なぜ信長と将軍義昭は不仲に?「主君と家臣」か「傀儡と支配者」か、決定的な認識の溝
- 2026/04/08
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足利義昭と織田信長。この二人の関係は、当初「蜜月」とも呼べるほど良好なものでした。流浪の身だった義昭が室町幕府の将軍の座に就けたのは信長の軍事力のおかげであり、信長もまた、勢力拡大のために将軍という「権威」を必要としていたからです。
永禄11年(1568)に上洛して将軍となった義昭は、信長を「父」と慕うほどの信頼を寄せていましたが、やがて二人の間には冷たい風が吹き始め、最終的には骨肉の争いへと発展します。一体、二人の間に何があったのか? その決裂の背景に迫ります。
永禄11年(1568)に上洛して将軍となった義昭は、信長を「父」と慕うほどの信頼を寄せていましたが、やがて二人の間には冷たい風が吹き始め、最終的には骨肉の争いへと発展します。一体、二人の間に何があったのか? その決裂の背景に迫ります。
※足利義昭の全体像を知る→「足利義昭」総合解説ページへ
初ケンカで信長が突如帰国
両者が初めて衝突したのは永禄12年(1569)10月のことと考えられています。この年の8月、信長は10万ほどの軍勢を率いて南伊勢の北畠氏を攻めました。しかし、予想外の抵抗を受けて、攻略は長期化。ここで存在感を発揮したのが義昭だったようです。このとき義昭は和睦の仲介役として動き、信長に有利な条件で開城させることに成功します。信長の次男・信雄を北畠の義嗣子とし、南伊勢を事実上織田の支配下に置いたのです。その後、戦果を報告するため上洛した信長でしたが、一週間もしないうちに立腹し、朝廷や将軍に何の報告もせずに、突如美濃へ帰国してしまいます。この不可解な行動には、正親町天皇も驚き、理由を調査させようと記録に残るほどでした。
義昭の理想は、将軍として室町幕府の威信を取り戻すことにありました。彼にとって信長は、あくまで幕府に仕える「有力な家臣の一人」に過ぎません。一方の信長は、義昭を主君として崇敬していたわけではなく、自らの存在感と発言力を高め、勢力を拡大するために利用したというのが一般的な見方です。
義昭の将軍就任以降、この根本的な思惑の違いが表面化していきます。初ケンカの正確な理由は不明ですが、一説に「北畠との和睦を差配したことで自信を深めた義昭が、信長に対して尊大な姿勢をとったため」という見解はあります。
義昭に釘を指す信長:「五カ条の条書」と「信長触状」
将軍となった義昭が存在感を発揮していくと、いずれは信長に不利な命令や待遇が発生する可能性があります。信長としては、義昭がこれ以上でしゃばった真似ができないように牽制しておく必要がありました。そこで信長は「諸大名を支配している実質的な統治者は自分である」と世間に誇示する、いわば将軍代行であることを示すため、二つの重要な書状をしたためます。ひとつは義昭に対する「五カ条条書」、もうひとつは諸大名に対する「信長触書」です。これらは永禄13年(1570)正月に同時に作成されたと考えられています。
五カ条の条書は、政治の実務を信長に委任し、義昭が独断で大名へ御内書(将軍の私信)を送ることを禁じるという、事実上の将軍縛りでした。これが初ケンカの後に信長が義昭に対し、「余計なことはするなよ」と突き付けた和解の条件なのです。
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一方、信長触状は、諸大名に対し「信長の上洛に合わせて、他の大名もそれを真似て上洛するように」と呼びかけたものでした。その通達先は甲斐の武田や、越中の神保、出雲の尼子など広範囲に及びます。さらに信長は、上洛命令に応じない朝倉氏に対し、将軍の上意と天皇の勅命を掲げて出陣(金ヶ崎の戦い)しました。
この軍列には幕臣や公家も加わっており、信長は自らが「将軍代行」であり「朝廷の保護者」であることを、天下に鮮烈に印象づけたのです。
表面上の協力関係、その裏側
信長による「傀儡化」が進むなか、義昭が即座に反旗を翻したかといえば、実はしばらくの間、融和状態が続いていました。しかしその裏で、信長に反発する本願寺、朝倉、浅井、三好といった勢力による「信長包囲網」が着々と形成されていきます。武田信玄もまた、元亀3年(1572)前半までは表面上の衝突を避けつつ、水面下で義昭らと接触を深めていました。義昭がこの時期まで信長と決裂していなかった証拠として、両軍が協力して三好義継や松永久秀と戦った記録が残っています。信長が近江に注力する隙を突いて挙兵した三好・松永連合軍に対し、信長の援軍と義昭の幕府軍が共闘し、これを撃破しています。
少なくとも元亀3年前半までは、両者はまだ同じ陣営として機能していたのです。
決定打となった「十七ヵ条の異見書」
転機は元亀3年9月。信長は義昭に対し、痛烈な批判を記した「十七ヵ条の異見書」を突きつけます。そこには、許可なき御内書の乱発や、私情による人事の不透明さなど、義昭の政治姿勢だけでなく、その人格までも否定するような言葉が並んでいました。
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信長はこの書状を単なる抗議文に留めず、広く世間に公開しました。「義昭は将軍の器ではない」と宣伝することで、義昭と戦うための大義名分を得ようとしたのでしょう。両者が激突するのはもはや明白でした。そう考えてみると、十七カ条の異見書が敵対の原因というよりも、敵対関係を明確にしたタイミングがこの時だったと考えるべきかもしれません。折しも武田信玄が西上作戦を開始した時期と重なり、両者の敵対は不可避のものとなりました。
元亀4年(1573)2月、以前から頻繁に信玄に御内書を遣わしていた義昭は、ついに打倒信長を掲げて挙兵します。信玄という後ろ盾を得て、時期を慎重に見定めての決断でした。信長の同盟者である徳川家康は「三方ヶ原の戦い」で信玄に惨敗し、信長は窮地に立たされます。しかし、ここで歴史を左右する事態が起きます。進軍途上の信玄が病没したのです。
最大の脅威が去った信長は、義昭に対して武力による威圧と和睦交渉を並行して進めます。一時は朝廷の仲介で和睦したものの、義昭は再び挙兵。最終的に降伏した義昭は同年7月、京から追放され、ここに室町幕府は事実上の滅亡を迎えることになります。
おわりに
信長は、最初から幕府を滅ぼすつもりはなかったのかもしれません。義昭の挙兵後も再三にわたって講和を申し入れ、追放後も義昭の命までは奪いませんでした。それは世間体を重んじた結果とも言われますが、義昭が「大人しく」信長の枠組みの中にいれば、幕府は存続していた可能性もあります。しかし義昭は、京を追われてなお、毛利氏を頼り、執念深く全国の大名へ御内書を送り続けます。その頑ななまでの「将軍」としての矜持こそが、かつての盟友・信長を不倶戴天の敵へと変えてしまったのでしょう。
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