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 2018/12/02

信長、将軍足利義昭を散々に非難。「十七カ条の異見書」とは

信長と義昭の決裂が確定的となったのが、1572年(元亀三年)9月に信長から義昭に呈出された「十七カ条の異見書」だとされています。その内容は痛烈に義昭を批判するものでした。なぜ信長はこのような異見書を作成し、さらにこれを諸国に広めるようなことをしたのでしょうか?

今回は十七カ条の異見書の内容とその影響力についてお伝えしていきます。
(文=ろひもと 理穂)

十七カ条の異見書の内容

十七カ条の異見書の項目の要約

  • 第一条 内裏を尊崇しないことを改めること
  • 第二条 諸国の大名へ御内書を届け、馬などを所望することを改めること
  • 第三条 賞罰が明らかでないので改めること
  • 第四条 義昭と信長が不和になったという風説の影響で、義昭は多くの物を移動させ、そのおかげで京都は騒然としている。義昭のために二条城を築城したのに、なぜ他に移ろうとするのか、信長の苦労を無駄にするようなことを改めること
  • 第五条 賀茂の社領を家臣に与えたのは間違っている
  • 第六条 信長と親しい関係にある者に対しては、その女房衆にまで辛くあたっている
  • 第七条 真面目に奉公している者に扶持を加増してやらないため、信長は相談を受けた。そのため信長がその願いを義昭に伝えたが、義昭は行動に移さず、信長の面目を潰した
  • 第八条 若狭安賀荘の代官職の件で訴訟が起こり、信長がとりもったが、裁決がない
  • 第九条 小泉には何の罪もないのに、その女房衆が預けていた物を質に入れて、召し上げてしまった
  • 第十条 元亀の年号が不吉というので朝廷は改元したがっているが、幕府はその費用を献上しようとしない
  • 第十一条 信長が許しを願ったにもかかわらず、烏丸光康を勘当し、金銭を取った
  • 第十二条 なぜか他国から進上した金銭を隠している
  • 第十三条 智光秀が京都の地子銭を収納し、買い物の代金としたのに、山門領の地子銭だといいがかりをつけ、渡したさきから取りあげた
  • 第十四条 義昭は夏に蓄えた米で金銀を買っている。将軍が商売するなど聞いたことはない。今大事にするべきは兵糧米である
  • 第十五条 宿直の若衆に扶持を加増したいのならば、とりあえず何か褒美の物をやればいいのに、代官職を与えたり、無理な裁判をして所領を与えるなどして評判を悪くしている
  • 第十六条 奉公の大名衆は武具や兵糧に気を配るべきなのに、金銀の商売をしている。これは京都を捨て、牢人するつもりだという噂を生んでいる
  • 第十七条 義昭が欲によって私情を挟んで幕府の人事や待遇を行っているので、あしき御所と百姓までが呼んでいる。改めるべきだ

義昭の人間性を批判した内容なのか?

十七カ条を読んでいくと、明らかに義昭が信長に反発して、その意にそぐわない行動をあえてしているように感じます。

永禄13年(1570年)に信長は義昭に五カ条の条書を提出し、天下の政は信長に任せることという約定を取り付けているのですが、やはり自分は室町幕府の将軍だという自負のある義昭は納得していなかったようです。

しかし信長もまるで義昭のそばにスパイを付けているかのように、かなり細かい行動まで調査していることがわかります。信長もやはり義昭をかなり警戒していたということでしょう。

内容としては、もはや関係性を修復しようとか、幕政を正すために指摘しているというものではありません。義昭の人格問題まで踏み込んだ批判的な内容になっているからです。信長はこうして、はっきりと「義昭は愚かな将軍である」と烙印を押したのです。

十七カ条の異見書の目的と影響力

義昭と信長の関係

ここまでの義昭と信長の関係については、別記事でも紹介しています。当初は自身の将軍就任への道筋を切り拓いてくれた信長に、父親に対するが如く信頼していた義昭でしたが、信長の本心を知った義昭は反信長勢力を築き始めていきます。

信長としては将軍としての義昭を利用できるだけ利用するつもりだったでしょうが、自尊心の高い義昭をこれ以上コントロールするのは難しいと感じ始めていきます。

義昭と信長は、いずれは正面からぶつかり合う運面だったのです。それは互いに承知したことでしょう。それでも表面上の友好関係は十七カ条の異見書が呈出されるまでは続いていたことになります。

逆に考えると、もはや衝突は避けられない臨界点まで達していたからこそ、信長はこの十七カ条の異見書で義昭を糾弾したと考えられます。

信長と信玄の関係

信長の目標は「天下布武」であり、美濃を支配して以降、一貫した行動を継続しています。勢力を拡大し、対抗勢力を排除してきました。信長がここまでの快進撃を続けられたのは、軍事力や経済力だけでなく、幕府や朝廷を味方に付けてきたことも大きな要素になっています。信長は他国に侵攻する大義名分が与えられたからです。

信長の最大の脅威は甲斐の武田信玄と、越後の上杉謙信でした。両雄は戦略に長け、戦に強く、名声は諸国にも鳴り響いています。信長はこの両雄の和睦の仲介役を務めるなどして、友好関係を深めてきました。敵対するには時期尚早と考えていたのでしょう。

上洛し勢力を拡大してきた信長でしたが、反信長包囲網が形成されている中で、謙信や信玄と敵対することだけは避け、下手に出てまで友好関係を継続させようとしているのです。

そんな信玄が信長との関係を断ち切り、打倒信長の兵を挙げて上洛を開始したのは、1572年(元亀三年)10月のことです。突然の出兵に信長は驚くことになります。信玄の侵攻に気が付いたのは、二股城の攻防戦が始まる直前のことであり、信玄の別動隊が東美濃の岩村城に迫っていた時点だったようです。

はたしてこの十七カ条の異見書が、信玄出兵の引き金になったのでしょうか?

信長は信玄との衝突を覚悟していたのか?

信玄出兵に対する信長の反応

信玄の裏切りに対し、信長はかなりの怒りを示しています。この時の信長の謙信宛ての書状には、「信玄の所行は前代未聞の無道、侍の義理を知らない」、「もちろん永久に義絶する」と信玄をののしっています。

しかし、本当に信長は信玄の出兵、反信長包囲網への参加を予測していなかったのでしょうか?
仮に信玄が上洛した場合、将軍である義昭に逆らい幕府をないがしろにしてきた信長を討つという大義名分ができます。義昭を担ぎ上げることで、さらに信玄の求心力は強まることでしょう。そうなると信長は逆賊扱いされ、急速に勢力が衰えていくことになるはずです。

信長はそれを阻止しようとしたのではないでしょうか?信玄が上洛する前にできるだけの手を打っておく。そのひとつがこの十七カ条の異見書だったように思えます。

実はここまで義昭を煽っておいて、信長は挙兵した義昭と和睦の交渉をしているのです。義昭が挙兵するのは、信玄の西上が順調で三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が信玄に敗れた後のことになります。1573年(元亀四年)2月のことでした。

信長は義昭との和睦交渉を進めながら、裏では十七カ条の異見書を大量に写し取らせて、諸国にばら撒いています。これだけ信長が諫言し続けているのに、義昭は聞き入れないという構図が出来上がっているのです。そして「義昭は悪、信長は正義」という宣伝活動を精力的に行っていくことになります。

この写しのひとつが信玄の手に渡り、それを見た信玄は「ただの人間ではない」と唸ったと言います。まさに絶妙な信長の一手だったことを示しているのではないでしょうか。

まとめ

天下の動乱を鎮めようと活動している信長を邪魔する義昭は「悪」、また、仁義に反して上洛してくる信玄もまた「悪」。こうして義昭や信玄の勢力拡大を事前に食い止めるために、信長はあえて挑発的な十七カ条の異見書を作成したのではないでしょうか。

四方八方を敵に囲まれ、危機を迎える信長でしたが、打開する策を様々用意周到に準備しているところに信長の戦略眼の素晴らしさが感じられます。


【主な参考文献】
  • 谷口克広『信長と将軍義昭 提携から追放、包囲網へ』中公新書、2014年。
  • 奥野高広 『人物叢書 足利義昭』吉川弘文館、1989年。etc...




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