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  • 織田信長
 2019/02/27

「塙直政」出世したのに!苗字すら正しく読んでもらえない?

織田信長の家臣には、有能な人材が多かったことはご存じかと思います。ですが、その中でも一時は秀吉や光秀をも凌ぐ、有力な武将だった「塙直政」について詳しいという方はそう多くないようです。

織田家中では出世を果たしながら、戦国乱世の途中で倒れたために、現代人からの知名度が低い直政。そのためか、苗字すらちゃんと読んでもらえないという現状があります。そこで今回は、そんな彼の生涯についてご紹介していきます。
(文=犬福チワワ)

苗字は「ばん」と読む

残念ながら、直政に関する資料は少ないのです。そのため生誕年や父母は不明。ただし直政は尾張国春日井郡比良(ひら)村出身であり、大野木村あたりを支配していたとみられています。

そして気になっているはずの苗字の読み方ですが、はなわ……ではありません! もちろん「はなわ」としている資料(『重修譜』)もあるのですが、他の資料から「ばん」と読むのが正しいと考えられています。SAGAやヤホーのイメージは捨ててくださいね。あっ、古いですか?

さて、直政は塙の他にも、「原田」という姓を名乗っていた時期もあります。これは天正3年、九州の名族・原田氏の姓と受領名を与えられたためです。それ以降、直政は「原田備中守直政」を名乗っています。

事務的能力に優れていた

それでは、直政のキャリアについて見ていくことにしましょう。先ほども書きましたが、直政は謎の多い人物。信長に仕官し始めた時期も定かではありません。とはいえ尾張出身であり、赤母衣(ほろ)衆(信長の親衛隊のような存在)にも選ばれていたことはわかっています。そうなると直政は、初期からの家臣だったのではないでしょうか。

このように、信長のすぐそばに仕える“エリート仕官候補生”の一人だったと考えられる直政。にもかかわらず、信長の上洛(永禄11年/1568)まではまったく資料に出てこないのです。

そして上洛以後、よく直政の名前が出てくるのは合戦の記録ではなく、行政文書。例えば着岸する船に対する指示や、寺領についての処分を出したことなどの記録が残っています。どうやら直政は、事務的能力に優れていた人物でもあったようです。

きっちり武功も挙げている

では、武将としての能力が劣っていたのか? と思われるかもしれませんが、そういうことではありません。

元亀の争乱が終わり、織田政権が畿内での支配を固めた頃より、直政は合戦の最前線でも活躍。数度に渡る石山本願寺攻め、伊勢長島攻め、高屋城の戦い、そして越前一向一揆討伐などで武功を立てています。

特に、越前一向一揆の残党狩りのエピソードが強烈だったので紹介させてください。

興福寺大乗院の尋憲(じんけん)という僧が、越前の大乗院領を安堵してもらうため、越前に赴いたときの話です。
信長の対面後、直政の陣に寄った尋憲。なんと彼の前で、直政は百余人の農民の首をはねはじめたそう! そのときの尋憲のショックは計り知れません。農民たちの命乞いをして許したもらったそうですが、お坊さんの前で人を殺すとは……凄まじい男です。

大出世! 南山城・大和・河内を支配

こういった戦いと前後して、直政は大出世を遂げていました。天正2年(1574)には南山城の守護、翌年には大和の守護、さらには河内の暫定的な支配者となったのです。この時期の直政には、柴田勝家ら宿老と同じクラスの勢いがありました。

にもかかわらず、直政は清須会議にも出席していませんし、その後の大きな戦いでも名前は出てきませんよね。そりゃ、そうよ。だってその前に死んじゃうんだもの。

直政の死と一族の没落

天正3年(1575)に行われた長篠の戦いでは、佐々成政前田利家らとともに鉄砲奉行を務めた直政。繰り返すようですが、この時点では後に加賀百万石を築くことになる利家よりも、出世していたんですよ? 

ですが、翌天正4年(1576)の石山本願寺攻め(天王寺砦の戦い)で、直政は命を落とすことになるのです。本願寺包囲網の一角を担っていた直政は、大和・山城衆を指揮して戦いを開始。しかし先鋒を務めていた三好康長軍が崩れると、直政軍も崩れ始めました。

そういった混乱の中、直政は討死。伏兵の待ち伏せにあったとも伝えられています。そしてこの戦いでは、直政だけでなく一族の多くも討たれることに……。

これだけでも、一族にとっては痛手のはず。ですが、さらに信長は冷酷な処置を一族に与えます。直政の腹心を罪人(おそらく負けたことが罪)として捕らえたのです。その後、大和の新支配者・筒井順慶も一族に厳しい対応を取りました。

こうして塙家は後継者なく断絶。直政の事績の多くが後世に伝わらなかったのは、この影響もあると思われます。

まとめ

資料が少なく、謎の多い塙直政。赤母衣衆に選ばれながらも、信長上洛以前の彼については記録が残っていません。しばらくは合戦での功績よりも、吏僚(りりょう)としての活躍が目立ちました。

ですが元亀の争乱以後は、次々と武功を挙げます。そしてついに、南山城・大和・河内の支配権まで獲得するという大出世を遂げたのです。ところが、天王寺砦の戦いの混乱の中で討死。直政亡き後の一族も、厳しい仕打ちを受けることになってしまいます。

武将としてのみならず、事務的能力にも優れていた直政。もし本能寺の変以後も生きていれば、どのように立ち回ったのでしょう。そんなことを考えたくなる、地味ながらも優秀な人物でした。


【主な参考文献】
  • 谷口克広『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』(中公新書、1998年)
  • 谷口克広『信長軍の司令官 -部将たちの出世競争』(中公新書、2005年)
  • 谷口克広『信長と消えた家臣たち -失脚・粛清・謀反』(中公新書、2007年)
  • 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第二版』(吉川弘文館、2010年)

【参考HP】




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