美談だけでは語れない、戦国史の闇。陰惨なる「乱取り」とはなにか

 幾多の武将が命の火花を散らした戦国時代。その悲しくも鮮烈な生きざまは、現代の私たちにも大きなインパクトを与え続けています。英雄談や戦場の美談などが語り継がれ、古くから日本人に愛されてきた歴史上のテーマともいえるでしょう。

 しかしその一方で、戦闘の余波が近隣の一般人にも及び、凄惨な被害をこうむったという事実を忘れてはなりません。そこには奪う側と奪われる側が入れ替わりながら、泥沼の略奪が繰り返された歴史があります。

 今回はそんな、戦国史の闇の淵にフォーカスすることにしましょう。

乱取り(乱妨取り)とは

 戦国時代の戦闘において、戦闘区域に農村地帯が含まれることは珍しくありませんでした。

 城下や穀倉地帯等々、民間人を巻き込んでの戦火拡大は国力の疲弊や人心の乖離を招くため、当時から問題になっていたことがうかがえます。しかしその一方で、戦時における略奪行為を黙認し、それをある種の褒賞のようにとらえるという考え方がありました。

 このような行為を「乱取り(らんどり)」あるいは「乱妨取り(らんぼうどり)」といい、この略奪行為は食料や家財、金品などの物的資源だけではなく人間そのものも対象となりました。

 わかりやすい例でいえば、足軽など特定の農民層などから徴兵された一般兵は、食糧や装備を自身で用意しなければならないこともありました。しかし戦闘の期間は予測がつきづらく、食糧は個人で携行できる量にも限りがあるため、結果として「現地調達」という名目の略奪行為に頼るという状況を生み出しました。

 また、乱取りは下級兵にとっての稼ぎ場でもあり、生命維持の食糧を確保するという目的以上に財産としての穀物や家財、あるいは人身売買を目的とした人さらいなども公然と行われたといいます。

 また、軍を統率する側としてもしばしば兵卒のそういった略奪行為を容認、あるいは黙認することで褒賞としたり士気を保ったりという効果を狙ったことがうかがえます。

 乱取りの歴史そのものは詳らかではありませんが、戦闘という極限状態の中では古くから同様のことが行われたと考えられます。戦時国際法で非戦闘員への加害が禁じられた近代以降でもこれは変わらず、悲惨な現実といわざるをえません。

軍規で禁止された「乱暴狼藉」、しかし保証書は有料?

 戦国時代に横行していた乱取りですが、しばしば軍規でこれを禁じるという達しも出されています。人道的な理由はもちろんでしょうが、徹底的に破壊を受けた地域は復興も困難で、経済に大きな打撃を与えることが明白でした。

 また、侵攻した土地がそのまま自勢力の領国となるパターンも多く、無用の衝突を避けるのも重要な戦略と考えられたのでしょう。そういった場合、乱取りの禁止を布告する軍令が通達されました。

 これを「禁制(きんせい)」と呼び、それを明記して道ばたなどに立てた札を「制札(せいさつ)」と呼称しています。

 禁制は軍内に周知するばかりではなく、作戦行動の範囲となる土地にも発給されました。特に代表的な寺社などを宛先とするものが多く残され、万が一の場合はそういった命令書を提示して安全保障の担保としたものと考えられます。

 古いものでは中世はじめに禁制の例を見ることができ、現存最古では北条時政が文治元年(1185)、河内薗光寺宛てに発行した「乱入禁止」の制札があげられます。

 禁制の条項については一般人に危害を加えることのほか、竹木の伐採や放火、作物の無断接収などが定型的で、乱取りのことは「濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)」と表記されることが多いようです。

永禄11(1568)年9月に信長が発行した東寺の禁制
永禄11(1568)年9月に信長が発行した東寺の禁制。配下の家臣に向けて東寺境内で濫妨狼籍や陣取、放火等の禁止を命じた。(出所:東寺百合文書WEB

 禁制で乱取りを取り締まることには軍規の粛清もあったでしょうが、その後領地となるかもしれない地域をできるだけ温存したいという現実的な意図もうかがえます。

 また、特筆すべきはこれらの禁制を記した制札の発行は、有料で行っていた例も見受けられるという点です。

 戦闘中の安全を保障する制札を受け取る代わりに、金銭あるいは年貢米などの見返りが発生することを「礼銭(れいせん)」といいました。

 通常の祝儀や賄賂といった意味合いでのそれではなく、有料で安全保障の証書を入手するというスタイルは軍にとっての少なからぬ収入源になったと考えられています。例えば織田信長が永禄11年(1568)、法隆寺宛てに制札を発行した際の礼銭が700貫文だったといいます。

 貨幣価値の現代換算は難しく、当時の1貫文は10~15万円と諸説ありますが、仮に1貫文=10万円としても7000万円という巨大な額となります。

 それでも戦火を回避するためには、ほかの選択肢はなかったのではないでしょうか。それほどまでに、戦における乱取りや狼藉は惨憺たる被害をもたらしたのです。

おわりに

 乱取りの様子を示すもっとも有名な絵図は、「大坂夏の陣図屏風」ではないでしょうか。「戦国のゲルニカ」とも呼ばれるそれには逃げ惑う人々や、連れ去られ、あるいは暴行を受ける女性の姿などが生々しく描かれています。

大坂夏の陣図屏風 左隻(大阪城天守閣 蔵)
大坂夏の陣図屏風 左隻(大阪城天守閣 蔵)

 それは陰惨な戦の現実を忘れまいとする、哀しい意志のもとに制作されたのではないでしょうか。美談だけでは語ることのできない歴史の闇を直視することは、現代に生きる私たちに不可欠な視点に思えてなりません。


【参考文献】
  • 「毛利氏の制札の研究」『高崎経済大学論集 第55巻 第3号』 富澤一弘・佐藤雄太 2013
  • 「織田氏の制札の研究―信長発給文書を中心に―」『高崎経済大学論集 第54巻 第1号』富澤一弘・佐藤雄太 2011
  • 「福生市内の戦国文書について」『みずくらいど 2号』 久保田昌希 1986 福生市
  • 「戦国時代における制札(禁制)の研究」『ふびと 29』近世史部会 藤本幸晴 1968 三重大学教育学部歴史研究会
  • 国立歴史民俗博物館 中世制札一覧

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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