天下統一を果たした秀吉は1592-93年(文禄元-2年)に "文禄の役"と呼ばれる朝鮮出兵を実施したが、このとき昌幸・信幸・幸村らの動向はどうだったのであろうか?
この朝鮮出兵の実施前には、その拠点として肥前国に名護屋城が築城され、完成した名護屋城には全国から諸大名が一同に集結した。
その基本的な陣立ては毛利・長宗我部・島津氏などの西国大名が渡海し、伊達・佐竹・上杉・徳川・真田氏などの東国大名が予備兵力として肥前・名護屋に在陣している。
『松浦古事記』によれば、20万余の兵が渡海し、名護屋在陣は10万余で、総計30万余の兵であったという。
真田氏と朝鮮出兵に関する史料は少なく、どうやら詳しいことはわかっていないが、肥前名護屋に参陣したことは確かなようであり、以下のような各史料から歴史学者ら専門家の見解もおおよそ一致しているようである。
ただし、真田の出陣時期については不明のようである。
また、真田が渡海したかどうかも不明とされているが、西国大名は上杉景勝や伊達政宗が渡海するにとどまり、徳川家康をはじめとした他の西国大名らは見送りとなっていることから真田も渡海していない可能性が高いと推察されている。
名護屋城では各諸大名らは陣所を構えているが、真田の陣所はどこにあったのだろうか。
『文禄・慶長の役城跡図集』によれば「7百騎 真田源吾(=真田昌幸)赤松」とあり、赤松という地に真田昌幸の陣所があったとみられている。(以下は真田昌幸の陣所の位置)
【名護屋在陣での真田昌幸の陣所】
では名護屋在陣中の動向はどうであったのか?。
これを示す史料としては、黒田基樹氏が著書「豊臣大名真田一族」で以下のようなものを挙げており、 長期在陣によって諸大名らは兵糧や大名同士の交流等、経費負担が大きかったようである。
朝鮮出兵(文禄の役)の終了後、真田がいつ帰陣したのかを示す史料はないようである。ただ、秀吉や家康、佐竹らが1593年(文禄2年8月中旬)に名護屋を出立しているので同じ頃と推察されている。
上記をまとめた結果、真田氏は他の諸大名と同様に朝鮮出兵(文禄の役)に出陣したことは確かと言えそうだが、 ここで少し気になったのが昌幸・信幸に関しては上記史料にみてとれるが、筆者が参考文献等で調べた限り、幸村個人を示す史料はどこにもないことだ。
この時期は幸村も秀吉の家臣としての立場となっており、昌幸・信幸とともに行動していたと考えるのが自然だから、特に記述する必要もないということであろうか?
・・・そこだけがどうにも腑に落ちないのである。