「細川澄元」高国との覇権争いに敗れ、遺児・晴元に後を託す。

細川澄元(ほそかわ すみもと)は、細川京兆家の14代当主、室町幕府31代管領ですが、その地位にあったのは短い期間で、管領としての役割を果たしていたとは言いにくいところがあります。澄元はその後のほとんどを自身の地位を奪った高国との争いに費やし、一時は家督の座を取り戻すも、高国に敗北して無念の死を遂げます。

阿波細川家に生まれる

澄元は延徳元(1489)年に、細川氏の庶流である阿波細川家の細川義春の次男として誕生しました。

父は阿波国守護で、後継者としては澄元の兄である之持(ゆきもち)が定められており、父が亡くなると守護に就きました。

澄元が幼少期をどのように過ごしたのかはわかっていませんが、父を亡くした幼い澄元を養育したのは、文化人として知られる祖父の成之(しげゆき)であったようです。

細川政元の養子に

このころ、細川氏の本家である京兆家の当主であったのが政元です。

政元は修験道に大変凝っており、妻を持たず、女性を近づけることすらなかったそうです。そういうわけで政元には実子がいませんでしたが、摂関家である九条政基の子・澄之を養子に迎えていました。

澄之は嫡男でしたが政元と折り合いが悪く、また細川一族ではない澄之が家督を継ぐことに反対する内衆もいました。

文亀3(1503)年5月、政元が隠居すると言い出したことをきっかけに、内衆の薬師寺元一や細川一族の上野民部少輔らは澄元を養子に迎えて政元の後継者にしようと動き始めます。

これは政元の意向によるものではなかったため、当初養子の話を持ち掛けられた成之はしぶったようですが、同年中に澄元は政元の養子に決定し、将軍・足利義澄の偏諱を受けて澄元と名乗りました。

同時期、政元と折り合いが悪かった澄之は廃嫡されていたようです。澄元に遅れること1年、永正元(1504)年に元服し、同じく義澄の偏諱を受けて澄之と名乗りました。

代々の当主が継ぐ「元」の字は澄元がもらっていることからも、この時点で澄之が後継者から遠ざかっていたことがうかがえます。

ちなみに、政元にはもうひとりの養子・高国がいますが、いつごろ養子に迎えられたのかはっきりしません。実のところ政元の養子としては誰よりも早く候補に挙がっていたのですが、政元の隠居が延期されたことでこれもうやむやになったようです。

政元暗殺と後継者問題

澄元が養子に迎えられて以降、政元は澄元を伴って行動するようになります。このころ丹後の一色氏討伐に出陣していた澄之はこの状況に焦ったでしょう。同じころ、澄元派・澄之派の家臣同士が喧嘩沙汰を起こしており、後継者候補同士の対立は深まっていました。

澄元優勢の状況に焦った澄之派は、永正4(1507)年6月23日、政元を暗殺してしまいます。澄之の重臣である香西元長・薬師寺長忠らが起こした事件でした。

澄元は澄之家臣に襲撃されて逃れ窮地に立たされますが、高国が澄之を討ったことで無事政元の後継者として家督を継承しました。

永正の錯乱と人物相関
※参考:永正の錯乱(政元暗殺)の人物相関。()数字は出来事の年。

高国との対立

ところが、今度は高国と敵対することになります。

上洛した義稙が高国と手を組む

このころ、細川京兆家の騒動を好機ととらえた先の将軍・義稙が、周防の大内義興を伴って上洛する動きを見せていました。

澄元は義澄に味方するつもりでいましたが、高国が義稙と通じて手を組んだため、近江へ逃れることになりました。遅れて義澄も近江に没落し、空いた将軍の座には義稙がついて再就任を果たします。

澄元の細川京兆家の家督も高国に奪われてしまいました。

三好之長とともに京都奪回をめざす

澄元は、家臣の三好之長(ゆきなが)とともに阿波で軍の準備を進め、永正8(1511)年に細川政賢や細川元常、赤松義村らとともに深井城の合戦、芦屋河原の合戦に臨みます。どちらも澄元軍が勝利し、高国は丹波まで逃れました。

いよいよ高国を追い詰める決戦。そうして臨んだ8月24日の船岡山合戦でしたが、直前に義澄が急死したこと、出兵に反対した澄元軍の主力である之長が不参加であったことなどさまざまな悪条件が重なり、澄元軍は敗退。この戦いで総大将の政賢は討死しました。

それから間もない9月12日、澄元を養育した祖父の成之が亡くなり、澄元はすっかり意気消沈します。

一時は家督を認められるも、どん底へ

船岡山合戦で敗れてから数年の澄元の動きははっきりしません。再び登場するのは永正15(1518)年。この年の8月、高国を軍事面で大いに支えた大内義興が、周防に帰国しました。これは澄元にとって大きなチャンスです。

さらに永正17(1520)年正月、山城国で土一揆が蜂起し、高国を困らせます。これは澄元と呼応したものであったともいわれます。

2月、越水城の合戦で澄元・之長軍は越水城を落城させ、敗れた高国は近江へ逃走しました。この時、将軍・義稙は高国劣勢と見るや、高国に見切りをつけて澄元と手を組みます。義稙に京兆家の家督継承を認められ、澄元はにわかに返り咲きました。

ところが、高国の反撃は思った以上に速く、そして高国が得た味方は強大でした。5月5日、近江の六角氏や朽木氏らを味方にした高国軍はおよそ2万。これに澄元・之長軍から離反した兵が加わったことでおよそ4万にまでふくれ上がったとか。

この等持院の戦いで之長は大敗し、子の長光と長則、甥の新五郎とともに通玄寺塔頭曇華院に隠れました。しかしすぐ高国の知るところとなり、全員処刑されてしまいます。

病のため直接指揮を執ることはなかった澄元は、之長の死を知ると本拠地の阿波まで逃れます。再起の兵を挙げようにも澄元の病はかなり重く、阿波の勝瑞城で失意のうちに没しました。

澄元の死をもって高国との戦いに一区切りつきましたが、澄元の遺志は澄元嫡男の晴元、之長の孫の元長に引き継がれます。享禄4(1531)年6月、澄元の死からちょうど11年後、晴元と元長は長い戦いの末に打倒高国を果たすのです。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 日本史史料研究会監修・平野明夫偏『室町幕府将軍・管領列伝』(星海社、2018年)
  • 丸山裕之『図説 室町幕府』(戎光祥出版、2018年)
  • 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』(洋泉社、2017年)
  • 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
  • 長江正一著・日本歴史学会編集『三好長慶』(吉川弘文館、1968年 ※新装版1999年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。