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若き頃の真田幸村(信繁)は不遇にも人質を 4~5回も経験していた!

  • 真田幸村
 2020/05/12
真田幸村のイラスト
真田幸村のイラスト

戦国時代に活躍した武将の中で圧倒的な人気を誇っているのが、真田昌幸の二男「真田幸村」(信繁)です。大坂夏の陣では、劣勢ながら徳川家康の本陣目指して突撃し、家康を追い詰めました。「真田日本一の兵」と褒め称えられていることでも有名です。

しかし一方でそんな幸村は何度も人質に送られるという人生を歩んでいます。今回は幸村の人質の歴史にフォーカスしてお伝えしていきます。
(文=ろひもと理穂)

武田氏の人質から木曾氏の人質へ

甲府から新府へ移る

真田氏の当主である真田昌幸の二男として誕生したのが、永禄10(1567)年のことです。当時の真田氏は武田氏に仕えていましたから、人質として甲府で過ごしていました。

ただ、のちに武田氏の当主となった武田勝頼が、織田氏や徳川氏に対抗するため拠点を新府城に移したため、その際に幸村も移されています。『長岡寺殿御事積稿』には幸村が新府城にいたことが記されています。

同じく木曾義昌の子らも人質として新府城に預けられていましたが、義昌が裏切って織田氏に寝返ったために処刑されました。諸説あるものの、天正10(1582)年、武田氏存亡の危機にあった勝頼はこれまでの功績に報いるため、昌幸に人質を返還しています。

こうして幸村は武田滅亡とほぼ同時に人質生活から解放され、岩櫃城に入ったのです。

木曾氏へ人質として送られる

しかし、幸村は再び人質生活に突入することになります。同年の6月に本能寺の変で織田信長が討たれ、織田家が領する旧武田領で大きな混乱が生じたためです。

このときの真田氏の主君は織田であり、信長家臣の滝川一益の配下にありました。滝川一益は上野国を脱出し、無事に木曾郡を通過するための手段を依田信蕃と真田昌幸に相談しています。

旧武田領の争奪戦となった<a href='https://sengoku-his.com/453'>天正壬午の乱</a>マップ
旧武田領(甲斐・信濃・上野)の争奪戦となった天正壬午の乱(6~10月)。このとき、滝川一益は命からがら上野国を脱出、自領の伊勢まで逃げ延びた。

ふたりは佐久郡、小県郡の国衆の人質を差し出すことで木曾郡を通過するという提案をしました。信蕃は子の依田康国を、昌幸も幸村を人質として一益に同行させています。

この作戦は見事成功し、木曾義昌は信濃国への侵攻のために一益から人質を受け取り、一益の通過を許可しています。幸村は旧主である武田氏を滅ぼすきっかけを作った憎き木曾氏の人質となったのです。幸村ははたしてこのときどのような心情だったのでしょうか。

上杉氏の人質へ

徳川氏への従属と寝返り

その後、天正壬午の乱の最中の9月には木曽義昌が徳川氏に従属することを決意し、その代わりに佐久郡と小県郡の人質を解放することになり、幸村は真田領に戻ることができました。

おそらく木曾氏の人質だった期間は1ヶ月もなかったのではないでしょうか。昌幸が徳川氏に従属することになったからこそ、幸村は無事に帰還することができたわけです。

信濃国一帯はもはや誰が敵で、誰が味方なのかわからぬほどに混沌とした状況だったのですから、木曾氏の人質だった頃が最も生きた心地がしなかったはずです。

ようやく真田領に帰還できた幸村でしたが、やがてまた人質生活に逆戻りとなります。領土問題で家康と昌幸が揉め、徳川氏に見切りをつけた昌幸は上杉氏に転じることを決めたからです。

一度は上杉氏に従属し、勝手に手切れにしている経緯がありましたから、上杉氏への人質は絶対に必要だったのです。

真田と他勢力との相関図(1582~85年)
真田と他勢力との相関図(1582~85年)。武田滅亡後の真田は従属先を次々と変えていった。

幸村は上杉氏に加勢し出陣したのか?

幸村が越後に人質として送られたのは天正13年(1585年)8月、19歳のときです。

人質として送られる際に同行したのが、矢沢頼幸と乗馬衆5人、足軽衆13人の同心衆でした。頼幸は昌幸の叔父で沼田城代である矢沢頼綱の嫡男ですから、真田氏にとってはかなり重要な人物です。

人数は少ないながら、一部隊の将として幸村は上杉氏へ送られたのです。これは人質としての立場だけでなく、上杉氏への加勢という側面もあったと考えられます。

『景勝公一代略記』によると、幸村は海津城を経由して越府か、春日山城下に到着しました。その後の生活の詳細ははっきりしていません。

幸村が人質に送られた直後に、家康は真田氏の本拠地である上田城を攻めており(第一次上田城の戦い)、景勝はわずかな援軍を派遣したようですが、そこに幸村が加えてもらえたかどうかも定かではありません。

天正14(1586)年9月に景勝は新発田重家を攻めており、そこに矢沢頼綱らが加勢したことは間違いなく、課せられた役割を果たしています。ただし幸村自身の出陣については触れられておらず、真田氏の大事な人質として城に据え置かれたものと考えられます。

後年は戦上手で知られる幸村ですが、若い頃はこうしてなかなか戦場に出る機会がなく、もやもやした時間を過ごしていたのではないでしょうか。

豊臣氏の人質へ

越後国から大坂城へ移動

そんな幸村に転機が訪れます。昌幸が豊臣秀吉(この時期は羽柴姓ですが豊臣で統一します)に従属したためです。

一説には昌幸が勝手に幸村を越後国から呼び戻し、大坂城に送り、景勝はそれを知って怒ったというものもありますが、景勝も秀吉に従属していたので、おそらく話し合った末の結論だったと考えられます。

幸村が大坂城に移ったのは、天正14年(1586年)9月以降という説と、天正15年(1587年)に入ってからという説があります。どちらにせよ幸村が上杉氏の人質だった時期は1年か2年だったというわけです。

幸村にとって幸運だったのはこの秀吉との出会いでした。秀吉は幸村の器量を認め、人質としてではなく、家臣として重用していくからです。人生の大半が人質生活だった幸村にとってまさに運命が開ける重要な転機となるのです。

秀吉に厚遇され豊臣大名の一員となる

幸村は文禄元(1592)年には昌幸の子としてではなく、ひとりの豊臣大名の立場を築きました。

文禄3(1594)年には京都伏見城の普請役に任じられていますが、この際に人足賦課が380人割り当てられており、百石につき2人の割合という計算でいくと、幸村の知行はおよそ2万石となります。少なくとも前年には予告されていたとすると、文禄元年には大名として取り立てられていたという説も信憑性が高いです。

幸村はさらに従五位下左衛門佐の任官を受けており、豊臣姓を名乗ることも許されました。加えて秀吉の重臣である大谷吉継の娘も正室に迎えています。

これらは概ね同時期だと考えられており、こうした点から秀吉にかなり目をかけてもらったという印象が強いです。

ちなみに大谷吉継といえば関ヶ原の戦いで石田三成が最も頼りにした人物です。幸村の婚姻によって豊臣氏と真田氏の結びつきはさらに強くなりました。

昌幸の嫡男で、幸村の兄である真田信幸が家康の家臣だったことも、幸村はこちら側につけておきたいと秀吉に思わせる要因のひとつだったのかもしれません。

ここに至ると当然のように幸村は人質としての立場ではありません。豊臣氏の天下を維持するための重要人物です。幸村が自分の存在価値を、人質以外で初めて感じられたのもこの時期だったのではないでしょうか。

まとめ

人質として過ごした時期の長かった幸村。そこから解放してくれた秀吉は、幸村にとっては救世主のような存在であり、その恩は生涯忘れることのできないものになったことでしょう。

だからこそ、幸村は劣勢にありながらも豊臣氏滅亡の最期まで徳川氏と戦い抜き、秀吉の恩に報いたのではないでしょうか。忠義に尽くした幸村だからこそ、現代でもその人気が衰えないのです。


【参考文献】
  • 黒田基樹『豊臣大名 真田一族』(洋泉社、2016年)
  • 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
  • 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社 、2015年)
  • 平山優『大いなる謎 真田一族』(PHP新書、2015年)


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