第六天魔王・織田信長のBL事情!伝説と史実の微妙な食い違いについて

 戦国武将人気ナンバー1の座に君臨する織田信長。天才的かつ独創的、カリスマあふれる絶対君主というイメージが強い人物ですが、近年では家臣団の結束に苦心したり、度重なる同盟者の離反などに苦悩したりする人間味にも注目されています。また正室の濃姫、いわゆる「帰蝶」との間に子はなかったものの、複数の側室に多くの子女を産ませた子だくさんであったことも注目されます。

 そんな中、伝説的ともいえる恋人が小姓の「森蘭丸」ではないでしょうか。その名の通り蘭丸は男性であり信長の側近にして寵童、そして本能寺で共に最期を迎えるという劇的な人生が印象付けられています。

 しかし、本当に信長は男色に耽溺していたのでしょうか。今回は信長が愛したというエピソードが語られる三人の小姓を取り上げ、史実ではどのように記録されているかを大まかに見てみることにしましょう!

信長と森蘭丸

 まずはこの人、もっとも有名といっても過言ではない信長の小姓、「森蘭丸」です。

森蘭丸のイラスト

 信長が愛した美少年というイメージがとても強い人物ではありますが、結論からいうとこの主従の間に男色関係があったことを裏付ける一次史料は見つかっていません。

 いずれも近世以降に記された、ある種創作性の強い文献にそういった描写が登場するといいます。そもそも「蘭丸」という名も当時の記録にはなく、「乱」という署名が確認できるのと諱(いみな)は「成利」であったことがわかっています。

 また、蘭丸(成利)の父は槍の名手として知られた「攻めの三左」こと「森可成(よしなり)」、次兄には「鬼武蔵」の異名をとり名槍「人間無骨」の遣い手として知られる「森長可(もりながよし)」です。

 このように森一族は剛毅な武闘派の家系であり、容貌・体格ともに迫力ある武将たちだったと考えられています。

 蘭丸もまたそうであったという確証があるわけではありませんが、少女と見まがうような細身の美少年といった後世のイメージとはかけ離れているかもしれませんね。

 もちろん、信長との間に男色関係がなかったという証拠でもありませんが、作られた「蘭丸像」があることには注意が必要でしょう。

信長と前田利家

 もう一人、信長との男色関係をイメージされるのが「前田利家」ではないでしょうか。いわずと知れた加賀百万石の礎を築き、豊臣政権下では五大老の一角として徳川家康がもっとも警戒した男ともいわれる武将です。

前田利家のイラスト

 若年時には傾奇者としても知られ、槍の名手として数々の武功を立てたことから「槍の又左」の異名をとった剛のものでもありました。信長の小姓経験者でもあり、その関係を匂わせるような記述は『亜相公御夜話』という文献に載っています。

 そこでは、安土城落成祝いの酒宴の折に、信長が家臣一人一人の労をねぎらったエピソードが掲載されており、利家の元に引き出物を渡した際「かつては秘蔵っ子として側で寝起きしたものだ」という内容の声掛けをしたとされています。それを聞いた他の君臣たちが同様にうらやましがったとされ、これらをもって信長と利家の男色関係の証拠とするものです。

 しかしこれも原文の文脈をよく見ると必ずしもそうとは言い切れず、親衛隊でもある小姓として主君の近傍で寝起きするのは自然なこととも考えられます。同僚の羨望のまなざしも男色関係を指したものではなく、信長に近侍したことへの名誉とも捉えられるでしょう。

 また原文には信長のコメントを「御戯言(おんざれごと)」と記しており、くつろいだ雰囲気の中での労いだったことが想像されます。したがって、これも必ずしも男色の記事とは限らないと考えられるようになっています。

信長と万見仙千代

 小姓は主君の近習として、秘書官のような役割を果たす場合がありましたが、信長が重用した小姓として「万見仙千代重元(まんみせんちよしげもと)」が挙げられます。

 世代としては森蘭丸(成利)の先輩にあたり、天正3~6年(1575~78)頃の文献にその名が頻出する人物です。

 重要な内政・外交の数々に関わり、戦の実況見分役である「検使」や諸大名との取次などを担当していました。出仕の時期は不明とされますが、小姓として重く用いられたことから信長の寵愛を受けたものと考えられてきたようです。

 当然のごとく実務手腕を発揮した有能な人材であったことがうかがえ、信長も信頼してさまざまな任務にあたらせたことが想像できます。しかし、これもまた男色そのものを示す事実とはいえず実際のところは不明です。

 仙千代は天正6年(1578)、初の実戦となった有岡城攻めで命を落とします。もし生きていれば、織田家をけん引する武将となったかもしれない人物ですね。

おわりに

 以上、これまで信長との関係を噂されてきた三人の小姓(経験者)について、少し否定的な立場から史実としての記録をみてきました。

 しかし、信長は清洲城を奪取する際に男色を利用して内通者を引き入れるなど、人間関係の機微を巧みに利用したことが記録されています。つまりは男色についても知見があり、その激しい感情を熟知していたともいえるでしょう。

 直接の男色を示す記事はまだ見当たりませんが、これから新出の史料があればそういった事実も明るみになる可能性があるかもしれませんね。


【参考文献】
  • 『性と愛の戦国史』 渡邊大門 2018 光文社知恵の森文庫
  • 『戦国武将と男色 知られざる「武家衆道」の盛衰史』 乃至政彦 2013 洋泉社

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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