鬼島津は外科手術の達人だった?島津義弘の戦陣医術について

帯刀コロク
 2020/11/26

島津義弘の医術イラスト

「猛将」と称された武将はあまたあれど、畏敬の念を込めてそう呼ばれた人物の一人に「島津義弘」がいます。 いわずとしれた薩摩の大名で、その戦いぶりから「鬼島津」の二つ名もよく知られたものでしょう。

また、関ヶ原の戦いにおける退却戦では、殿(しんがり)を務める小部隊が敵の追撃を食い止め、全滅すると次の小部隊が繰り出して同じことをするという苛烈な戦法を実施し、強烈なインパクトを与えました。 全員が死兵となって本隊を生存させるこの捨て身の兵法は「捨てがまり」と呼ばれ、島津の名を歴史に刻み付けています。

「隼人」という呼び名でも知られるように古代より薩摩の士は勇猛とされ、義弘のエピソードからは剛直な戦闘集団の長というイメージが強いかと思います。ところが、その反面では家臣思いの愛妻家で、医療に対する理解と関心の深い人物だったことが伝わっています。

当時において現代的な意味での医療体制は未発達だったものの、刀槍による傷が日常茶飯事であった戦国の世では、その治療法は生き延びるための必須技術のひとつでありました。実は義弘はそういった戦陣での傷病治療に精通した、医術のエキスパートとしての顔ももっていたのです。

そんな義弘の戦陣医術とはどういったものだったのか、その概要を見てみることにしましょう!

戦陣の「金創医」

戦国時代、戦になると当然のように多くの傷病が発生しました。刀や槍による創傷・裂傷、矢尻や銃弾による傷等々、生命を脅かすものも少なくありませんでした。

また、そういった傷が元になっての感染症や皮膚疾患なども、当時においてはおそろしい症状だったでしょう。 これら金属性武器類に由来する傷を「金創(瘡)」と総称し、これを専門に扱う医師を「金創医」といいました。

戦傷の手当は戦の歴史とともに始まると考えられますが、日本史においては中世に登場した従軍僧侶ともいえる「陣僧」にその起源があるともいわれています。

特に時宗の僧侶の活動が顕著で、戦陣にあって敵方への使者・伝令の役割をはたしたり、戦死者の供養を行ったりと宗教的中立性に依拠した任務についていました。 かれら陣僧が負傷者の救護・治療にあたることがあったといい、戦場での金創への救急対応のノウハウを蓄積していったと考えられます。

今日でいう外科手術と、まじないの複合医療

いつ何時、刀槍や矢弾による傷を負うかもわからぬ戦国時代、速やかかつ確実な傷の手当は武将にとっての必須教養のひとつだったといっても過言ではありません。

勇猛果敢な戦いぶりで知られる島津の将兵は、捨て身の戦法も辞さないことから特に負傷率も高かったのかもしれません。猛将として名を馳せる島津義弘にとっても、将兵の傷の手当は重要な課題であったのでしょう。

義弘は自ら金創医術を学び、しかも家臣に教授したり自ら診察に出向いたりするなど、いわば本職の外科医師に相当する水準の技量・知識を有していたといわれています。

金創医術には多くの流派があり、当時でも10流以上におよぶスタイルが確認できますが、基本的な手当ての流れは一致しています。 おおまかに見てみると、止血にあたる「血止」、洗浄にあたる「疵洗」、縫合にあたる「疵縫合」など現代の外科と変わらないプロセスを踏んでいることを確認できます。

また、矢尻や銃弾が食い込んでいる場合にはこれを摘出する必要があり、臓器が飛び出してしまうような重傷でもこれを保温しつつ、患者の呼吸に合わせて体内に戻すなどの処置を行ったといいます。

傷の洗浄には専用の洗薬のほか焼酎を用いることもあったといい、経験的知識として自然に「殺菌」を行っていたようです。また、清潔な水の確保が確実ではなかった戦陣での知恵でもあるでしょう。

まだ麻酔もない時代のこと、それぞれの段階では気付け薬としての興奮剤、止血剤、術後には回復用の塗薬や内服薬等々、漢方の処方も並行して行われました。気付け薬を「問薬」、止血薬を「血縛」、回復薬を「癒薬」などと呼び、生薬の力を有効活用したことがわかります。

義弘が実施した医術の詳細はわかっていないものの、同時代の金創医術書からの類推では上記の手順・処方のほか、「呪文」による鎮痛効果も企図したことがうかがえます。

例として激痛をともなう手術の際には「日ノ玉ノ太郎ノ御子ニ我シアラバ タマコナンチクコナン ホロンソワカ」、骨折や筋の傷の治療では「キウキウツウ カウランナウラリ ソホソワカ」などと唱え、負傷者の気持ちを鎮めて催眠効果を引き出したといいます。

「ソワカ」という定型句から密教系の呪文である「真言(マントラ)」がベースになっていると考えられますが、ある種の心理療法も併用して最大限の施術を行ったといえるでしょう。

まとめ

猛将として名高い島津義弘ですが、家臣たちへの心遣いはその「外科医師」としての姿に象徴されているかのようでもあります。

また、金創医術には戦傷治療以外に、もうひとつ得意とする分野がありました。それは産婦人科における「助産」の技術です。

多くの出血をともなう出産はある意味で金創との類似性が高く、その処置には金創医術のノウハウを最大限活用することができたのです。

死と隣り合わせの戦陣医術の技が、新たな生命の誕生に貢献できる――。
もしかすると義弘も、そんな感慨をもって嬰児をとり上げたことがあったのかもしれませんね。


【主な参考文献】

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...

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