「細川高国」細川宗家の争いを制して天下人になるも、最期は…

細川政元の養子であった高国は細川京兆家の家督を手にし、室町幕府第31代管領として義稙・義晴の2代にわたり政権を支えますが、その間も政元の死からの細川京兆家の内訌、いわゆる「両細川の乱」が長く続いていました。

澄之・澄元を破り家督を手にした高国でしたが、最後は澄元の遺児・晴元に敗れ、自害に追い込まれます。

細川野州家に生まれ、宗家の養子となる

高国は細川氏の分家のひとつ細川野州家の細川政春の子として、文明16年(1484)に生まれました。

このころに細川氏宗家・京兆家の当主だったのが、細川政元です。政元は修験道に凝り、妻帯せず実子もいなかったため、3人の養子を迎えました。まず、細川一族ではない澄之(九条政基の子)、次に澄元(阿波細川家出身)、そして高国です。

澄之は2歳で養子となり、代々嫡子が名乗る幼名「聡明丸」をもらっています。家督を継承する嫡男とみなされていたようですが、政元と折り合いが悪く、のちに廃嫡。細川氏の内衆の中で次の候補に挙がったのが、細川一族の生まれである澄元です。澄之廃嫡から政元暗殺にかけて、もっとも当主の座に近かったのは澄元でした。

ここで立場がよく見えてこないのが高国です。そもそも、高国はいつごろ養子になったのかも定かではありません。幼少期に養子になったともいわれますが、馬部隆弘氏は『戦国期細川権力の研究』「補論一 細川高国の家督継承と奉公人」の中で、高国の養子契約は幼少期限定で、元服するころには解消されていたのではないかと指摘しています。

それを示すものとして挙げられているのが、細川氏宗家と庶流家の計5座で200韻ずつ詠むという「細川千句」です。明応6年(1497)に野州家からは父・政春とともに高国が同席しはじめ、のちに高国単独になります。つまり、14歳になっていたこのころの高国は宗家の養子ではなく、野州家の一員とみなされていたというのです。

そうだとすれば、政元暗殺直前ごろの後継者争いは澄之派vs澄元派で、高国がほとんど蚊帳の外であったこととも辻褄があいます。

永正の錯乱、3人の養子の家督争いへ

政元の暗殺

永正4年(1507)6月23日、澄之派と澄元派の対立の末、澄元が優勢であることに焦った澄之派の家臣によって政元が暗殺されました(永正の錯乱)。首謀者は澄之の重臣である香西元長と薬師寺長忠らです。優勢であったはずの澄元は窮地に立たされ、澄之派の襲撃にあい一時は近江へ逃れます。

政元の葬儀は、政元を暗殺した澄之らによって執り行われました。その後、7月には澄之の家督が認められています。

澄之討伐

澄元の窮地を救ったのは高国でした。高国は澄元支持にまわり、ともに澄之を討ちました。澄元の下には高国ほか細川政賢ら多くの一族がつき、追い詰められた澄之は8月1日に自害します。


澄元との対立。両細川の乱のはじまり

高国の助けもあり、澄元は家督を相続しました。ところが、良好だった関係は一転。翌永正5年(1508)には崩れてしまいます。澄元のほうが高国を追い出したという噂もあったようですが、本当のところははっきりしません。

このころ、明応の政変で政元に将軍の地位を追われた足利義稙が上洛の動きを見せていました。あちこちを転々としていた義稙は最終的に周防国の大内義興を頼り、いま義興を伴って上洛しようというのです。

高国はこれに呼応し、義興とともに義稙と手を組みました。これにより、澄元と義澄は京都から追われることになり、義稙が再び将軍に就任しました。なお、京兆家の家督も高国が手に入れ、民部少輔から右京大夫へ。そして管領に任ぜられました。

以後、京を追われた澄元は上洛の機会をうかがいながら、永正6年(1509)6月17日の如意ヶ嶽の戦いにおいて三好之長とともに高国に挑みますが、大内の軍事力を味方につけた高国軍にあっけなく敗北。澄元はなおも政権奪回をねらい高国に挑み続けます。

この両細川による戦いは、義澄や之長の死、義稙の鞍替え、澄元無念の死を経て、やがては澄元の遺児・晴元が遺志を継ぎ、世代交代して登場人物をかえながら長く続くことになります。

高国と義稙

さて、管領に任ぜられた高国と、将軍に返り咲いた義稙の関係はどうだったのかというと、芳しくありませんでした。永正8年(1511)の船岡山合戦で澄元方を阿波に敗走させてからはしばらく京都も安定しますが、義稙の将軍再任からここまで功のあった高国や義興が大きな力を持ち続けました。義興に関しては、周防に帰ろうとするのを引き留めたのは義稙や朝廷(『実隆公記』)のようですが……。

永正10年(1513)、義稙は近江国甲賀へ出奔しています。理由は諸大名への不満のせいだなどとさまざまに噂されました。中には、醍醐寺理性院・厳助の『厳助往年記』の「対細川御述懐之故、御発心云々」のように、高国に不満があったことを示唆するような記録もあります。

政務を放棄し義稙のもとに送られた使者は帰京を促しますが、義稙は7つの条件をつきつけました。高国ら数名の大名は、義稙に背かないよう誓う起請文を書かされ、だいぶ譲歩して帰京させたようです。

その後、義稙を主に軍事面で支えた義興は義稙と徐々に不仲になっていったとか。また長引く在京期間中の国のことが気になっていたこともあり、永正15(1518)に周防へ帰国します。これ以後は主に高国が義稙政権を支えていくことになります。

しかし、大内軍を失ったことは大きく、永正17年(1520)、高国は澄元軍に敗れ、一時近江まで退却させられてしまいます。もともと高国の専横を嫌いうまくいっていなかった義稙。高国が頼りにならないと感じて澄元と接近するも、結局は巻き返した高国が澄元軍を破ります。

あてが外れた義稙。一度見限ったこともあって、再び手に手を携えて、とはいきません。大永元年(1521)3月、耐えきれなくなった義稙は再び出奔し、今度は淡路へ渡ります。ここでまた将軍を廃せられました。義稙自身は阿波細川氏を頼って再起するつもりがあったようですが、大永3年(1523)に阿波で病死しました。

高国と義晴

最後まで折り合いが悪かった義稙が出奔。高国はさすがにまた呼び戻そうとは考えなかったようで、とうとう義稙に見切りをつけて新しい将軍を擁立することにしました。足利義澄の遺児・義晴です。義澄といえば、義稙上洛時に澄元ともども京都から追い出した相手であり、その最期まで敵対していた人物です。義晴にとっては父の敵にあたるはずですが、ふたりの関係は良好でした。

播磨守護の赤松義村のもとで養育されていた義晴は、大永元年(1521)7月6日に上洛し、12月に将軍に就任しました。その直前の元服では、将軍加冠役を管領が務めるならいから、高国が加冠役を務めています。

義稙とは対照的に、義晴は高国の意見を尊重しました。これはもしかしたら、義稙が高国より20歳近く年長であったこと、逆に義晴は高国よりも30歳近く年少であったことも関係しているのかもしれません。将軍就任時の義晴はまだ10歳ほどの子どもであったため、「高国に都合よく利用されている」という認識があったとしても、ほかに後ろ盾もない幼い身では、義稙のように不満をはっきりと表明することもできなかったでしょう。

それに、高国に利用されているとしても、父・義澄が義稙に敗れたまま亡くなってからはそのまま忘れられ零落してもおかしくなかったわけで、拾い上げてくれた高国に恩を感じていたのかもしれません。

高国の最期

大永5年(1525)、高国は入道して「道永」と号し、嫡男の稙国に京兆家の家督と管領職を譲りますが、稙国は同年中に早世してしまい、再び管領に復帰します。

その翌年、高国の重臣同士で争いが起こります。高国は重用していた細川尹賢(細川一族で、高国の従兄弟)の讒言を信じ、重臣の香西元盛を殺してしまったのです。この一件で、高国は元盛の兄弟である丹波の波多野稙通(元清)、大和の柳本賢治の怒りを買いました。

波多野・柳本は、高国打倒の機会をねらっていた細川晴元(澄元嫡男)や三好元長(之長の孫)と連携。大永7年(1527)、高国は京都に入ろうとする彼らに敗れ、義晴を奉じて近江へ逃れました。これにより、晴元方は足利義維を擁立して「堺幕府」を樹立します。

これ以後の高国は、享禄元年(1528)に上洛して和睦をめざすも失敗に終わり、ふたたび近江へ。享禄4年(1531)、このとき高国は赤松政村に背いた浦上村宗を味方につけますが、6月の天王寺の戦いで三好・赤松の連合軍に敗れます。高国は逃れて大物の染物屋・京屋に隠れたものの捕らえられ、8日に同地の広徳寺で自刃して果てました。

あとがき

高国は自刃する前に交流のあった人々に辞世を送っています。そのうち、義晴に送ったものが『細川両家記』に記録されています。

「絵に写し石をつくりし海山を後の世までもめかれずそ見ん」
(絵に写し、庭に作った海山を、来世までも目を枯れずに見ていたい)

国立歴史民俗博物館所蔵の洛中洛外図屏風(甲本)には、屋敷の庭を眺める高国と思しき人物が描かれているといいます。小谷量子氏によれば、これは高国辞世と符合する姿であり、また甲本の注文者は義晴である可能性が高いとか。

室町幕府も応仁の乱以後は徐々に衰退し、特に政元による明応の政変ののちは将軍と管領の関係性も変わりました。高国自身、義稙時代は専横者として将軍に嫌われましたが、歴博屏風の制作背景が先述のとおりであるならば、義晴とは最後までいい関係であったと想像できます。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 小谷量子『歴博甲本洛中洛外図屏風の研究』(勉誠出版、2020年)
  • 馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年)
  • 日本史史料研究会監修・平野明夫偏『室町幕府将軍・管領列伝』(星海社、2018年)
  • 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
  • 国立歴史民俗博物館 歴史系総合誌「歴博」第145号

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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