「伊東義祐」日向国伊東家の絶頂期を築き、凋落に追い込んだ男!

戦国時代の日向国に伊東家という大名がありました。この最盛期を築いたのが、当主である伊東義祐(いとう よしすけ)です。


彼の人生は、決して順風満帆ではありませんでした。幼くして父と兄を失い、家督を弟に奪われています。一時は命を狙われて僧となるなど、イバラの道を歩んで来ました。しかし当主となってからは大きな飛躍を遂げるのです。


地方の武将でありながら従三位にまで昇り、一時的に島津家を軍事的にも追い詰めました。彼は一体どんな出会いを経験し、どんな選択をしたのでしょうか。伊東義祐の生涯を見ていきましょう。


お家騒動の中で、伊東家の家督を相続


日向国の伊東家に誕生

永正9(1512)年、義祐は伊東尹祐(ただすけ)の次男として生を受けました。母は福永祐炳(すけあき)の娘です。初名は祐清といいます。


伊東氏の祖は、源頼朝から日向国地頭職を賜った工藤祐経と伝わります。
同氏はもともと藤原氏の流れを汲み、伊豆国の押領使(警察)となって伊豆の伊藤を領し、工藤を伊藤と改めました。
その後、さらに伊東と改称しています。


戦国時代に入ると、南九州でも力を持った勢力が勃興してきます。
肥後国では相良家、大隅国では肝付家、日向国真幸の北原家が勢力を持っていました。
しかしそれらの勢力を遥かに上回る勢力を誇ったのが、薩摩国の島津家と日向国都於郡の伊東家だったのです。


叔父の謀反

大永3(1523)年、父・尹祐が急死しました。『庄内平治記』には、島津方の北郷家の城を攻めていた際に矢を受けて戦死したとあります。義祐がわずか十二歳の時でした。


この事態を受けて、兄・祐充(すけみつ)が伊東家の家督を相続して当主となりますが、彼も天文2(1533)年に、若くして亡くなります。



こうした中、ほどなくして叔父の伊東祐武(すけたけ)が謀反。外祖父で実権を握っていた福永祐炳が自害に追い込まれてしまい、居城である都於郡城(とのこおりじょう)も祐武に占拠され、伊東家の全権を奪われてしまうのです。


後ろ盾を失って身の危険を感じた義祐は、弟の祐吉(すけよし)と二人で日向国を退去して上洛することを試み、日知屋の海岸から船を出しますが、反祐武派の家臣たちに引き止められます。


そこで伊東家の立て直しを決意した義祐たちは、老臣の荒武藤兵衛らと兵を募って挙兵。結果、祐武を自害させ、その一族を滅ぼします。こうして義祐・祐吉兄弟は都於郡城の奪還に成功しました。


都於郡城跡(宮崎県西都市)
都於郡城跡(宮崎県西都市)

弟と対立関係になるも、やがて伊東家当主へ

しかし伊東家の内紛が収まったわけではありません。今度は重臣の長倉祐省が弟の祐吉を当主に推薦して宮崎城に迎え入れ、ここに至って伊東兄弟は対立関係となってしまいました。義祐は身の危険を避けるため、富田郷に逃れ、同地で出家して仏門に入る道を選びました。


しかし天文5(1536)年、祐吉が二十歳の若さで世を去ります。彼が家督を相続して三年ほどのことでした。義祐はただちに還俗して佐土原城に入り、伊東家の家督を継ぎました。


仏事に傾倒していった義祐

当主となった義祐は足元を固めるために朝廷工作を行います。
朝廷に禁裏の修理費用として八百貫文を献上。その甲斐あって天文6(1537)年に従四位下に叙せられます。同年には室町幕府の将軍・足利義晴の偏諱を受けています。


義祐には政治的な後ろ盾を得ると同時に、自身の権威付けを行う意図があったと思われます。


「三位入道」と称して仏事に傾倒する

天文15(1546)年には従三位に叙されました。
地方の、それも武士としては異例の出世です。三位以上は「公卿」と言われます。


平安時代であれば、国家運営の中心となる位置でした。
足利将軍家と比べても、決して低くないほどの官職です。


しかし天文17(1548)年には、嫡男の歓虎丸が9歳で早世してしまいます。
義祐は悲嘆に暮れ、再び剃髪します。幼真寺という寺を建てて菩提を弔い「三位入道」と自らを称しました。


天文20(1551)年、仏事に傾倒した義祐は、佐土原に大仏堂を建立します。さらに大和国から仏師を呼び、大仏を造らせました。


翌年には京の金閣寺をまねて、金柏寺(きんぱくじ)を建て、大鐘を寄進。鐘の銘には「日薩隅三州大守藤原義祐朝臣」と刻まれていました。


義祐は国政よりも仏事に傾倒していったことで、多額の費用を浪費していきました。しかし、重臣たちに諌められたことで政務に邁進するようになります。


伊東家の絶頂と凋落

伊東四十八城と称される最盛期を築く

永禄元(1558)年から、義祐は真幸攻略を始めます。
真幸の北原家の家督に干渉し、土地の大部分を奪うなど強引なやり方でした。
ここで北原家を巡り、島津家も兵を向けて来るようになります。


永禄3(1560)年、島津家は幕府に伊東家との調停を依頼しています。
時の将軍・義輝は和睦命令を出しますが、義祐は従いませんでした。
ついには幕府政所執事である伊勢貞孝が日向国に下向する事態となります。


義祐は貞孝へ伊東家六代当主が賜った将軍家の御教書を掲げて抗弁しています。
そこには「日薩隅三ヶ国の輩は伊東の家人」とありました。
貞孝は偽書としつつも、やむを得ずに飫肥を幕府直轄領と定めて不可侵としています。


さらに、義祐は飫肥に出兵を続けます。
永禄11(1568)年、二万の兵を動員して飫肥城を攻撃。城主・島津忠親は降伏して、千町という広さの土地が手に入りました。


このとき、薩摩国の島津貴久は、大隅国の菱刈家との戦で手が回りませんでした。
結果、島津家は和睦を決定します。


義祐は政治的にも軍事的にも、周辺諸国を凌駕しつつありました。
このときの伊東家は最盛期を迎えていました。
日向国五郡を領し、四十八の支城を構えています。


義祐の居城である佐土原城の地域は、大きく発展し「九州の小京都」と呼ばれるほどに成長を遂げています。
しかし次第に義祐は横暴さが増し、奢侈に溺れるようになります。




伊東四十八城マップ(主要な城のみ)。色塗部分は日向国

木崎原で島津家に大敗して求心力を失う

元亀2(1571)年、薩摩国の島津貴久が死去しました。この機に乗じ、大隅国の肝付家が島津領に侵攻します。


義祐は同盟相手である肥後国の相良家に連絡を送ります。そこで日向国にある島津方の飯野城への挟撃を計画します。
伊東勢三千は、加久藤城を攻撃。しかし川上忠智が決死隊を率いて伊東勢の側面を攻撃するなど、苦戦に追い込まれます。
そこへ島津家の援軍が到着すると、伊東軍は退却を余儀なくされました。


一方で木崎原の伊東軍本隊に島津義弘が突撃します。伊東軍は義弘に殺到しますが、討ち取れません。
やがて島津方の援軍が到着。伊東軍の側面と背後から攻撃を仕掛けます。
結果、伊東軍では大将・伊東祐安をはじめ、多くの有力武将が討たれ、総崩れとなりました。
木崎原の敗戦により、義祐の求心力は低下していきます。


天正4(1576)年、島津義久は三万の兵を動員して高原城を攻撃。ここに島津家による日向攻めが本格化しました。


しかし義祐は奢侈に溺れて、事態打開については確たる手を打てません。
この頃、義祐の周囲に諫言を行う家臣はいなかったようです。


天正5(1577)年、義祐は嫡孫・義賢に家督を譲っています。これは周囲の不満を逸らそうとした可能性があります。しかし一門である福永家をはじめ、多くの城が島津家側に寝返るなど、義祐の周囲は敵で満ちつつありました。


漂泊の身となる

日向を捨て、豊後国へ逃亡する

義祐らは佐土原を放棄して、北の豊後国を目指すことにします。


しかし途上にある財部城主の落合兼朝が島津家に通じて道を塞ぎました。これには一時、義祐は切腹も覚悟したほどに追い込まれます。


一行の百人余りは西に迂回して米良山中から高千穂を越える道を選択。しかし険峻な山を猛吹雪の中で進むという強行軍です。
一連の逃避行は、島津軍の追跡や農民からの襲撃に脅かされたものでした。飢えと寒さやにも苦しめられ、自害する者も出ています。
豊後国に辿り着いた人数は、八十人を割っていたとも伝わります。


到着後、義祐らは失地回復のため、大友宗麟に日向攻めの援助を請いました。宗麟も日向国にキリスト教国を建設する夢を抱いていたと伝わります。


天正6(1578)年、大友宗麟は三万の兵を率いて日向国に出陣します。
しかし大友家は日向国耳川で大敗を喫し、重臣の多くを失ってしまいました。
結局、義祐らも豊後に居づらくなります。


天正7(1579)年、義祐は三男の祐兵(すけたけ)ら二十人とともに伊予国の道後に渡りました。
そこで河野通直の一族である大内栄運の知行地である寿玉庵に匿われています。


伊予での生活は厳しく、従者が濁酒や木綿の帯を追って売り歩いて生計を助けたと伝わります。


中国地方を流浪する

天正10(1582)年、義祐らは播磨国に移りました。
ここで祐兵は織田家臣・羽柴秀吉に三十人扶持で召し抱えられることになりました。


一方で同年、孫にあたる伊東マンショ(祐益)が天正遣欧少年使節として、ローマに向かっています。
マンショは大友宗麟の名代として選ばれました。
このとき、伊東家の次代を担う若者は育っていたようです。


天正12(1584)年、義祐は従者を連れて中国地方を気ままに流浪します。
それは翌年まで続きました。


途中で義祐は発病し、祐兵の留守宅がある和泉国・堺に向かいます。しかし便船の中で倒れ、面倒を嫌った船頭に砂浜に捨て置かれました。その噂を知った祐兵の夫人に発見されます。

堺の屋敷で看病を受けたものの、七日余りで亡くなりました。享年七十三。



【主な参考文献】
  • 「伊東義祐「伊東四十八城」の栄光と転落」 『日本の城 改訂版ー第83号』 デアゴスティーニ・ジャパン 2018年
  • 吉永正春『九州戦国の武将たち』 海鳥社 2014年
  • みやざきひむか学ネットHP 「戦国時代の宮崎」

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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