「藤堂高虎」7回も主君を変えた戦国武将! 伊勢国津藩の祖
- 2021/02/01
戦国時代は、下克上の時代だと言われます。当然のように主君に反旗を翻し、あるいは次々と所属先を変えたとイメージをされがちです。
藤堂高虎は、浅井氏から始まって七度も主君を変え、遂には津藩主にまで上り詰めました。「渡り奉公」とも称される彼の生き方は、ある意味で戦国武将の典型的な姿と言えます。
高虎は単純な立身出世のために、次々と仕官先を変えたのでしょうか。彼の生涯を見ていきましょう。
誕生~渡り奉公
近江の土豪一族
弘治2(1556)年、藤堂高虎は、近江国犬上郡藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男として生まれました。幼名を与吉といいます。
藤堂氏は古代に栄えた中原氏の系統と称します。先祖代々在地の小領主でしたが、父の虎高は藤堂家に養子入りをしているので、血縁はありません。
高虎が十三歳の時、最初の仕官先が決まります。近江国の浅井長政でした。
元亀元(1570)年、浅井氏と織田信長との戦いである姉川の戦いが初陣であったようです。
高虎は小谷城在番でありながら敵の首級を挙げ、小谷城の籠城でも名を上げました。
その活躍ぶりは、長政からの感状を受けるほどだったと伝わります。しかし天正元(1573)年、浅井長政は小谷城の戦いで織田信長に滅ぼされてしまいました。
渡り奉公の始まり
ここから高虎が主君を次々と変える「渡り奉公」が始まります。
高虎は次の仕官先を浅井氏の旧臣である山本山城の阿閉貞征に決めます。
次に同じく浅井旧臣で、織田家臣となった高島郡の磯野員昌の家臣となりました。
しかしいずれの場所でも人情沙汰を起こすなどで、長続きしていません。
後年の高虎からは想像できませんが、かなりの短気であったようです。
高虎はこうして仕官先を転々としていきました。しかし彼には高く掲げた理想がありました。既にこのときには目標を城持ちにしていたようです。
高虎は阿閉氏の元から去って浪人であったとき、三河国吉田宿の吉田屋で餅の無銭飲食をしています。
このとき正直に白状して謝罪しました。吉田屋の主人は代金を免じた上で、路銀を与えて餅を土産として渡したと伝わります。
これは後に講談や浪曲にもなり、大名になった高虎が参勤交代の折に吉田屋に立ち寄り、持ち代を返したというオチになっています。高虎の旗印は、このことから「白餅」となっています。これは「城持ち」にかけているようです。この時の恩を忘れぬよう、旗印にしたと伝わります。
その後、高虎は磯野員昌の養子になっていた織田信澄の配下となりました。信澄は信長の甥にあたります。
高虎は丹波などで戦功を挙げますが、二年ほどで信澄の元を去りました。
この段階で高虎は、四人の主君に仕えたことになります。しかしここまでのいずれの主君も、最後は滅ぼされています。
高虎は、より敏感に自分と主家の立ち位置を考えて行動していたとも言えます。その結果が渡り奉公という行動だったのです。
いずれも長く浪人することはありませんでした。次々と奉公先を見つけるだけの能力があったのでしょう。
羽柴家の家臣となる
主君・秀長との出会い
天正4(1576)年、高虎はようやく腰を落ち着けることができました。羽柴秀長(秀吉の弟)の招きで、三百石で仕えることになったのです。
高虎は秀長の元で縦横無尽に働きます。丹波攻めで大山城を陥落させ、赤井氏や波多野宗高の支援を遮断するなど、大きな手柄を挙げました。
天正9(1581)年には、但馬国の土豪を討った功績により三千石を加増され、鉄砲大将に昇進しています。
その後も秀長のもとで中国攻めと賤ヶ岳の戦いに従軍。賤ヶ岳では佐久間盛政を敗走に追い込み、殊勲ともいうべき働きを見せました。ここでさらに千三百石を加増され、四千六百石の知行を取るに至りました。
対外交渉と築城の経験を積む
天正13(1585)年、高虎は紀州征伐にも参陣して目覚ましい働きを見せました。湯川直晴を降伏させ、雑賀党の鈴木重意を謀略によって自害に追い込むなど、錚々たる結果です。
高虎は、単純な槍働きだけでなく外交交渉の手腕を見せるなど、智将としての片鱗も見せています。
これらの働きにより、戦後に紀伊国粉河に五千石を与えられました。
同年には続けて四国攻めにも従軍。秀吉からさらに五千四百石を加増され、石高は一万石を超える大名となるのです。
なお、高虎は築城名人としても知られるように、この頃より築城に関わるようになります。秀長のもとで普請奉行となり、和歌山城や大和郡山城など、錚々たる城の修築を行っています。
家康との出会い
天正14(1586)年、高虎の将来を決める出会いがありました。
徳川家康が、関白である秀吉に謁見するために上洛して来たのです。そこで聚楽第の中に家康の屋敷を作ることになりました。
高虎は築城の腕前を見込まれたのか、秀長から作事奉行に任命されます。
渡された設計図に警備城の問題点を発見し、独断で設計を変更。費用は自らが負担した上でのことでした。
家康はこの高虎の心遣いに感謝しています。
天正15(1587)年には、主君・秀長が病に伏せるようになっていきます。
家老となっていた高虎は、名代として九州征伐に従軍。味方を救出する活躍を見せ、二万石に加増の上、正五位下佐渡守に叙任されています。
同17(1589)年には北山一揆鎮圧の拠点として赤木城を築城。これが高虎による最初の城だったと伝わります。
主君の死後、豊臣家の直臣となる
ここまでは、高虎のキャリアも順調に思えていました。しかし天正19(1591)年、長年仕えてきた主君・秀長が病で没してしまいました。
高虎は家老として後継の秀保を補佐し、翌年の文禄の役にも、名代として朝鮮に出陣。しかし文禄4(1595)年、秀康が病で早世してしまったのです。
高虎は主君の相次ぐ死によほど絶望したようです。出家して高野山に入ってしまいました。秀吉は高虎の才を惜しんで、たびたび使者の生駒親正を遣わして説得させます。
結局、高虎は説得に応じて還俗し、伊予国板島七万石の大名として復帰しました。出家前から五万石の加増ですから、秀吉が高虎を高く買っていたかがわかります。
慶長2(1597)年、高虎は慶長の役に水軍を率いて出陣。巨済島沖で元均の朝鮮水軍を破っています。その後、南原城の戦いと鳴梁海戦にも参加するなど、日本軍の主力級の活躍を見せています。
高虎は帰国すると大洲城一万石を加増されました。このとき、板島丸串城の大規模な改修を行い、宇和島城に改称しています。
徳川家康の寵臣となる
関ヶ原の調略で戦功を挙げる
慶長3(1598)年、高虎に次の転機が訪れます。秀吉がこの世を去ったのでした。
すでにこれ以前より、高虎は家康と親交を深めていました。
石田三成による家康暗殺計画の噂が流れると、高虎は身辺警護に勤めています。高虎は外様ながらも、既に家康の側近としての位置にありました。
慶長5(1600)年、家康は会津征伐のため関東に向かい、高虎もこれに従いました。その後、家康と高虎らの東軍は下野国小山で西に転進。関ヶ原へと向かいます。
関ヶ原の戦いの本戦では、高虎は西軍の中心人物と矛を交えています。大谷吉継隊、石田三成隊といった面々との戦闘でした。
高虎が最も功を挙げたのは、調略でした。脇坂安治や小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らが寝返り、東軍の勝利に大きく貢献しています。
戦後、高虎には本領八万石安堵の上、今治城十二万石が加増され、二十万石の大名となりました。ここで高虎は今治城を居城にしています。
徳川の一番手
慶長13(1608)年、高虎は伊勢国津藩二十二万石に加増移封されました。高虎は外様大名でありながら、譜代大名格として重用されていたのです。
慶長19(1614)年に大坂冬の陣、翌20(1615)年に夏の陣が勃発します。高虎は豊臣家の旧臣でありながら、いずれも徳川方として参陣しています。
高虎は河内国の八尾で敵の主力である長宗我部盛親隊と戦い、多くの死傷者を出しています。
この戦いの後、高虎は戦没者供養のために南禅寺の三門を再建するなどしています。
部下は勿論、敵すらも大切にする高虎の姿勢がわかります。
戦後、高虎は功績によって五万石の加増を受け、二十七万石を領するに至りました。
官位も従四位下に昇任するなど、家康の厚遇ぶりは変わりませんでした。
家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を称賛していました。
「国に大事があるときには、高虎を一番手とせよ」と家康は言ったと『徳川実紀』は伝えています。
家康のために宗旨を変える
大坂の陣の翌年である元和2(1616)年、家康が病に倒れました。
このとき、高虎は家康の枕元に侍ることを許されています。
高虎は家康に「来世でもご奉公させていただきたい」と言ったと言います。
家康は「わしとお主とは宗旨が違う。あの世では会えない」と返しました。
家康は天台宗、高虎は日蓮宗でした。高虎はすぐさま天海僧正を訪ねて即座に天台宗に改宗します。
家康の枕頭に戻りると「これで来世も大御所様にご奉公できます」と言上して涙を流したと言います。
当時の感覚から言えば、宗旨がえはかなりの決意が必要な行為です。高虎の家康への心酔ぶりが見て取れます。
津藩主として徳川将軍家を支える
和子入内を取り仕切る
家康の死後、高虎は変わらず将軍徳川秀忠に仕え信任を受けています。
元和3(1617)年には、新たに伊勢国田丸城五万石を加増され、津藩の石高は三十万石を超えました。遂には、徳川家のある対外交渉を担うことになります。
元和6(1620)年、秀忠の五女・和子が入内する際の露払い役を務めることになりました。
このとき、高虎は宮中の反対派公家の前で「入内ならぬ場合は、御所で切腹する」と強引に押し切っています。
和子入内は、徳川家と朝廷を結び付きを強める政策でした。
高虎が責任者の立場にあったのは、将軍の側近中の側近と認識されていたと考えられます。
百六十万石を統治する大大名
高虎の行政手腕は、さらにあらゆるところに発揮されています。
津藩では城下町建設と農地開発、寺社復興に取り込み藩政を確立させました。
しかし高虎の政治力は、そこに止まっていません。本領の津藩のほか、幕府の命令で諸藩の執政を行う立場にあったのです。
それが会津藩蒲生家、高松藩生駒家、熊本藩加藤家です。これらを合算すると、160万石余りの所領となります。一般的に言われる外様大名の最高石高は、加賀前田家の百万石です。しかし高虎は、それを大きく超える所領の統治を行なっていました。
高虎は諸藩の藩政の立て直しや、家臣団同士の対立解消に向けて努力していました。
高虎は政治家として、数カ国規模の影響力を有していました。それに裏打ちされるのは、幕府からの信頼と高虎の政治能力であることは間違いありません。
高虎の最期
元和9(1623)年頃、高虎は眼病を患っていたようです。
寛永7(1630)年には失明してしまい、同年に江戸の藩邸にて死去しました。享年七十五と伝わります。
戦国時代から江戸時代には、亡君を慕っての殉死が絶えませんでした。高虎は死ぬ前に家臣に殉死を禁じており、その上で殉死希望者の名前を幕府に届け出ています。
家臣思いと言うだけでなく、殉死という風潮に対する高虎の抵抗感が滲み出ている逸話ですね。
満身創痍だった高虎
高虎の死後、その遺骸が改められました。身長は六尺三寸(約190センチメートル)を誇る偉丈夫だったと言われています。
身体には銃創や槍傷が多く、右手の薬指と小指はなく、左手中指も欠損していたといいます。
戦国時代を戦い抜いた満身創痍の身体だったようです。
なお、江戸時代を通じて津藩藤堂家の家臣には高虎の遺訓が伝わっています。
「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし」という覚悟をといたものでした。
おわりに
高虎のイメージというと、築城名人、そして渡り奉公という言葉が浮かんできます。
確かに高虎は三大築城名人の一人に数えられるほどです。高虎の考案した層塔型天守は、その後の近世城郭のスタンダードとなりました。
幕府による天下普請では、江戸城の築城に携わった他、伊賀上野城や丹波亀山城などを築城しています。いわば戦国時代の城というのは、高虎が生みの親の一人だと言うこともできます。
渡り奉公という言葉については、必ずしも正しくはないようです。
藤堂高虎は主君を何度も変えたため、悪いイメージが先行していますが、決して主君を裏切ったり陥れたわけではありません。
本能寺の変の後、高虎は旧主・織田信澄の遺児・昌澄を引き取って家臣としています。その後、昌澄は豊臣家の家臣となりますが、大坂の陣では高虎と敵対関係に。しかし戦後の高虎のとりなしにより、家康に許されています。
また、高虎は慶長12(1607)年と元和9(1624)年には、旧主・豊臣秀長の法要を盛大に取り行っています。
たとえ徳川の世になろうとも、高虎は関わった人間を大事にしてきたことがわかります。むしろ、だからこそ大成できたと言える武将なのです。
【主な参考文献】
- 大山格 『〈戦国時代〉乱世を生き抜け! 藤堂高虎の処世術』 学研パブリッシング 2014年
- 谷口克広 『〈戦国時代〉世渡り名人の真実 藤堂高虎の合理主義』 学研パブリッシング 2014年
- 楠戸義昭 『戦国武将名言録』 2006年
- 津市HP 「戦国を武勇と知略で切り開いた武将 津藩祖 藤堂高虎(とうどうたかとら)」
- 三重大学HP 「藤堂高虎400年 三重大学188年」
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