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  • 織田信長
 2019/05/09

「村井貞勝」京都出張所から信長政権を支え続けた事務官僚の生涯とは

村井貞勝の肖像画

織田信長の天下統一事業を支えていたのは、歴戦の武将たちだけではありません。もちろん、数々の戦で武功をあげる人材も重要ですが、信長政権を永続させていくためには、政治的な才能を持つ吏僚も、なくてはならない存在でした。

本記事では信長から絶大な信頼を寄せられていた吏僚の一人、村井貞勝の生涯をご紹介します。
(文=玉織)

信長の父・信秀の代から織田家に仕え、信長時代に頭角を現す

村井貞勝は近江の出身で幼名を吉兵衛といいますが、彼の前半生はほとんどわかっていません。誕生年も不明ですが、以下の3つの根拠から大体の時期は推測が可能です。

  • ルイス・フロイスが貞勝を「老年」の異教徒であると述べている
  • 貞勝の娘が天文8年(1539年)生まれの前田玄以に嫁いでいる
  • 天正4年(1576年)の時点で12~13歳の孫がいる(言継卿記)

これらを考慮すると、本能寺の変の頃は60代後半から70代くらいでしょうか。それを裏付けるかのように京都の大雲院に伝わる貞勝の絵は、頭を丸めた老人の姿で描かれています。

信長との年齢差で考えると、おそらく貞勝が20歳ほど年上だったのではないでしょうか。その場合、誕生年は永正11年(1514年)ごろということになります。

さて、そんな貞勝は信長の父・信秀の代より織田家に仕えていたとみられています。しかし、貞勝が歴史の表舞台に登場するのは信長の代になってからのこと。信長が家督を相続してほどなく、彼は主に織田家の財務面を請け負うようになります。

島田秀頼と組んで、側近ないし奉行として活躍していましたが、信長の上洛後は将軍邸の普請や皇居の修理などにも携わり、吏僚の筆頭格としてその名を知られるようになっていきます。

「京都所司代」として、多忙を極める毎日

天正元年(1573年)、信長は将軍・足利義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼした後、新たな行政機関として「京都所司代」を置いて貞勝を京都に常住させることにしました。

貞勝は以後、信長政権の京都出張所・所長として様々な政務にあたることになります。 京都は天下を収めるものにとって、重要な拠点となる地です。そこを全面的に任された貞勝は、よほど信長に信頼されていたのでしょう。

京都所司代としての貞勝の仕事には、以下のようなものがありました。

  1. 朝廷や公家との仲介役
  2. 寺社の統制
  3. 京都の庶政
  4. 警察・治安の維持

そのなかでも、業務の大部分を占めていたのが、朝廷や公家との関わりです。朝廷や公家方は貞勝を通して信長の近況や意思を把握するため、頻繁に貞勝と接触を持つようになりました。

朝廷や公家にとっては、もし信長の機嫌でも損ねようものなら、自分たちの地位だけでなく、命まで危険にさらされてしまうという危機感があったかもしれません。貞勝と良好な関係を築いたほうが得だと考えた公家衆もいたことでしょう。

貞勝の方も、御所に参内して献上品を渡したり、信長からの連絡事項を伝えたり、信長と朝廷や公家との仲立ちに忙しく動き回っていました。

そうした流れの中、貞勝の言葉は、信長の意思、とでもいうような雰囲気が朝廷や公家の中にも広がっていたのではないかと考えられます。それにつれて、貞勝の京都における権力も次第に大きくなっていったのです。

人心掌握に長けていた?!修理イベントのエピソード

天正5年(1577年)3月、貞勝は町衆を動員して、内裏の築地(土で塗り固めた塀)の修理を命じていますが、この時の方法はなかなか斬新です。

まず上京と下京をいくつかの組に分け、それぞれに仕事の分担範囲を割り振りました。町衆たちは受け持ちの区域に舞台を作り、飾り立てた稚児や若衆が笛や太鼓の鳴り物を鳴らして拍子をとり始めます。すると、それに合わせて町衆たちが踊りながら塀をつくという塩梅です。

このお祭り騒ぎには大勢の見物客が集まったようで、その中には公家や女官の姿もちらほらと。こうなると、がぜん張り切っていいところを見せたくなるのが人情というものです。

「他の組に後れをとるな」町衆が腕やスピードを互いに競い合ううちに、たちまち築地の修理は完了したといいます。

仕事そのものをイベント化することで、修理を行う町衆も見物の客も楽しませ、さらに満足度の高い成果を得る。人の心理をうまくついた貞勝の作戦勝ちですね。

おそらく信長は、こうした貞勝の才知にも目をかけていたのではないでしょうか。伝え聞いた信長が思わずニヤリとする姿が思い浮かぶようなエピソードです。

京都の民衆に禁裏への礼儀を再教育?

天正7年(1579年)5月21日、貞勝は公家衆の侍に禁裏の北門や庭を警護するように命じました。侍たちをキチンと15組に分け、さらに当番まで決めさせているところから、几帳面な仕事ぶりがうかがえますよね。

さらに、貞勝は京都の民衆に対して、次の3か条の禁止事項を掲示。

  1. 御所を見物する者が御殿の上に上がったり、のぞき見をすること
  2. 子どもたちが石つぶてを投げて瓦にぶつけたり、木の枝を折ったりすること
  3. 掃除を怠けているものは、きちんと行うこと

この3か条からは、当時、禁裏の権威がいかに失墜していたかが分かります。貞勝は侍たちに命じて、無礼な行いをする民衆を取り締まらせたのです。御所の人々は、この命を伝え聞いて、さぞほっとしたことでしょう。こうしたことで、貞勝は禁裏とのつながりをさらに太いものとしていったのかもしれません。

老体には堪える激務、時には倒れることも…

貞勝の京都での役割が大きくなるにつれ、本来の仕事である「京都所司代」の仕事の枠を超えたことまでも任されるようになっていきました。

例えば、北条氏の使者が上洛してきた折にその京都見物の世話をしたり、京都馬揃えでは道具の調達や馬場の普請を行ったりと大忙し。

信長が「京都のことは、貞勝へ」と、すべてを丸投げしていたのが大きな原因なのですが、いくら信頼できる家臣だからとはいえ、高齢の貞勝には少々酷というものです。事実、貞勝は何度も過労で床に就いていたこともあるようです。

山科言継、山科言経、吉田兼和の日記には、病気のため、あるいは休息のため貞勝への面会を断られたという記載が何か所か見られます。天正8年(1580年)の11月の病では回復までに数日を費やしたということですから、激務に次ぐ激務で、体力も限界に達していたのでしょう。

京都馬揃えが行われた翌天正9年(1581年)には出家して村井長春軒と名乗っています。村井家の家督は長男の貞成へ移りましたが、貞勝はそのまま京都所司代の職にとどまりました。

本能寺の変では信忠と命運を共に

天正10年(1582年)、上洛して本能寺に滞在していた信長に対して明智光秀が謀反を起こしました。世に言う本能寺の変です。

貞勝は本能寺の門前に居宅を構えていたため、謀反の知らせはいち早く耳に届いたと考えられます。貞勝は妙覚寺に滞在していた信長の長男・織田信忠のもとへ馬を飛ばし、謀反を知らせました。すぐにでも本能寺に駆けつけようとする信忠でしたが、貞勝は次のように説得を行います。

「もう、本能寺は絶望的です。これから明智軍はあなたを狙ってここへ攻撃しに来るでしょう。こちらよりも隣の二条御所の方が敵を防ぎやすいから、そちらに移って立て籠もるのがよいでしょう」

実は変の一昨年前、貞勝は本能寺の普請に携わっていました。

自らが監督して堀を巡らせ土居を築き、寺とはいってもある程度の防御能力は備えていたはずの本能寺。それが敵の手に落ち、主君を討たれたのですから、非常に悔しい思いをしたに違いありません。せめて織田家当主である信忠には生きてもらいたかったのでしょう。

しかし、信忠たちが二条御所へ移るや否や、御所を明智軍に包囲されてしまいます。そうこうしているうちに、京都のあちこちに散った信長の馬廻たちも集まっておよそ一千騎ほどの軍勢にはなったものの、光秀の軍勢の1/10程度の兵力にしかなりません。加えて、二条御所には武器の蓄えもない。どう考えても不利な状況でした。

そんな中、貞勝は二条御所を屋敷としていた皇太子誠仁親王を戦場となる御所から脱出させるべく、光秀との交渉を行っています。

光秀が脱出を認めたため、皇太子は軍勢に見守られて御所を無事に脱出。それと時を同じくして、明智軍の猛攻撃が開始されました。織田軍は3度光秀軍を御所から追い出しましたが、なんといっても多勢に無勢。本能寺の変勃発からおよそ3時間後、午前9時ごろにはすでに勝敗は決していました。

貞勝は息子の貞成、清次とともに討ち死に。主君である信長の後を追うようにこの世を去っていきました。

まとめ

合戦こそ専門外でしたが、吏僚としての立場で信長政権を支え続け、最期は主君と時を同じくしてその生涯を終えました。

天下の要である京都を取りしきり、宣教師であるルイス・フロイスに「都の総督」とまで言われた貞勝。彼がいたからこそ、信長は安心して自らの政権を運営していくことができたに違いありません。


【主な参考文献】
  • 谷口克広『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)
  • 谷口克広『信長軍の司令官』(中公新書、2005年)
  • 学研研究社『新・歴史群像シリーズ⑨ 本能寺の変』(学習研究社、2007年)



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