伊達政宗の家督相続の背景、および父・輝宗の死の真相とは?
- 2021/02/26
父親である伊達輝宗に ”当主の器あり” と認められた伊達政宗。18歳という若さで伊達家の家督を相続しましたが、翌年には父輝宗が不可解な死を遂げています。
政宗が輝宗を殺したという説もありますが、はたして真相はどうなのでしょうか?今回は政宗の家督相続の過程、および輝宗の死についてお伝えしていきます。
政宗が輝宗を殺したという説もありますが、はたして真相はどうなのでしょうか?今回は政宗の家督相続の過程、および輝宗の死についてお伝えしていきます。
政宗の家督相続
父輝宗はなぜ41歳の若さで隠居したのか?
伊達輝宗は嫡男の政宗に家督を継がせるため、元服・結婚・初陣を急がせました。合戦に参加した政宗の挙動にも問題がなかったのでしょう。輝宗の政宗への家督相続は揺るがぬものになっていきます。天正12年(1584)10月、輝宗は隠居し、家督を18歳の政宗に継がせることを宣言しました。一時は辞退を申し出た政宗でしたが、周囲の後押しもあって、最終的には家督を相続します。この頃には家臣らも政宗の器量を認めており、反対の声も挙がらなかったのではないでしょうか。
健康であった輝宗が41歳の若さで隠居した理由は、未だに次男の竺丸(のちの伊達小次郎)に家督を継がせようと迫る正室・義姫を諦めさせるためでもあり、これまで続いてきた伊達氏当主の父子争いを事前に防ぎたいという狙いがあったと考えられています。
輝宗と政宗の共同統治
家督を譲った輝宗は、米沢城を政宗に託し、家臣である鮎貝安房の屋敷に移り住み、天正13年(1585)には米沢郊外の館山城に入りました。出家し、愛心という法名を名乗っています。早くに家督を譲り、父子で内政や外交を共同で行う統治方法は珍しくありません。おそらく輝宗・政宗父子も同じ形式であったと考えられます。ただし、周辺勢力との関係は政宗に家督を譲る前に、輝宗が大方を片付けています。
天正元年(1573)に織田信長と誼を通じたのをはじめ、天正2年(1574)には蘆名氏・二階堂氏と田村氏の間に和議を、同じく最上氏の父子の争いにも介入して和議を結んでいます。
二本松城の畠山氏も服属させることに成功し、また、対佐竹氏という立場から小田原の北条氏とも親密な関係を築いています。さらに天正5年(1577)には徳川家康、天正12年(1584)8月には台頭してきた豊臣秀吉とも通じているのです。
このように、政宗としてはかなり落ち着いた状態にある伊達氏を受け継ぐことができたということです。これまで争ってきた相馬氏とも休戦となっていますから、現状では真っ向から敵対している勢力はいなかったのです。
大内定綱との戦い
大内定綱の祝賀参向
そこに争乱の種火を持ち込んだのが安達郡小浜城城主の大内定綱でした。大内氏は蘆名氏や佐竹氏側に味方する勢力でしたが、政宗の家督相続の際、従属するために米沢城に祝賀参向しています。ここで定綱は妻子を米沢の屋敷に移すことを政宗に約束。翌天正13年(1585)正月に小浜城へと戻りました。しかしこの約束は果たされることはありませんでした。理由は蘆名氏の圧力に屈したためとも、家臣らの反対にあったためとも考えられています。どちらにせよ、定綱は心変わりしたのです。
大内氏は政宗の正室の実家である田村氏とも争っており、政宗は大内氏討伐に動きます。大内氏の後ろ盾を務める蘆名氏は家督相続で揉めており、秀吉の命令で1歳の亀若丸が当主となった時期でしたから、大きな隙があったのも確かです。
こうして政宗は長く縁戚関係にあった蘆名氏と敵対することをはっきりと決めたのです。
小手森城攻めの惨劇
同年5月、政宗は檜原口から蘆名氏勢力への侵攻を開始します。まずは関柴城城主の松本弾正の内応に成功し、そのまま猪苗代城の城主・猪苗代盛国の調略にも着手しましたが、こちらは盛国の子である猪苗代盛胤の反対によって頓挫しました。政宗は城砦を築き、これを家臣の後藤信康に任せ、戦略練り直しのため一時米沢に帰還します。政宗は、定綱の家臣で伊達郡刈松田城城主の青木修理を調略、8月には定綱の小浜城に向けて出陣しました。これには岳父の田村清顕も協力しています。一方で大内氏には蘆名氏の他、岩城氏や畠山氏が援軍を送っています。
政宗は8月下旬には安達郡小手森城を落とし、ここで男女800人を皆殺しにしました。政宗を裏切るとどうなるのかを周辺勢力の見せつける意味合いが強かったのでしょう。この惨劇の印象が強すぎたために、その後の悲劇が起こったのではないかと考えられます。
9月には定綱は小浜城を捨て、二本松城の畠山氏を頼りますが、10月には畠山氏も政宗に恐れをなして降伏を決めたので、定綱は会津へと逃れています。まさに政宗の圧勝でした。
輝宗はなぜ伊達勢に銃撃されたのか?
畠山義継の降伏
畠山氏はもともと伊達氏に服従を誓っていたわけですが、今回の件で伊達氏に敵対しています。当主の畠山義継は大内定綱とは縁戚関係を結んでおり、その兼ね合いで伊達氏を裏切らざるを得なかったのです。10月6日、義継は輝宗がいる宮森城へ和睦の相談をしています。ここで輝宗から示された和睦の条件が、杉田川と由井川の間の領地だけを安堵することと、子息を米沢へ人質として差し出すことでした。
和睦というよりも完全に降伏です。義継はこの条件を受け入れ、畠山氏の領地は二本松の五村だけに減らされることで降伏を許されたのです。伊達氏の外交に当主の政宗だけではなく、隠居した輝宗が強く係わっていたことを示しています。
問題は畠山氏の裏切りを政宗が本当に許す気持ちになっていたのかどうか、輝宗の決断に納得していたのかどうかということでしょう。
輝宗拉致事件
10月8日、義継は輝宗への礼のために宮森城を訪れました。短い時間の会見で終了したようですが、帰り際になって義継の態度は急変して輝宗を拉致し、10人ほどの家臣と共に二本松へと帰還しようとします。どうやらこの機会に義継を討つという話を義継の近臣が嗅ぎつけ、それを義継に伝えたようです。伊達氏前当主を人質にするという前代未聞の事件が起きたわけですが、政宗は裏切り者を許さないだろうという強い疑心が招いた結果なのかもしれません。この時、政宗は鷹狩りの最中で、報告を聞いて義継を追撃、二本松を目の前にした高田原の地で、輝宗もろとも義継を銃殺しています。
『成実記』、『性山公治家記録』ともに、政宗が鷹狩りに出かけていたことを記しています。だからこそ追撃した際には武装していたということです。宮森城から二里も後を追いかけていた留守政景や伊達成実らは慌てて城を出たために軽装でした。この用意周到さから、この事件は政宗が画策したのではないかという説もあります。
ただし、不利な状況から家督相続まで懸命にサポートしてくれた父親の輝宗を暗殺しようとしていたとはとても考えられません。小手森城での残酷な仕打ちが、義継を必要以上に神経質にさせ、武装して鷹狩りに出ている政宗の動きを聞きつけ、自分がやられると勘違いしたのではないでしょう。事前に輝宗を拉致するつもりであれば、もっと義継側も準備を整えていたはずです。
おわりに
結果としては父親を殺してしまった政宗には、恐ろしい戦国大名というイメージがより強くなってしまいました。父親殺しの陰謀論すら語られる始末です。ただし、伊達氏を束ねる者が政宗に一本化されたことで、伊達氏はより活発な動きがとれるようになっていくのです。【主な参考文献】
- 遠藤ゆりこ(編)『伊達氏と戦国争乱』(吉川弘文館、2015年)
- 小和田哲男『史伝 伊達政宗』(学研プラス、2000年)
- 小林清治『人物叢書 伊達政宗』(吉川弘文館、1985年)
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