教養人・明智光秀と茶の湯 ~当代随一の茶人との交流と名品へのまなざし

和歌や連歌など、文化面にも明るかった光秀。この時代の多くの武将が茶の湯に夢中になっていたように、光秀も有名な茶人に師事して茶の湯をたしなむ武将でした。

光秀は茶道具や床に飾る美術品にもこだわりを見せており、その数々を見ると教養深さがよくわかります。

光秀と茶の湯の出会い

明智光秀がいつごろから茶の湯に親しみ始めたかはよくわかっていませんが、少なくとも光秀が師事した茶人らとの付き合いは、姉川の戦い前に堺へ行ったことが契機であったと考えられます。

姉川の戦いは元亀元(1570)年。光秀はこの合戦前、信長の命令で堺へ赴いています。鉄砲と火薬の調達のためでした。

このころ、信長は堺を支配し矢銭(軍資金)の徴収を課していましたが、これに積極的に協力したのが、倉庫貸付業を営む豪商の納屋衆でした。

その中にいたのが茶人グループの今井宗久(そうきゅう)(1520~1593)、津田宗及(そうぎゅう)(?~1591)ら。この二人と千利休の三人を合わせて天下三宗匠と呼びます。

この二人の茶人はどちらも武野紹鴎を師としており(宗及は紹鴎の門徒であった父から学ぶ)、流れは千利休と同じです。武野紹鴎の弟子とされる者のなかには、足利義輝、細川藤孝、荒木村重といった武士も名を連ねています。

光秀は堺滞在時にこうしたグループと付き合いを深めるうちに、茶の湯の影響を多分に受けていったと考えられます。

茶の湯の師匠

今井宗久

もとは今井出羽守宗慶に連なる家系で、地侍の家に生まれた人物です。武野紹鴎に茶の湯を学び、彼の娘婿となっています。

信長の矢銭の徴収の際に協力したほか、信長の蔵元にもなっています。茶人として足利義昭ともつながりがあったため、光秀が幕臣であったころにすでに交流があった可能性も考えられます。

津田宗及

同じく、堺の豪商である宗及。有力商家の天王寺屋の津田宗達の子です。もとは三好政康との交流が盛んでしたが、信長台頭後は信長近辺との付き合いを深めるようになります。

光秀の茶会に出るなど、親交が深かったことがうかがえます。光秀の死後、天下を取った豊臣秀吉にも気に入られ、利休、宗久と共に知行を与えられています。

三宗匠のうちではいまや千利休が最も有名ですが、もし光秀が天下を取っていたとしたら、宗久か宗及が茶の湯のトップに君臨したのかもしれませんね。

光秀主宰の茶会

光秀は信長から坂本城主を命じられてから、天正6-10(1578-82)年の5年間は坂本城で年2回の茶会を開催しています。

このころ、信長は並の武将には茶会を許可していなかったので、光秀がすでに信長に認められていたことがわかります。

そこには必ず宗及が招かれていました。宗及は連歌もよくしたため、光秀とは特に親しかったようです。ここでひとつひとつの茶会について詳細に説明することはしませんが、どの茶会でも光秀所蔵の高価な茶道具や美術品などが披露されています。招かれた人々の顔触れは、筒井順慶のような武士、山上宗二のような茶人など、その時々によってさまざまです。

細川忠興(光秀の娘・玉の夫)の邸で茶会が催された際には、光秀のほか細川藤孝ほか、連歌師の里村紹巴、商人の平野道是らが招かれています。当代きっての文化人が集う茶会であり、光秀が幅広い層と交流を持っていたことがわかります。

光秀が愛した茶道具は……

光秀が開催した茶会で、数々の逸品が披露されたことは先に触れましたね。そのなかには、信長拝領の平釜、藤原定家の色紙に定家所持の硯・文台、高麗茶碗、唐茶碗、大灯国師墨蹟、瀬戸焼天目など、歴史あるものから高価なものまで優れた品がありました。

光秀がよく茶会を開いた坂本城は現存していませんが、落城の際に明智秀満は名品が消失することを惜しみ、相手方(秀吉方)の堀秀政に書の名品などを託したと伝わっています。

坂本城落城後、長らくどこにあったかすら謎の城でしたが、昭和54年に遺構が発掘されました。出土した陶器類のなかには、美濃焼、信楽焼、常滑焼、瀬戸焼などの天目茶碗、舶来の青磁・白磁などもあります。

光秀の坂本城は一度落城したのち、秀吉によって建て直されているので、出土した陶器類が光秀のころのものであると断定することは難しいですが、この城で盛んに茶会が開かれ、名品が多数そろっていたことは確かです。


【主な参考文献】
  • 歴史読本編集部『ここまでわかった! 明智光秀の謎』新人物文庫、2014年
  • 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫、2013年
  • 新人物往来社『明智光秀 野望!本能寺の変』新人物文庫、2009年
  • 谷口克広『検証 本能寺の変』文芸社文庫、2007年
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』新人物往来社、1994年
  • 高柳光寿『人物叢書 明智光秀』吉川弘文館、1986年

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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