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 2019/07/19

信長、将軍足利義昭を痛烈に批判。「十七カ条の異見書(1572年)」とは

屈辱を感じる足利義昭のイラスト

信長と義昭の決裂が確定的となったのが、元亀3年(1572年)9月に信長から義昭に呈出された「十七カ条の異見書」だとされています。その内容は痛烈に義昭を批判するものでした。なぜ信長はこのような異見書を作成し、さらにこれを諸国に広めるようなことをしたのでしょうか?

今回は十七カ条の異見書の内容とその影響力についてお伝えしていきます。
(文=ろひもと 理穂)

十七カ条の異見書の内容

さっそくですが、異見書に書かれている内容とは一体どんなものかを見てみましょう。

【第一条】宮中に参内されることについて、13代将軍足利義輝は怠りがちだったゆえに不幸な最期を遂げた。毎年怠りなく勤められるようにと入京時から言っていたのに、近年すっかり怠っているのは遺憾だ。


【第二条】諸国の大名に御内書を出し、馬などを献上させていることは、外聞もよくないので改めたほうがよい。もし必要な場合、信長に言ってくれれば、添え状を付けて取り計らう約束だったのに、そうしていない。内密で直接に指示するのはよくない。


【第三条】幕府出仕の人々で、よく奉公をして忠節を尽くしている者に相応の恩賞を与えずに、新参者で大した身分でもない者に扶持(=米や銭)を与えている。それだと忠・不忠の別も無用だろう。人々の評判も良くはない。


【第四条】最近、将軍と信長との関係悪化の風説があるが、将軍が将軍家の重宝類をよそに移動させたためことが京の内外に知れわたり、京都で騒然としているそうだ。将軍のために苦労して御所を建てたのに、重宝類をよそへ移し、今度はどこに居を移すのか。残念だ。そんなことをすれば、信長の苦労も無駄になってしまう。


【第五条】賀茂神社の所領の一部を没収し、岩成友通に与え、表向きはその神社の経費を負担するように厳重に言いながら、本当のところはそれほどしなくて良いと指示したことを聞いた。大体、このように寺社領を没収するのは良くないと思う。岩成が所領不足で困っているというから、彼の要求を将軍に聞き届け、また、将軍の御用を彼に命じようと思っていたのに、このような内密の取り計らいをしたのは良くないことだ。


【第六条】信長に対して友好的な関係にある者には、女房衆(幕府の女子職員)にまで不当な扱いをしているそうで、彼らは迷惑している。信長に友好的な者と聞いたら、特別に目をかけてもらったらありがたいと思うのに、逆に考えているとはいかなる理由があるのか。


【第七条】真面目に奉公している者に扶持を加給してやらないので、京都での暮らしに困っている者たちが信長に泣き言を言ってくる。 以前に私から将軍に彼らの扶持の件を伝えたが、誰一人加給されていない。あまりにも苛酷な処置なので、私は彼らに対して面目がない。


【第八条】若狭の国安賀庄(=福井県若狭町)の代官の件について、粟屋孫八郎が訴訟を起こし、信長がこれを取り持って色々と将軍に進言したのに、今に至ってまだ決裁されていない。


【第九条】小泉の身の回りの品のほか、刀・脇差などまで没収されたとのこと。小泉が故意に悪事を働いたのなら、徹底した処分をしても当然だが、偶発的な喧嘩で死んだ(喧嘩相手の誰か?)のだから、一般的に適用される法規どおりに処置されるのが正しい。没収までするのは、将軍の欲得ずくだと世間では思うだろう。


【第十条】世間一般の意見に基づき、元亀の年号は不吉だから改元したほうが良いと信長は言い、宮中からも催促があったそうだが、そのためのわずかな費用を献上しようとしない。これは天下のためなのだから、怠るのは良くない。


【第十一条】烏丸光康を懲戒された件で、息子光宣については当然だけれど、信長は光康を赦免なさるよう言った。しかし、光康から金銭を受け取って出仕をお許しになったそうで、嘆かわしいことだ。人や罪によっては過料として徴収することはあるだろうが、彼は公卿だ。こういうやり方は他への影響もあり、良くないことだ。


【第十二条】諸国から将軍に御礼をして金銀を献上していることは明らか。なのに内密に蓄えて宮中の御用にも役立てないのは、何のためなのか。


【第十三条】明智光秀が京の町で地子銭を徴収し、買い物の代金としたのに、その土地は延暦寺の領だと言いがかりをつけて預けておいたものを差し押さえたのは不当だ。


【第十四条】昨年の夏、幕府に蓄えてある米を売却して金銀に換えたそうで。将軍が商売するなどは古今東西聞いたことがない。今の時代だから蔵に兵糧米があることこそ、世間への聞こえも良いのだ。このようなやり方に信長は驚いている。


【第十五条】寝所に呼び寄せた若衆(=男色の相手のこと)に扶持を支給しようというなら、その場その場で何か褒美の物をやればいいのに、代官職に任命したり、道理に合わない訴訟の申し立てに肩入れするのは、世間から悪評が立っても仕方ない。


【第十六条】幕臣たちは武具・兵糧などには気を配らずに、もっぱら金銀を蓄えているそうで。これは浪人になった時のことを考えての準備なのだと思う。原因は将軍自身が金銀を蓄え、いざという時に御所を出るように見受けられるからだろう。部下の者たちは「さては京都を出奔するつもりなのか」と推察してのことだと思う。「上に立つ者は自らの行動を慎む」という教えを守ることは、(将軍に)出来ない事はないだろう。


【第十七条】世間では、「将軍は欲深いから、道理もウワサも構わないのだ」と言っている。百姓さえもが「悪しき御所」と呼んでいるそうだ。なぜこのように陰口を言われるか、今こそよく考えたほうが良い。


以上が十七カ条の異見書の大体の内容です。実際には将軍宛の書状なので、こんな偉そうな文面ではなありませんが、信長の不満や要望をわかりやすく伝えるため、あえて「だ・である調」で要約してみました。

義昭の人間性を批判した内容なのか?

異見書の内容を読むと、なんとなく両者の思いが色々と感じとれます。

義昭は信長に反発して、あえてその意にそぐわない行動をしているようにも感じます。というのも、2年前の永禄13年(1570年)には信長に五カ条の条書を突きつけられ、天下の政は信長に任せることという約定をさせられています。しかし、義昭は「自分は室町幕府の将軍」という自負があり、これに納得していなかったのでしょう。

一方、信長もまるで義昭の傍にスパイでも付けているかのように、かなり細かい行動まで調査していることがわかります。義昭をかなり警戒していたということでしょう。

この意見書は、もはや関係性を修復しようとか、幕政を正すために指摘しているというものではないように思えます。将軍としての模範的なふるまいを超え、義昭の人格に関わりそうなところまで踏み込んだ批判的な内容になっているからです。

信長はこうして、はっきりと「義昭は愚かな将軍である」と烙印を押したのです。

十七カ条の異見書の目的と影響力

義昭と信長の関係

ここまでの義昭と信長の関係については、別記事でも紹介しています。当初は自身の将軍就任への道筋を切り拓いてくれた信長に、父親に対するが如く信頼していた義昭でしたが、信長の本心を知った義昭は反信長勢力を築き始めていきます。

信長としては将軍としての義昭を利用できるだけ利用するつもりだったでしょうが、自尊心の高い義昭をこれ以上コントロールするのは難しいと感じ始めていきます。

義昭と信長は、いずれは正面からぶつかり合う運命だったのです。それは互いに承知したことでしょう。それでも表面上の友好関係は十七カ条の異見書が提出されるまでは続いていたことになります。逆に考えると、もはや衝突は避けられない臨界点まで達していたからこそ、信長はこの十七カ条の異見書で義昭を糾弾したと考えられます。

信長と信玄の関係

信長の目標は「天下布武」であり、美濃を支配して以降、一貫した行動を継続しています。勢力を拡大し、対抗勢力を排除してきました。信長がここまでの快進撃を続けられたのは、軍事力や経済力だけでなく、幕府や朝廷を味方に付けてきたことも大きな要素になっています。信長は他国に侵攻する大義名分が与えられたからです。

信長の最大の脅威は甲斐の武田信玄と、越後の上杉謙信でした。両雄は戦略に長け、戦に強く、名声は諸国にも鳴り響いています。信長はこの両雄の和睦の仲介役を務めるなどして、友好関係を深めてきました。敵対するには時期尚早と考えていたのでしょう。

上洛し勢力を拡大してきた信長でしたが、反信長包囲網が形成されている中で、謙信や信玄と敵対することだけは避け、下手に出てまで友好関係を継続させようとしているのです。

甲府駅前の武田信玄公像
甲府駅前の武田信玄公像

信長が十七カ条の異見書を出したのが元亀3年(1572年)の9月。そして信長と同盟関係にあった信玄がその関係を無視して上洛を開始したのは、そのわずが1か月後のことです。信長が信玄の侵攻に気が付いたのは、二俣城の攻防戦が始まる直前のことであり、信玄の別動隊が東美濃の織田方の岩村城に迫っていた頃だったようです。

はたしてこの十七カ条の異見書が、信玄出兵の引き金になったのでしょうか?

信長は信玄との衝突を覚悟していたのか?

信玄出兵に対する信長の反応

信玄の裏切りに対し、信長はかなりの怒りを示しています。この時の信長の謙信宛ての書状には、「信玄の所行は前代未聞の無道、侍の義理を知らない」、「もちろん永久に義絶する」と信玄をののしっています。

しかし、本当に信長は信玄の出兵、反信長包囲網への参加を予測していなかったのでしょうか?仮に信玄が上洛した場合、将軍義昭に逆らって幕府をないがしろにしてきた信長を討つ、という大義名分ができます。信玄は義昭を担ぎ上げることで、さらにその求心力は強まることでしょう。

そうなると信長は逆賊扱いされ、急速に勢力が衰えていくことになるはずです。信長はそれを阻止しようとしたのではないでしょうか?信玄が上洛する前にできるだけの手を打っておく。そのひとつがこの十七カ条の異見書だったように思えます。

義昭が挙兵するのは、信玄が三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍を打ち破った後の元亀4年(1573年)2月のことでした。

これまで義昭を煽った信長ですが、実は挙兵した義昭とすぐに和睦の交渉をしています。義昭との和睦交渉を進めながら、裏では十七カ条の異見書を大量に写し取らせて、諸国にばら撒き、「これだけ信長が諫言し続けているのに、義昭は聞き入れない」という構図を作ります。そして「義昭は悪、信長は正義」という宣伝活動を精力的に行っていくことになります。

この写しのひとつが信玄の手に渡り、それを見た信玄は「(信長は)ただの人間ではない」と唸ったと言います。まさに絶妙な信長の一手だったことを示しているのではないでしょうか。

まとめ

天下の動乱を鎮めようと活動している信長を邪魔する義昭は「悪」、また、仁義に反して上洛してくる信玄もまた「悪」。こうして義昭や信玄の勢力拡大を事前に食い止めるために、信長はあえて挑発的な十七カ条の異見書を作成したのではないでしょうか。

四方八方を敵に囲まれ、危機を迎える信長でしたが、打開する策を様々用意周到に準備しているところに信長の戦略眼の素晴らしさが感じられます。


【主な参考文献】
  • 奥野高広 『人物叢書 足利義昭』吉川弘文館、1989年
  • 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
  • 谷口克広『信長と将軍義昭 提携から追放、包囲網へ』中公新書、2014年



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