「津軽為信」出自不明の武将は摂関家の末裔!?弘前藩の藩祖

コロコロ
 2021/03/12

津軽為信の肖像画(弘前城資料館収蔵。出所:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E7%82%BA%E4%BF%A1" target="_blank">wikipedia</a>)
津軽為信の肖像画(弘前城資料館収蔵。出所:wikipedia

戦国時代は下克上の時代と言われます。 東北地方においても、氏素性が確かでない身の上から一城の主となった人物がいました。 のちに弘前藩の藩祖となる津軽為信(つがる ためのぶ)です。

為信は南部家に繋がりのある家に生まれながら他家を継承。瞬く間に周辺を切り取って、戦国大名として名乗りを挙げました。 為信は生き抜くために何を選択し、どう行動したのでしょうか。津軽為信の生涯を見ていきましょう。

津軽の大名として独立する

南部家に連なる一族出身

天文19(1550)年、津軽為信は大浦守信(あるいは下久慈城城主である久慈備前守)の子として生まれたと伝わります。母は九戸政実の妹とも言われています。

大浦家は南部家の一族です。守信の父・政信は、摂関家の近衛尚通の子(江戸時代に近衛家に認可)とされ、中央との繋がりもありました。

一方の久慈家も南部家の流れを汲んでいます。 南部家の始祖・南部光行が陸奥国糠部郡に入り、四男・朝清の庶流が久慈に入って久慈姓を名乗ったとされます。 室町時代には、南部家の嫡流から養子を迎えるなど関係は深いものでした。為信の母は、久慈家当主の後妻に入って為信を産んだと伝わります。その後、先妻の子に追われる形で大浦城に身を寄せたといいます。

いずれにしても、為信が南部家の一族出身であることは確かなようです。 豊臣秀吉は為信への書状の宛名に「南部右京亮」と書いてあり、これが津軽家文書の中に収められています。

婿入りして大浦城主となる

永禄10(1567)年、為信は十八歳で叔父・大浦為則の婿養子となります。

同年、為則が死去したことに伴って家督を相続し、大浦城主となりました。家督相続後、為信は家臣に武具着用の非常召集をかけて訓練を施すなど、過激な行動にも出ています。

為信は情報収集にも腐心していました。 出羽国の羽黒山参詣を名目に、山形の最上義光を訪ねて緊密な関係を結んでいます。 諸国の情報は、最上義光から調達していたようです。

為信は家督相続からわずか四年ほどで、大きな動きを見せます。 元亀2(1571)年、為信は石川高信に接近。津軽の石川城の改修工事にかこつけ、資材の中に武器を忍ばせます。 さらにならず者を石川城に突入させ、突如として攻城に転じます。これによって高信を自害に追い込みました。 高信は南部信直の実父であり、以後深い遺恨が生じていきます。

このとき、南部家は世子の南部信直と当主の南部晴政と間で内紛状態にありました。 これは信直と対立する晴政が、為信をけしかけたという説もあります。 しかし為信はこの情勢に乗じ、次々と周辺勢力の国衆や南部家の家臣たちを攻め始めます。

領土拡大と戦

天正4(1576)年、元旦に不意を突いて猛将・滝本重行が守る大光寺城を攻め落とます。 攻め取った石高は、一万五千石という広さでした。

天正6(1578)年には、無頼者を浪岡城に潜入させて放火させ、浪岡御所・北畠顕村を自害に追い込みました。北畠顕村は北畠顕房の末裔とされる武将です。かつて北畠家は奥州で鎮守府将軍を務めていたこともあり「北の御所」と尊敬を集めていました。

結果として、秋田の安東家との関係も悪化。周辺勢力を巻き込んだ六羽川合戦が勃発します。 津軽には一千の敵兵が押し寄せ、為信の本陣のほとんどが討ち取られるという事態になりました。 しかし辛くも敵将の比山六郎を討ち取り、津軽軍は勝利を掴み取ることが出来ました。

津軽家の生存戦略に腐心する

苦心の末の上洛

天正13(1585)年、為信は油川城、田舎館城を落とします。

この頃、為信の冷徹な一面が垣間見える事件が起きました。 義弟2人(夫人の弟で大浦為則の息子)が川遊びで溺死したのです。これは為信が、跡目争いを避けるために暗殺したとされています。

さらに同年、同盟関係にあった千徳政氏が南部家の三千に攻められます。為信は援軍を送らなかったために、盟友関係に亀裂が入ることとなりました。

この頃、為信は豊臣政権に接近するため、上洛を試みようとします。 鯵ヶ沢より船を出しますが、暴風によって松前沖まで流されてしまいました。

天正14(1586)年には矢立峠を浅利家に、同15(1587)年には、南部領を二千の敵兵に、同16(1588)年には秋田口を秋田家に阻まれて失敗に終わっています。

この時、豊臣秀吉は全国に惣無事令を発令していました。大名同士の私闘や勝手な侵略行為は、討伐対象となっています。 上洛擦れば秀吉から本領安堵を受けることになります。結果として津軽家は周辺からの侵略を防ぐことが出来るという目算でした。

天正17(1589)年、為信は秋田実季と和睦に至ります。 このとき、ようやく家臣を上洛させることに成功。豊臣秀吉に名馬と鷹を献上しています。為信は津軽三郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)と合浦の所領を安堵されました。この時の石高は四万五千石に及びます。

津軽領の本領安堵

天正18(1590)年、豊臣家による小田原征伐が行われます。為信は自ら少数の家臣とともに駿河国に向かい、小田原へ向かう秀吉に謁見を果たすことが出来ました。

ただ、道のりは平坦ではありませんでした。 南部家を継いだ信直は、為信を惣無事令違反として秀吉に訴えていたのです。これにより、為信は一度征伐の対象にされかけます。

<>pしかし為信は危機を脱します。早くから豊臣政権に恭順姿勢をとり、秀吉への謁見を果たしていたため、石田三成らを介しての釈明が認められ、独立した大名として認知されたのです。

秀吉の義兄弟となる

さらには自分の出自を最大限に活かそうともしています。 為信は近衛家に接近して金品を贈り、上洛した際には近衛前久と面会して自分を猶子になっています。 為信はここで藤原を本姓とし、その上で津軽姓に改名しています。領土の所有権とともに、秀吉と義兄弟の関係となっていました。

名実共に、南部家に手出しは出来ない状況です。 しかし南部信直は諦めていませんでした。九戸政実の乱の討伐後、為信を糾弾の上敵討ちを豊臣家の浅野長政に上申しています。 このとき、為信は不測の事態が生じる恐れを考慮し、津軽に帰国しています。

その後、為信は朝鮮出兵や伏見城の普請において活躍しています。 中央政治と関わる一方で、領国の経営も疎かにはしてません。 文禄3(1594)年には、堀越城へ居城を移転。慶長2(1597)年には、かつて盟友であった千徳家の一族を謀殺の上、浅瀬石城を落として千徳家を滅ぼすなど周辺を固めていました。

弘前藩の礎を築く

関ヶ原で両端を持す

慶長5(1600)年、右京大夫に任官されます。 同年の関ヶ原の戦いにおいては、東軍として参加しました。これは周辺が全て東軍に属したこともあったようです。 為信は美濃国の本戦にも参加し、大垣城攻略に戦功があったと伝わります。

しかしここで為信は、両端を持した行動を取っています。 嫡男・信建(のぶたけ)は大坂城で豊臣秀吉に仕える小姓でした。しかし西軍が敗北すると、石田三成の次男・重成らを伴って津軽に帰国しています。

津軽家は石田三成とも密接な関係にあったため、命がけで匿った状況でした。この後、重成は杉山姓を名乗って津軽藩主の血統に繋がっていきます。

同時に為信としては、たとえ東西どちらが勝っても、津軽家が生き残れる方策をとっていたようです。 為信は合戦にあたり、慎重に物事を運んでいます。出陣前には、反乱を恐れて一族の森岡信元を暗殺させています。

しかし結局、合戦中に国許で反乱が勃発。堀越城が一時占拠されるに至りました。その後も家中の内紛によって堀越城の占拠事例が続いていきます。このため慶長8(1603)年に高岡に新城を着工。同城は次代に弘前城と改称されることになります。

上洛して長男を見舞う

慶長12(1607)年、在番中に病で倒れた嫡男・信建を見舞うために上洛します。

同年、信建が病で亡くなりますが、為信自身もこのとき病に侵されており、息子の後を追うようにして約2カ月後に病没しました。享年五十八。戒名は「瑞祥院殿天室源棟大居士」です。墓所は弘前の革秀寺にあります。

あとがき

為信の死後、家督は三男の信枚(のぶひら)が継ぎますが、翌慶長13(1608)年には信建の嫡男・熊千代一派が正嫡を主張して幕府に訴え出る事態となりました。世にいう津軽騒動です。幕府は信枚を公認し、ようやく騒動が収まっています。

為信は、所領を安堵してくれた豊臣秀吉への感謝は忘れなかったようです。 現に秀吉から拝領した太刀「友成」は津軽の藩主代々にわたって受け愛がれました。

究極的には、神社において秀吉への感謝を示しています。

弘前城には「館神」という守り神の稲荷社がありました。ここにはある厨子が安置されていたといいます。 一度も開かれたことがない厨子の中には「館神」が安置されていると伝わっていました。 明治になった頃、厨子が開けられることになります。その中には、豊臣秀吉の木像が安置されていたといいます。

幕府に見つかれば、改易の可能性さえあります。しかし為信は、津軽家を引き立てた秀吉への感謝を忘れずに祀っていました。


【主な参考文献】

  この記事を書いた人
コロコロ さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 ...


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