現代社会とはこんなに違う!意外過ぎてビックリすることも多い、戦国期の性観念について
- 2020/09/04
いつの時代も人間同士の情というものは、あらゆる行動原理を支配するほどの大きな影響を歴史に与えてきました。そんななか、「性」に関する問題は決して避けては通れない、重要なテーマのひとつといえるでしょう。
現代社会においても性にまつわるトピックは枚挙に暇がありませんが、過去にさかのぼってそれを考えるときは、各時代における観念の違いを念頭に入れておく必要があります。
今回は特に戦国期を取り上げ、その頃の性観念について現代との違いを主軸に見てみることにしましょう。
現代社会においても性にまつわるトピックは枚挙に暇がありませんが、過去にさかのぼってそれを考えるときは、各時代における観念の違いを念頭に入れておく必要があります。
今回は特に戦国期を取り上げ、その頃の性観念について現代との違いを主軸に見てみることにしましょう。
現代的倫理観とは異なる、戦国期の性観念
まず、大きな前提として総合的な「倫理観」は、時代によって異なる部分が大きいという点を押さえておきましょう。性観念においてもそれは顕著なことで、たとえば婚姻についても武将や貴族では一夫多妻制が普通であったり、祭礼や年中行事の場が男女の自由交渉の機会となったり、現代的な感覚だけで測ることは難しいかもしれません。したがって、本コラムでは性観念についての「是非」や「良し悪し」を論じるものではないことをご了承ください。
少し意外に思われるかもしれませんが、中世を通じて戦国期までの女性の立場は、社会の中では決して弱いばかりのものではありませんでした。中世には金融業で成功した女性実業家が存在したことは有名ですし、治安のよくなかったであろう当時においても、女性が一人で、あるいは女性だけのグループで旅をすることもあったといいます。
また、当時の大きな寺社仏閣は老若男女が遠方から集うため、堂内や社殿は開放されて参詣客が雑魚寝する場になっていたことが知られています。そこでは自由な性交渉が行われることも珍しくなく、参詣によって子宝を授かったというタイプの伝承にはそういった事情が反映されているという説もあります。
婚姻についても離婚の多かったことがわかっており、これは武家や公家だけではなく一般庶民でもそうだったようです。
また、離縁の交渉は男性側からだけではなく女性側から行うこともあり、これは鎌倉時代にさかのぼる例ですが、『沙石集』には地頭に離婚調停を願い出る女性の話が掲載されています。
これらのことで重要なのは、戦国期の記録では離婚の経験が男女ともに、ほとんどマイナスのイメージを持たれなかったとされることです。
事実、戦国武将の妻は幾度も結婚することがあり信長の妹「お市の方」は再婚、徳川二代将軍・秀忠の正室「お江の方」は三度目の結婚で御台所になったという事実もあります。
さらに、男色の文化が浸透していたことも特徴的で、寺社や公家、武家の間でも当然のこととして認知されていたことがうかがえます。これらの点においては、性観念についてある種のおおらかさがあったといえるかもしれませんね。
当時の成人年齢は?
次に、戦国期の成人年齢が何歳くらいだったのかについてみてみることにしましょう。これはあくまで目安であり絶対的な基準ではなかったようですが、概ね第二次性徴、つまり男女ともに子どもをつくることができる身体状況の発育とリンクしていました。当然個人差もあったため、武将については元服式を迎えた年齢にばらつきがあります。
たとえば伊達政宗や島津義弘は11歳頃、織田信長は13歳頃、上杉謙信や徳川家康は14歳頃、武田信玄は16歳頃に成人の儀を迎えたことがわかっています。成人することは大人の一員として戦での初陣を飾ったり、妻を迎える準備を整えたりすることも伴います。
したがって、これに前後して相応の性知識を教授されたり、あるいは講習的な性交渉の体験を行ったりする習俗があったことも想定されています。
一方、女性の成人は「裳着(もぎ)」と呼ばれ、10代の前半には行われることが多かったようです。ただし当時の結婚は家同士・国同士の政治的な面も強く、男女ともに政略結婚のため幼くして成人の儀を執り行った例もしばしば見受けられます。
武将の初婚年齢と、その妻の初産の年齢は?
当時の成人が早かったことから、結婚の年齢もまた相応に早いものでした。信長や家康は15歳頃で正室を迎えており、元服からさほど時を経ずに結婚していることがわかります。政宗と信玄は13歳頃とさらに早く、信玄にいたっては最初の正室が夭逝したため、16歳頃で継室を迎えています。
それぞれの妻はというと同年代から数歳年上というパターンもありますが、中には伊達政宗正室・愛姫のように11歳頃という若さで結婚した例もあります。
双方、または一方が極端に若い場合は多分に政略的な婚姻という事情もあったでしょうが、前田利家正室として有名な芳春院(まつ)は、数え年12歳という若さで初産を経験しています。芳春院の例は特に早い出産ですが、当時は10代半ば頃で結婚して子どもを産むことは珍しくなかったようです。
おわりに:宣教師たちがみた、戦国の性観念
戦国期の日本の様相を客観的に知るための一次史料として、海外からの宣教師たちが残した記録が活用されています。当時の文化や風習、または言葉の発音などを知るための重要な史料ですが、日本人の性観念に関する言及も度々なされています。
先述したような女性の貞操観念や、離婚に対する抵抗感が希薄なこと、そして男色が当然のように行われていること等々、キリスト教的倫理観と相反する点が強調されています。
聖職者という職務柄か、感情的に嫌悪感を隠そうとしない筆致であることも目立ちますが、ある意味では現代人の感覚に近い面もあるかもしれません。
性観念の問題については、歴史を振り返るとき当時の人々の文化が現代とは異なっていた点に注意すべきという、わかりやすい例ではないでしょうか。
【参考文献】
- 『性と愛の戦国史』 渡邊大門 2018 光文社知恵の森文庫
- 「中世の結婚と離婚:史実と狂言の世界」『武蔵野大学能楽資料センター紀要 29号』高松百花 2018 武蔵野大学能楽資料センター
- 「キリシタン時代の婚姻問題について」『史学雑誌 109巻 9号』安廷苑 2000 公益財団法人史学会
- 「宣教師の見た日本―キリシタン時代の資料をもとにして―」『佛教文化学会紀要 1998巻 7号』柳堀素雅子 1998 佛教文化学会
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