「大内義興」乱世の北九州・中国の覇権を確立。管領代として幕政にもかかわった西国最大の大名

東滋実
 2021/05/18

大内義興の肖像画

大内義興(おおうち よしおき)は、名門・周防大内氏に生まれ、一時は周防・長門・豊前・筑前・石見・山城・安芸の7か国を有した中国地方最大の大名でした。当時、勘合貿易を独占していた義興は、強大な経済力と軍事力をもち、「流れ公方」こと足利義稙の将軍再任にも貢献しました。

周防大内氏の当主として

大内政弘の子として生まれる

大内義興は、文明9(1477)年に周防大内氏の当主・大内政弘の嫡男として誕生しました。幼名を亀童丸、六郎といいました。長享2(1488)年、政弘の嫡子として周防権介に任命されています。

家督相続と家中での争い

明応3(1494)年の秋、政弘は病により、家督を義興に譲りました。義興は大内氏の当主となり、左京大夫に任ぜられましたが、宿老・杉武明(たけあきら)が出家していた義興の弟・興隆寺別当・国衙目代僧尊光(大内高弘)を擁立しようとしました。

しかし、明応8(1499)年、武明の計画は未然に防がれ、2月、武明は義興によって自害させられ、弟の尊光は還俗して「高弘」と名乗り、この謀に加わっていた大友氏を頼って豊後へ逃れました。

実際に尊光擁立の動きがある前に、関連して重臣の陶氏内部でも争いが起こっていました。

陶弘護(ひろもり)が同じく大内氏重臣の吉見信頼に殺され、長男の武護(たけもり)が家督を継ぐも、出奔して出家。代わりに次男の興明が家督を継ぎますが、戻ってきた武護がこれを殺してしまいます。

おまけに武護は、「長門守護代の内藤弘矩が尊光を擁立しようとしている」と義興に讒言。まだ若く、家督を継いで間もない義興はこれを信じ、弘矩とその子の弘和を誅殺してしまったのです(内藤父子は武護に味方して政弘に殺されたという説もある)。

のちに冤罪がわかると、義興は内藤氏を再興させ、武護を誅殺しました。紆余曲折を経て、陶氏は末弟の陶興房が継ぐことになりました。

このように、名門家の当主といっても家中で複数の争いが生じたこともあり、地位の安定に苦心したことがうかがえます。

足利義稙政権を支える

義稙を山口で庇護

このころ、管領の細川政元によって将軍職を追われた足利義稙(義材・義尹・義稙、と時期によって名前が違うものの、便宜上義稙で統一)は再起するために、各地を転々とし、諸大名に軍事協力を求めていました。

足利義稙の肖像画
「流れ公方」の異名をもち、2度将軍職に就いた足利義稙(よしたね)。

しかし協力して上洛しようという者はなかなか現れず、義稙は最終的にかつて応仁・文明の乱において父・足利義視を総大将とする西軍に属していた大内氏を頼り、周防国に落ち着きました。

これが明応9(1500)年のこと。義興はそれから永正5(1508)年までの間、山口の地で義稙を保護しました。

上洛して軍事面で支える

時の将軍は細川政元に擁立された11代将軍・足利義澄(よしずみ)。しかし永正4(1507)年6月、細川政元が養子らの後継者争いによって暗殺されると(永正の錯乱)、細川宗家の京兆家は分裂。義澄の地位も揺らぎます。

というのも翌永正5(1508)年、義稙がこの機会に義興のもつ大軍を率いて上洛をめざすのです。

永正の錯乱と人物相関
※参考:永正の錯乱(政元暗殺)の人物相関。()数字は出来事の年。

周防の三田尻(現在の防府市)の港から大船70艘で摂津へ。その間に11代将軍義澄は京から近江へ逃れていました。一方、細川京兆家では、細川澄元が家督を継いで一旦は落ち着いていましたが、高国が義稙に従ったことで新たに対立が生まれ、澄元も近江へ逃れることになりました。

大内義興のもつ圧倒的な軍事力を前に、義澄や澄元は戦うこともできず、逃亡するしかなかったのです。こうして義興に守られた義稙は将軍再任を果たしました。

義興は以後も周防へ帰国することなく、義稙政権の軍事の要として在京しました。このころ、義稙政権は高国と義興が柱となって支えています。

管領職は斯波・細川・畠山の三家だけがつくことができるもので、大内氏は管領になることはできません。そのため管領代を称していたようですが、実態は管領とほぼ変わりない立場であったと考えられます。また、このころ義興は山城国の守護も兼ねていました。

大内氏の軍事力を維持したものとは?

ところで、大内氏は応仁・文明の乱で長く在京した大内政弘に続き、子の義興までもが義稙上洛以降長く京に留まったわけですが、二度も長きにわたって大軍の軍事動員を維持できるだけの力はどこにあったのでしょう。

領国支配の中で

義興は、明応8(1499)年の家中の内乱から間もないころ、惣国寺社領の糾明を始め、これに応じない寺社に対しては半済(はんぜい)分(荘園の年貢の半分を幕府支配下の武士が取得した)に加え、寺社取得分も合わせて没収しました。

本来、室町時代の半済とは、観応擾乱後、幕府が近江・美濃・尾張の三か国に対して本所領年貢半分を兵糧両所(兵糧米徴収を目的として与えた土地)とし、1年間に限って実施したのが始まりでした。

つまり、期間や範囲は限定的なもので、応急処置に過ぎないのですが、義興はこれを恒久化してしまったのです。そして、それが軍事力の強化に利用されたわけです。

義興は寺社領半済の恒久化に加え、臨時の加増段銭(たんせん/天皇即位・内裏修理・寺社造営などに際して徴収した税の一種)、出張課役を課すなどしたため、寺社・給人(主家に所領を与えられた武士)・領民の不満は膨らみました。このような大内氏の支配により、何度か徳政一揆が起こっています。

朝鮮・明との貿易

大内氏に莫大な富をもたらしたものに、朝鮮・明との貿易があります。これは、戦乱が続く状況下で、義興が長く在京できるだけの貴重な財源となりました。

対朝鮮貿易

大内氏は、義弘の時代から朝鮮と交易を行っていました。それから義興の時代までに、大内氏側から朝鮮への使船はおよそ80回も派遣されたといいます。それだけのやりとりがあったのは、朝鮮側の倭寇鎮圧要求に応えられるだけの力を大内氏が持っていたためでした。

朝鮮との交易は、教弘・政弘の時代が最も活発で、義興の代は永正7(1510)年の三浦(さんぽ)の乱をきっかけに行き詰まりました。

主な輸出品は献上品の名目で、鎧・鑓・刀剣といった武具や、絹織物、扇子・屏風といった工芸品、南方からの中継貿易品である胡椒・犀角といった生薬がありました。

一方、朝鮮からの輸入品には回賜品の名目で、大蔵経・綿布・紬布・正布・人参・虎豹皮・清蜜・花蓆(花茣蓙)などがありました。

対明貿易

朝鮮との交易が行き詰まった一方で、義興の時代は日明貿易を大内氏が独占した時代でもあります。明との勘合貿易は、明の皇帝に対して日本国の王(幕府)が朝貢する形式で行われました。

大内氏は享徳2(1453)年から参加し、続く寛正6(1465)年は幕府・細川氏・大内氏という編成で行われましたが、この時船や貿易品の調達は大内政弘に一任されていたようです。その後、大永3(1523)年の寧波(ニンポー)の乱を経て、大内氏は日明貿易を独占するに至ります。

主な輸出品は、刀剣・硫黄・銅で、そのほか扇・蒔絵・硯・漆器などの工芸品、南方の中継貿易品の胡椒・蘇芳などがありました。

一方の輸入品は、銅銭が主(室町幕府は貨幣を鋳造しなかったため、これを流通させた)で、そのほか生糸・書籍・北絹緞子・金襴などがありました。

大内文化

貿易を通じた外国との交流と、歴代当主の京都との接触により花開いたのが、「大内文化」といわれる独特な文化です。

正平15 /延文5(1360)年に本拠を山口に移した大内弘世が京を模した街づくりを始め、以来「西の京」と呼ばれる山口の街づくりは続けられました。

応仁の乱後には荒れた京を離れ、大内氏を頼って山口に滞在した公家・文化人が多かったとか。義興の時代には、連歌師・宗祇の弟子・宗碩を招いて古今伝授を受けています。

長い在京を終え、帰国

さて、話を元に戻します。

「流れ公方」義稙の将軍再任に助力し、上洛後も在京して政権を支えた義興は、義澄・澄元軍との戦いにおいて軍事面で大いに活躍しました。

永正8(1511)年の船岡山合戦に勝利して京都を奪回すると、朝廷からその功を賞せられ、翌永正9(1512)年3月26日に従三位に昇叙され、公卿に列しています。

このように、頼られて在京することおよそ10年。しかしその間に西国では山陰の尼子氏が勢力を伸ばし、また安芸の武田氏の侵攻も無視できなくなっていました。

帰国して対処する必要性を感じたのか、義興はとうとう永正15(1518)年に管領代を辞して周防に帰国したのです。

先述のように、日明の勘合貿易をめぐって寧波の乱が起こり、義興が高国と対立し不仲となったのも、京を離れる理由のひとつとなったものと思われます。

尼子氏との戦いの中で没す

帰国後の義興は、大永元(1521)年から安芸に出兵して尼子経久軍と戦いますが、安芸の銀山城(現在の広島市)主・武田氏や、桜尾城(現在の廿日市市)主・友田氏といった諸豪族がすでに離反の動きを見せており、尼子氏になびいていました。

そのため、大永3(1523)年に大内氏の安芸の拠点である安芸西条の鏡山城(現在の東広島市)が陥落するなど、当初は押され気味でした。

しかし、翌大永4(1524)年に厳島に入ると桜尾城を陥落し、さらに翌大永5(1525)年には安芸の毛利氏が尼子方から大内方に翻ったことで巻き返しました。ところが、享禄元(1528)年7月、陣中で病んだ義興は帰国し、そのまま同年12月20日に山口で死去しました。

享年は52歳。父の政弘や子の義隆に比べると、文化人というより武勇の人という印象が強い人物でした。義興没後は嫡男の義隆が家督を継ぎ、大内氏の最盛期を築くことになります。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 日本史史料研究会監修・平野明夫偏『室町幕府将軍・管領列伝』(星海社、2018年)
  • 米原正義編『大内義隆のすべて』(新人物往来社、1988年)
  • 山口市観光情報サイト 「西の京やまぐち」

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...


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