓始御合手に可有御参之由」(『親元日記』寛正6年(1465年))
  • 「夜に入て、公方様御弓始あり、御相手の面々の内、一人御参」(『年中定例記』大永5年(1525年))

これらの記録から夕方以降、遅い時間から行われていたことがわかります。

やぶさめ、というと騎射のイメージがあるかと思いますが、正月に行われる行事では基本、徒歩で矢を射たようです。騎馬で揺れるなかで射るというのは技術が求められますが、正月の弓始めは戦のための練武というよりその年の吉凶を占う意味が強かったため、騎射する必要はなかったのではないでしょうか。

連歌始め

中世の武家社会で爆発的に流行する連歌。季節を問わず連歌会は開かれますが、やはり年始めの連歌会は重視されていたようです。いつ開くかは人によってまちまちですが、だいたい正月中旬から下旬にかけて開かれたようです。

爆竹の祝

派手に爆竹を鳴らすお祝いの風習は、日本というより中国の旧正月(春節)のイメージが強いかと思います。本場中国では、火薬の爆発音で穢れを取り除き、すがすがしい気持ちで新年をスタートしよう、という意味があるそう。

日本に火薬がもたらされたのは鉄砲伝来よりも前、応仁の乱のころといわれていますが、それ以前、元寇襲来の際に蒙古軍が用いた「震天雷(しんてんらい)」で存在は知られていたようです。

それから時代は下って天正9年(1581年)、信長が正月八日に安土城下で馬廻衆に爆竹を用意させ、十五日に安土城下で、さらに二十三日には京の都で爆竹の祝をしたことが『信長公記』に記されています。

「正月八日、御馬廻、御爆竹用意を致し……(中略)御馬場入り、御先へ御小姓衆。其次を信長公、黒き南蛮笠をめし、御眉をめされ、赤き色の御ほうこうをめされ……(中略)早馬十騎・廿騎宛乗らさせられ、後には爆竹に火を付け、噇とはやし申し、御馬共懸けさせられ、其後町へ乗出し、去て御馬納れらる。見物群集をなし、御結構の次第、貴賤耳目を驚かし申すなり」(『信長公記』巻十四より)

信長は黒い南蛮笠をかぶって眉を描き化粧をした派手な出で立ちで、早馬の後ろに爆竹を付けて着火させると走らせ、町じゅうの人々を驚かせ感嘆させた、ということです。

これは派手好きの信長発案と思われがちですが、松平家忠の『家忠日記』には天正6年ごろに正月行事として記録されているため、東海地方では信長より前から正月の祝として行われていたのではないか、と考えられています。


【主な参考文献】
  • 奥野高広・岩沢愿彦 校注『信長公記』(角川ソフィア文庫、1969年)
  • 『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社、2007年改訂版)
  • 『日本国語大辞典 第二版』(小学館)
  • 飯倉晴武 編著『イラストでわかる日本のしきたり』(素朴社、2013年)
  • 西ヶ谷恭弘『戦国の風景 暮らしと合戦』(東京堂出版、2015年)
  • 年賀状博物館



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