「尼子経久」下剋上で11州の太守となり、尼子を隆盛に導く

尼子経久(あまご つねひさ)は、北条早雲と並ぶ下剋上の典型といわれる武将です。幕府の守護体制が揺らぎ始めていた過渡期に、いち早く守護代から守護大名へ、そして戦国大名へと転じました。尼子氏の最盛期といえば、孫の晴久の代かもしれませんが、その礎を築き、最盛に導いたのは紛れもなく経久なのです。

出雲守護代の家に生まれ

尼子氏はもともと主君・京極氏の分家すじで、京極尼子家ともいわれます。南北朝時代、京極高秀の次男として生まれた高久が、滋賀県の尼子郷を与えられここに居を構えたことから「尼子」と名乗るようになりました。

尼子経久は長禄2年(1458)11月20日、出雲守護代の尼子清定の嫡男として誕生しました。初代・高久の曾孫であり、四代目当主にあたります。


幼名は又四郎といい、文明6年(1474)の17歳で上京。主君・京極政経の人質として過ごしました。いつごろから「経久」と名乗ったかは定かではありませんが、おそらく京極政経の偏諱を賜ったと思われます。政経がこの名になったのは文明9~10年(1477~78)頃のことなので、このころに経久の名を賜ったのでしょう。

家督相続後まもなく討伐される

経久の父・清定がいつ亡くなったかがはっきりしないため、家督相続の時期もよくわかっていませんが、おそらく文明10年(1478)か、その翌年ごろと考えられています。

無欲な人間だった一方で反逆心もあり

経久は無欲な人物として知られ、誰かが経久の持ち物をほめると何であってもそれを与えてしまうというエピソードがあります。たとえ庭の松の木であろうと引っこ抜いてコマ切れにしてでも与えるほどで、周囲を驚かせたといいます。

ただ、その無欲さと出世欲・反逆心は別だったのか……。経久は公然と段銭(だんせん/幕府が課した税)を無視するようになります。この時期はちょうど応仁の乱が終わったころで、幕府が弱体化していたころ。そういう状況もあってか、「税金なんか知ったことか」というナメた態度に出てしまったのでしょうか。

これは経久に限ったことでなく、父の清定も美保関公用銭の懈怠や主君・京極氏への抵抗意識があったとか。経久が京極氏の人質として都で数年過ごしたのも、こういった態度に出る尼子への牽制の意味合いもあったようです。

月山富田城を追われ、逃れ暮らす

文明14年(1482)、幕府は経久に文書を送り、段銭をかけ賦役をつとめるよう命じ、これ以上無視するなら実力行使に出るぞ、と注意したのですが、経久はこれも無視してしまいます。そのせいで、ついに文明16年(1484)、幕府は出雲・隠岐の国人領主たちに尼子経久討伐の命を下しました。

討伐の理由は以下の4つです。

  • 寺社の本所領を横領した。
  • 禁裏修理のための段銭を納めなかった。
  • さまざまな公役を怠った。
  • 幕府からの河内進発の命に従わず出兵しなかった。

こうして経久は居城の月山富田城から追われ、守護代の職を剥奪されてしまいます。空席となった出雲守護代には、塩冶掃部介(えんやかもんのかみ)がつき、月山富田城へ入城しました。

山陰で力を持っていた尼子氏がいともたやすく追われたのは、尼子の急速な発展が気に食わなかった国人領主たちの反抗もあってのことと考えられています。また、京極政経は尼子を追放した旨の報告を受けてこれを賞しているので、この時点で京極と尼子の主従関係は完全に崩壊していたのでしょう。

難攻不落で知られる尼子氏の本拠・月山富田城
難攻不落で知られる尼子氏の本拠・月山富田城跡

このとき27歳になっていた経久は、母・眞木朝親女(まきともちかのむすめ)の生家に隠れて富田城奪回のチャンスを待ったといわれています。

城を奪回し、事実上の出雲守護へ

経久が立ち上がったのは翌文明17年(1485)10月も終わるころ。経久は家臣の山中入道の山家を訪れ、協力を仰いだのです。山中入道は経久が涙ながらに月山富田城奪回、御家再興を願う姿に心動かされ、一族を集めました。

さらに、経久は鉢屋賀麻党(はちやかまとう)の力も借りました。この鉢屋賀麻党は毎年元旦に城内で芸能をするものたちで、一方で刀や槍などの武器をつくり兵士として行動することもあるという、芸能と技術を行う一党でした。

文明18年(1486)元旦。賀麻党は例年どおり烏帽子や素袍に身を包み(といいつつその下には鎧をまとい)、太鼓や笛を鳴らし歌いながら城内へ入りました。

いつもどおりのことなので城内でも彼らを警戒することなく、浮かれていたところへ装束を脱いだ賀麻党に斬りかかられ、城主・塩冶掃部介は討ち取られてしまいます。わずか130名ほどで城内450人以上の首をとった奇襲戦。経久はみごと月山富田城を奪い返しました。

経久は京極政経と和解しますが、数年後に政経が亡くなると、事実上尼子氏が守護をつとめるようになりました。

大内氏との対立

政経が死去する永正5年(1508)頃には出雲を平定していた経久。尼子氏が勢力を増すのをよく思わない国人領主たちも、早々に降伏して尼子の配下になっていました。もはや出雲に敵はいなくなっていた経久が目を向けたのは、当時中国地方で最大の力を誇っていた大内氏です。

大内の当主・義興が足利義稙を奉じて上洛したとき、経久も従っていたといいます。義興は手柄をあげたことで、永正9年(1512)に従三位に昇進しました。

大内義興の肖像画
大内義興の肖像画

公卿に列せられて出世したわけですが、このとき経久はというとこれといった活躍の記録もなく、当然叙勲もされていません。義興が出世していくのを指をくわえて眺めているしかできず、悔しがった経久は早々に本国へ引き上げてしまったとか。

このころから大内氏との小競り合いが続きます。

嫡男・政久の死

経久の嫡男・政久は、次期当主として経久に目をかけられ育った武将でした。武勇に優れ、一方で笛を好む教養人。詩歌・管弦に通じる政久を、後土御門天皇も評価したといいます。このころの尼子氏の活躍ぶりは経久だけでなく、この政久の力も大きいのです。

ところが、永正15年(1518)に政久が亡くなりました。反旗を翻した桜井宗門の磨石城を攻めたとき、政久は総大将をつとめ、夜には得意の笛を吹いて兵を鼓舞しました。ところが政久が笛を得意とすることを知った宗門が笛の音に向かって矢を射るよう命じると、政久はその矢に当たって亡くなってしまうのです。

次期当主として期待を寄せていた嫡男を26歳の若さで失った経久は怒り狂いました。我が子を殺された復讐とばかりに宗門を攻め、城中は誰一人降伏も許されることなく、討死、または切腹で果てたのです。

経久の誤算と家中の不祥事

思いがけない出来事とは続くもので、ここからは不運が続きます。まず、嫡男の政久を失ったことで後継者が不在となってしまった経久は、嫡孫の詮久(のちの晴久)が当主をつとめられるほどに成長するまで油断ができない状態です。

毛利 元就を逃す

このころ、尼子氏の勢力は出雲・隠岐のほか因幡・伯耆・但馬・美作・備中・備前。一方大内氏は周防・長門・石見・豊前・筑前・肥前と勢力をのばしていました。

尼子氏と大内氏は石見をめぐって小競り合いを続けている最中で、この周辺の国人領主たちはどちらにつくべきかと腰を落ち着けることもできず尼子か大内かと風見鶏のようにフラフラしていたのです。

1523年頃の毛利勢力図
1523年頃の大内・尼子・毛利勢力図。この頃の毛利は尼子方に属していた。

のちに尼子・大内両氏を破って中国の覇者となる毛利元就も同様でした。尼子の家臣として、詮久と兄弟の契りを結んだ数年後には嫡男の隆元を人質として大内義隆に送る(「隆」の字も義隆から賜っている)というどっちつかずの状態でした。

この先の尼子氏の衰退は、元就を大内へ走らせてしまったことが大きいのかもしれません。元就の家督相続に際して、経久は当初それを認めながらいらぬ横やりを入れてしまい、そのせいで元就は主家に不信を抱いたのでした。

経久は引き止めたようですがうまくいかず、みすみす逃してしまったのです。

三男・興久の反乱

今度は身内の反乱です。経久の三男・興久は塩冶興久と名乗って父の家臣として行動していましたが、やがて塩冶の所領を維持したいと考えるようになり、父に不満を抱き始めます。三沢氏・多賀氏といった、尼子氏に反する勢力と結んだ興久は、天文元年(1532)に謀反を起こします。

所領のことで不満を抱いたのももちろんですが、尼子家中での勢力争いも関係していたと思われます。経久が大内と対立していた最中のことでしたが、義興は両者から支援を求められ、経久を支援しています。

嫡男・政久を失ったことに始まり、有力な家臣・元就を失ったこと、そして実の子に反乱を起こされ自害に追い込まねばならなかったことなど、相次いで起こった出来事は経久をかなり憔悴させてしまったのではないでしょうか。興久の乱を鎮圧したころには、経久もすでに70歳をとうに過ぎた老齢です。

晩年の経久

天文6年(1537)、経久は80歳。戦に明け暮れた経久もとうとう限界を感じたのか、家督を嫡孫の詮久に譲りました。大内氏との戦いは依然として続いていましたが、詮久も24歳になり、任せてもいいころ合いだと思ったのかもしれません。

尼子晴久の肖像画
尼子晴久の肖像画

そんな中で起こったのが、天文9年(1540)の吉田郡山城の戦いの敗北です。

若く血気盛んな詮久は当主となってすぐに石見銀山を大内から奪い、さらには播磨まで勢力をのばして気をよくしたのか、尼子から大内へ鞍替えした毛利元就を討伐しようと吉田郡山城を攻めたのです。病床の経久、そしてその弟の久幸も反対しましたが、詮久は勢いのままに攻めてあえなく敗北。

尼子氏の家臣の中からも、主君を見限って大内へ走るものが続出しました。経久が亡くなったのは大内・毛利軍に大敗北した天文10年(1541)11月13日のこと。享年84歳でした。

下剋上で尼子を最盛期に導いた経久は、ちょうど尼子氏が頂点から下り坂へ転じていく瞬間を目にして亡くなったのかもしれません。詮久の代に最盛期はしばらく続きますが、すぐに勢力を失ってのちに毛利に敗れることになるのです。


【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)
  • 米原正義『出雲尼子一族』(吉川弘文館、2015年)
  • 妹尾豊三郎・島根県広瀬町観光協会『尼子氏関連武将辞典』(ハーベスト出版、2017年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。