「塙直政(原田直政)」出世したのに!苗字すら正しく読んでもらえない?
- 2019/09/03
織田信長の家臣には、有能な人材が多かったことはご存じかと思います。ですが、その中でも一時は秀吉や光秀をも凌ぐ、有力な武将だった「塙直政」について詳しいという方はそう多くないようです。
織田家中では出世を果たしながら、戦国乱世の途中で倒れたために、現代人からの知名度が低い直政。そのためか、苗字すらちゃんと読んでもらえないという現状があります。そこで今回は、そんな彼の生涯についてご紹介していきます。
織田家中では出世を果たしながら、戦国乱世の途中で倒れたために、現代人からの知名度が低い直政。そのためか、苗字すらちゃんと読んでもらえないという現状があります。そこで今回は、そんな彼の生涯についてご紹介していきます。
苗字は「ばん」と読む
イキナリですが、残念ながら直政に関する資料は非常に少ないです。そのため生誕年や父母は不明。ただし直政は尾張国春日井郡比良(ひら)村出身であり、大野木村あたりを支配していたとみられています。そして気になっているはずの苗字の読み方ですが、はなわ……ではありません! もちろん「はなわ」としている資料(『重修譜』)もあるのですが、他の資料から「ばん」と読むのが正しいと考えられています。
SAGAやヤホーのイメージは捨ててくださいね。あっ、古いですか?
さて、直政は塙の他にも、「原田」という姓を名乗っていた時期もあります。これは天正3(1575)年、九州の名族・原田氏の姓と受領名を与えられたためです。それ以降、直政は「原田備中守直政」を名乗っています。
事務的能力に優れていた
それでは、直政のキャリアについて見ていくことにしましょう。先ほども書きましたが、直政は謎の多い人物。信長に仕官し始めた時期も定かではありません。とはいえ尾張出身であり、赤母衣(ほろ)衆(信長の親衛隊のような存在)にも選ばれていたことはわかっています。そうなると直政は、初期からの家臣だったのではないでしょうか。
このように、信長のすぐそばに仕える“エリート仕官候補生”の一人だったと考えられる直政。にもかかわらず、永禄11(1568)年の信長の上洛まではまったく資料に出てこないのです。
そして上洛以後、よく直政の名前が出てくるのは合戦の記録ではなく、行政文書。例えば着岸する船に対する指示や、寺領についての処分を出したことなどの記録が残っています。
どうやら直政は、事務的能力に優れていた人物でもあったようです。
きっちり武功も挙げている
では、武将としての能力が劣っていたのか? と思われるかもしれませんが、そういうことではありません。元亀の争乱が終わり、織田政権が畿内での支配を固めた頃より、直政は合戦の最前線でも活躍。数度に渡る石山本願寺攻め、伊勢長島攻め、高屋城の戦い、そして越前一向一揆討伐などで武功を立てています。
特に、天正3(1575)年の越前一向一揆の残党狩りのエピソードが強烈だったので紹介させてください。興福寺大乗院の尋憲(じんけん)という僧が、越前の大乗院領を安堵してもらうため、越前に赴いたときの話です。
信長との対面後、直政の陣に寄った尋憲。なんと彼の前で、直政は百余人の農民の首をはねはじめたそう!
そのときの尋憲のショックは計り知れません。農民たちの命乞いをして許したもらったそうですが、お坊さんの前で人を殺すとは……凄まじい男です。
大出世! 南山城・大和・河内を支配
こういった戦いと前後して、直政は大出世を遂げていました。天正2(1574)年には南山城の守護、翌年には大和の守護、さらには河内の暫定的な支配者となったのです。この時期の直政には、柴田勝家ら宿老と同じクラスの勢いがありました。
にもかかわらず、直政は清須会議にも出席していませんし、その後の大きな戦いでも名前は出てきませんよね。そりゃ、そうよ。だってその前にこの世を去っちゃうんだもの。
直政の死と一族の没落
天正3(1575)年に行われた長篠の戦いでは、佐々成政や前田利家らとともに鉄砲奉行を務めた直政。繰り返すようですが、この時点では後に加賀百万石を築くことになる利家よりも、出世していたんですよ?ですが、翌天正4(1576)年の石山本願寺攻め(天王寺砦の戦い)で、直政は命を落とすことになるのです。
本願寺包囲網の一角を担っていた直政は、大和・山城衆を指揮して戦いを開始。しかし先鋒を務めていた三好康長軍が崩れると、直政軍も崩れ始めました。
そういった混乱の中、直政は討死。伏兵の待ち伏せにあったとも伝えられています。そしてこの戦いでは、直政だけでなく一族の多くも討たれることに……。
これだけでも一族にとっては痛手のはず。ですが、さらに信長は冷酷な処置を一族に与えます。
直政の腹心を罪人(おそらく負けたことが罪)として捕らえたのです。その後、大和の新支配者・筒井順慶も一族に厳しい対応を取りました。
こうして塙家は後継者なく断絶。直政の事績の多くが後世に伝わらなかったのは、この影響もあると思われます。
まとめ
武将としてのみならず、事務的能力にも優れていた直政。彼の討死後まもなく、代わりに天王寺砦を守備した佐久間信盛が大阪方面軍の司令官に任命されています。しかもその信盛には多くの与力がつけられ、織田家臣団でも最大規模だったといいます。信長は本願寺勢力を本気でつぶすつもりだったのでしょう。直政が生きていれば、もしかしたら彼が大阪方面軍の司令官になっていたのかも…。そんなことを考えたくなる、地味ながらも優秀な人物でした。
【主な参考文献】
- 谷口克広『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』(中公新書、1998年)
- 谷口克広『信長軍の司令官 -部将たちの出世競争』(中公新書、2005年)
- 谷口克広『信長と消えた家臣たち -失脚・粛清・謀反』(中公新書、2007年)
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第二版』(吉川弘文館、2010年)
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